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 私は花だ。かつて一度も、人の目に留まったことはない。
 私の見かけが原因では無い。むしろ容姿は良い方であると自負している。自身の姿を見たことはない。しかし、以前私の隣に根を張っていた花が、この容姿を褒めてくれた。「あなたの花びらは本当に淡い、淡いブルーね。自分で見られないのが惜しいでしょう。けど本当に、きれいよ。わたしの姿はどう?」。そう聞いた花に、彼女自身の容姿を伝えた。花びらは黄色だった。「黄か。ありふれたものね」と、彼女は自嘲するように笑った。
 彼女は常々、人に手折られて一生を終えたいと話していた。しかし、道行く人間が私たちの前で足を止めて、彼女や私を摘んでゆくことはなかった。見向きもしない。ただ人は、前だけを見て歩いていく。左右に揺れながら、「人間は忙しいのね。道端の花に目をくれてやる暇もない」と腹いっぱいに笑ったきり、何も話さなくなった。顔色も悪くなっていった。そして数日のうちに、彼女は枯れてしまった。風に吹かれ、かさかさと音を立てながら散っていった。
 私もいずれ、彼女のように朽ち果てる。彼女は人間に手折られて一生を終えたいと言った。「それが花のしあわせなのよ」、とまで。私にはさっぱり理解できない。人間は、花を摘んでどうするのか?私の周りに、人間に手折られていった花はいない。花そのものが、私の他にもういない。あるのは雑草だけだ。手折られた花はその後どうなるのか、と以前雑草に聞いたことがある。彼らの寿命は長い。私が生まれる前から、この物寂しい道の端に暮らしている。「どうなるって、すぐに死んじまうのさ。家に帰り着く前に飽きて道に捨てられれば、踏まれて死ぬし、飽かれることなく瓶に挿されたとしても、愛でられるのはその日の内だけ。そして数日後には、腹が減って死ぬ」。
 正直に言うと、私はおそろしいのだ。生前の彼女が一度、「どうしてあなたが人間の目に留まらないのか、分からないのだけど」と訊いたことがある。きっと私の存在感の無い淡いブルーのせいだろうと言った。「それは違う。あなた、手折られたくないんでしょう。だからわざと、醜く見せているのね」。その通りだった。私は、手折られるのがおそろしい。人間が通るとき、私は下を向く。まるで萎れているかのように。生まれた瞬間からそうしてきた。だから私は、かつて一度も人の目に留まったことがないのだ。

 目の前の空き地に、一件の家が建った。その家に住まうのは、母と娘の二人だけだった。これで私も見つかってしまうのかと思ったが、気づかれる気配は一向に無い。私の前に最近生えた雑草の背が高いおかげか、私はあちらからでは見えにくいらしい。
 その家の娘は、一日のほとんどを軒先で過ごした。少女はまだ幼く、十にも届いていないようだった。木の枝で地面に絵を描いたり、影踏みをしたりして、いつも一人で遊んでいる。そして遊びながら、道行く人々を見送っている。私は人間に気づかれたくはないから、俯く。しかし少女は顔を上げたまま、じっと見つめている。


「うちはイタチさん。どこに行くの?」

 ある日、不意に少女が声をあげた。私も思わず、俯いていた顔をそちらへ向けた。一人の青年が、少女に呼び止められたようだった。
 私はいつも人間が通るときには俯くのだが、何度か顔を上げて人間を見つめたことがある。風のように歩く人間がいる、と不思議に思ったから。それがあの青年だった。
 青年と少女は、知り合いではないはずだった。話している姿を見たことがなければ、青年が軒先で遊ぶ少女に目をやったところも、一度も見たことはない。
 見知らぬ少女に声を掛けられ、名前をも知られていることにわずかに面食らったようだったが、それでも青年は問いに答える。

「アカデミーだ。弟を迎えに行く」
「ふうん。あ、サスケくん、昨日泣きながらここを通って行ったよ。わたし、見たよ。四時過ぎだったかなあ。今と同じぐらいの時間に」

 青年は少し目を細めたようだった。少女は手に持っている木の枝を動かし、絵を描き出す。それが何の絵かは、ここからでは知ることができない。

「……アカデミーで何かあったんだろう。珍しいことじゃない」
「うん、そう。珍しいことじゃないの。サスケくんって泣き虫だもんね。手裏剣は投げらんないけど、わたしの方がきっと強いよ。わたし、泣かないもん」
「なぜ君は、俺と弟の名前を知っているんだ」

 堪りかねたように、青年が尋ねた。すると少女は描く手を止めて、くすくすと笑った。

「それは、知ってるよ。だって、うちは一族の人でしょう?有名だもん」

 青年は、ああと頷くと、一歩踏み出した。途端に少女は木の枝を放って、立ち上がった。

「行くの?もう?」

 すがるような声に後ろ髪を引かれたのか、青年は足を止める。そうして青年が再び顔を向けたときには、少女は嬉しそうに笑んでいた。青年は細い息を吐く。

「親は、家か」
「ううん、いないよ。お母さん、どこか行っちゃった」
「……」
「大丈夫だよ。明日の朝になったら帰って来るから」

 少女の母はいつも昼には家を出て、朝方に帰ってくる。それは私も知っていた。しかし仕事をしているのか、何をしているのかはもちろん知らない。

「一人で平気なのか」
「いつもだもん。もう慣れっこだよ」

 青年は、ただ微笑むしかなかった。

「そうか。確かに、サスケより強いかもな」

 それだけ言って、再び少女に背を向ける。少女は途端に表情を暗くした。

「行くの?」
「ああ。そろそろ授業が終わる頃だろうから」

 そのとき、青年が行く方向から、一人の男が急ぎ足でやって来て、私たちの目の前を過ぎていった。小さくなっていく男の背を見ながら、少女は突然笑い出した。

「忙しいんだね。みんなみんな、忙しい」

 そう言う少女の姿から、私はあの黄色の花を思い出した。少女はいつも道行く人を、こちらに気づいて欲しそうにじっと見つめていた。その姿に、人間に手折られて一生を終える夢を抱いていた、あの花の姿が重ねられた。
 あの花はもしかすると、人間に生まれ変わったのかもしれない。あの少女に。

「あ、イタチさん。私、今日お誕生日なの」

 突然思い出したように言った少女に、私はおかしくなった。花が人間に生まれ変わるはずがないか、と。黄の花が散ったのはつい先日。少女は今日が誕生日で、またひとつ年をとったのだ。まさかこの短期間で、そんなことはあり得るはずが無い。
 おかしくて、おかしくて。私は風に揺られながら笑った。そこでふと、今まで感じたことのないものを、感じた。それが何かを認識すると、からだの内から言葉では表し尽くせないものが溢れ出してくるようだった。
 少女が、私を見ている。私は、ついに人の目に留まった――。

「わあ。きれいな、お花」

 不思議なことに、もう何もおそろしくはなかった。周りの年老いた雑草たちが、ああついにお前も逝くのか、と哀れんだが、私は何もおそろしくはない。
 一歩一歩近づいてくる青年をじっと見上げながら、こう思った。この青年に、あの少女のために手折られるのも、悪くはない。

「おめでとう」

 手折られても、私はまだ生きていた。もう何もおそれることはない。青年の手は心地がよく、少女は微笑んでいるからだ。

「ありがとう。イタチさん」

 黄の彼女の言った通り、これが花のしあわせなのだ。今、ようやく知った。





(2009/12/6)