ひとつづつ、でも確実に、彼女の世界から色が消えていく。


 はじめはバタークッキーの色が突然に黒く塗りつぶされた。「焦げちゃったの?」と彼女が不思議そうに首を傾げながら指したのは、美味しそうに焼きあがった、紅茶によく似合いそうなクッキー。
 次は紅茶の色。「なにかの薬?」と眉をひそめる彼女のカップにミルクを加えて、ごめんね変わったミルクティーで、と言うと、微笑んだ。
 ミルクの色も消えた。「もうお茶はいいよ」と力なく微笑んだ彼女は、それまで一日の楽しみにしていたティータイムを、庭に咲く薔薇を世話する時間にかえた。
 薔薇の色も去った。「枯れちゃった」と肩を落す彼女は、翌朝の澄み渡った青空にふたたび元気をとりもどした。
 しかし空の色も、彼女に別れを告げた。「どうしてなの」と、彼女はその時はじめて泣いた。

「リーマスは私から離れていかないでね。お願いだから、ずっと一緒に居てね」
 彼女は僕の傍から片時も離れようとしなかった。いつもセーターの裾を握り締めて、時折り顔を覗きこむと、安心したようにため息をつく。満月の夜だけは彼女をはやくに寝かしつけて、次に彼女が目を覚ましたとき、自分が真っ黒に塗りつぶされていたら、という思いに後ろ髪を引かれながらも、そっと部屋を出る。このときほどに辛いものはない。

「夢の中で私はね、青空の下、薔薇の咲く庭でリーマスとお茶してるの」
 いつかジェームズとリリーが僕たちの家へ来たとき、彼女は嬉しそうにそう言った。二人はなんと答えていいか分からずに、ただ彼女の話を微笑みながら聞くだけだった。「リリー、髪を黒に染めたの?」と訊く彼女に、リリーの髪は薔薇の色だよ、とそっと耳打ちすると、ああそっか、と一瞬さびしげな表情を見せた。孤独な彼女の手を握ったリリーの目は涙におぼれていた。




 フルーツバスケットの鮮やかな色たち、隣の家のおじいさんの深い緑色のセーター、お気に入りの本の背表紙の色。ゆっくりと、少しずつ、彼女の目に映る世界の色が闇に呑まれていった。

「見えない、見えない」
 ただひとつだけ。暗い闇の世界で唯一光っていた色がついに消えたとき、彼女は涙さえも忘れた。
「リーマス、どこに居るの?見えないの……置いていかないで」
 ついに彼女は、僕の瞳の色を置き忘れていった。
 椅子から落ちて、空を掴むように手を降る彼女に、そっと近寄る。――落ち着いて、。僕はここに居るよ。 暗闇の中の彼女を驚かせないように、肩に手を置くよ、と告げてから小刻みに震える肩に手をあてると、彼女は縋りついた。――大丈夫。目は四つあるんだ。の二つの目は見えなくなったけど、あとの二つはまだ見えるはずだよ。 消えてしまいそうな彼女をつよくつよく抱きしめ、言った。いつかこんな日が来るのではないか、という覚悟をして、ずっと考えていたその言葉を今ついに唱えた。――心のなかにある目は、ずっと世界を映してる。見えるはずだよ、。僕が君に、微笑んでるのが見えるだろう? 視点の定まらない目をゆっくりと閉じた彼女に――ほうら、見えるだろう? と言うと、彼女は首を横に振った。
「嘘。リーマスは笑ってなんかない……泣いてる。泣いてるのね」
 彼女の差し出した白い手はようやく僕の頬に辿りつくと、確かめるように何度も何度も手をあてた。その指が頬を伝う涙に濡れると、彼女は小さく「ごめんね」と呟いた。伝った涙が口に入っても、人には四つの目があるから大丈夫だと、まるで呪文のように唱えつづけた。




 春、夏、秋、冬。彼女が色を失ってからも、季節は沢山の色を抱えて巡る。はじめはその不変の真理が残酷に思えたが、今ではすべてを受け入れることができるようになった。僕も、彼女も。

「ハリー?へえ、すごく良い名前ね」
 たのしそうな笑い声がどこからか聞こえてくる。リビングから続く、まるで細い蛇のように伸びる電話コードに従っていけば、薔薇の花々が咲く庭へ出る。そしてそこには、ベンチに座り、白の電話を抱えておしゃべりに夢中な彼女の姿があった。
「うん、リーマスも私も元気にしてる。また今度、家に遊びにきて。もちろんハリーも一緒にね」
 彼女は電話の向こうのリリーに笑顔を送り、静かに受話器を置いた。
「リーマス、いるんでしょう?」
 テーブルにカップを並べてティーポットを傾ければ、あまい空気に淹れたての紅茶の香りが溶け込んだ。彼女の手にカップを取らせて、もちろん居るよと答えれば、突然「あっ」と声をあげた。
「リリーに言うのを忘れてた。"いま私、青空の下、薔薇の咲く庭でリーマスとお茶してるの"って」
 いつか彼女は、「これは天が私に課した試練なの。神は乗り越えられない試練を与えるほど意地悪じゃないはずよ」と言った。その通りだと、いま思う。暗闇のなかでは、他の人が見落としてしまいそうな微かな光でも感じることができるということを知った。人には四つの目があることも知った。
「リーマス、いま笑ってるでしょう」
 そして心の内にあるその目は、霞むこともなく、いろどりは褪せることもなく、万物を映す。
「 笑ってるよ 」





(2008.12.21)