湖の向こうにホグワーツ城が見える。遠くに聞こえる獣たちの声を耳にしながら、湿った落ち葉や枝を踏みしめ、湖沿いをここまで歩いてきた。足跡をたどって。



「セブ」

 青年は肩を震わせるのとほぼ同時に、声のした方を振り返った。見開かれていた目は声の主の姿を認めると、いったん元の大きさへ戻り、最後はそのまま細められた。
 セブルスは湖のほとりに座って本を読んでいるわけではなく、ズボンをたくし上げ、水中に膝まで足を浸けて何かに没頭していたようだ。しかし、突然現れた一人の女子生徒のせいで集中力が途切れてしまったので、いつもに増して深い皺を眉間に刻んでいる。
 そんなセブルスにはにっこりと笑って見せてから、水際まで歩く。そうしてしゃがみ込むと、水面を覗き込みながら言う。

「いつも思うけど、ここって、今にもマーピープルが水中から飛び出してきそうなところよね。なのに、よく足なんて突っ込めるよね」
「その呼び方はやめろ、

 顔をあげ、数メートル先のセブルスを見た。怪訝な表情でを見据えるセブルスの片手には空の小瓶が握られている。

「マーピープルのこと?」
「とぼけるな」

 微笑みながら首をかしげて見せると、セブルスは咎めるように言った。すると、の顔から笑みが消える。

「どうして?エバンズは、セブって呼んでるのに」
「それは、あの女は……」

 セブルスは言葉を詰まらせ、目を左右に泳がせた。その様子を見ると、は「そっか」と言って微笑む。

「セブルスがやめろって言うんならやめる。ごめんね、ちょっと呼んでみたかっただけだから」
「……」
「なに?そんな、信じられないものを見るような目で」
「……いや」

 短く言うと、セブルスはに背を向けて水の中へ手を入れた。
 白い足。たくし上げたズボンと水面の間に見えるセブルスの膝裏に、は思った。いつも地下にこもってばかりで、授業以外では滅多に外へ出ないからあの白さなのだろう。そこでふと、自分の足へ目を落す。

「……同じなのにな」

 思わずそう呟いた。私だって滅多に陽の光を浴びていないのに、セブルスの肌の方が白いなんて。この違いはどこから生まれるのだろう。

「貴様」

 そんなことを考えていると、不意にセブルスが口を開いた。

「よくこんな所まで来たな」

 セブルスの手が水中に潜るたびに聞こえる、ちゃぽ、という音が耳に心地いい。頬を緩ませながらは答える。

「私セブルスが行くところなら、たとえそれがアズカバンでも付いて行くよ」
「まさか。僕が左と言うなら右へ行くような女なのに」
「わあ、ひねくれた女がいたものね」
「貴様のことだぞ」
「うん。知ってる」

 セブルスは手を止め、振り返った。がその手元を見れば、先ほどまで空だった小瓶にはもう、緑色の何かがぎっしりと詰められている。

「……」
「なに?またそんな目で見つめて」
「……今日はやけに素直だな」

 まさに「信じられない」というような目をしている。そのセブルスの表情がおかしくて、は笑いを堪えながら言った。

「うん。今日はなんだか、もっと素直になれる気がするの」

 の言葉にわずかに首をかしげたセブルスだったが、その注意はすぐに小瓶へと戻った。
 しゃがみ込むの傍らに置かれる、セブルスの靴と靴下。それと一緒に、薬学と薬草学の教科書が置かれていた。

「今度は何の薬を作る気?」

 擦り切れた薬学の教科書を手に取り、ぱらぱらと捲りながらそう尋ねると、「貴様に関係ないだろう」という素っ気ない答えが返ってきた。小瓶に入った緑の物体を上から下から眺め回すセブルスにため息をつき、ぱたんと教科書を閉じて元の場所へ戻す。

「それって、藻?」
「……ああ」

 気の無い返事をして、藻を見つめたままのセブルス。藻に負けた、とは胸の中で舌打ちをする。
 こんな秋の日に水に浸かったままなんて、寒くはないのだろうか。はそう思い、水の中に人差し指を入れてみた。

「わ、やっぱり冷たい。セブルス寒くないの?」
「……別に」
「強がらなくていいから。それに、マーピープルにさらわれるかもしれないよ」
「やつらもこんな浅瀬まで来るほど暇ではないだろう」
「いいから。ねえ、もう採取に満足したなら早く上がっておいでよ。これでセブルスが風邪ひいたら笑ってあげるから。藻に夢中になって風邪ひくなんて、最高に笑える」

 そこでようやく小瓶から目を離して、セブルスはを睨んだ。気にせずもう一度「ねえ」と促すように言えば、セブルスは舌を打ってから渋々とこちらへ向かって歩きはじめる。水をかきわける音が耳に心地よく響く。

「今気づいたけど、私って水の音が好き。なんだか懐かしい感じがするの。これって胎内の記憶?」

 返事代わりの盛大な鼻笑いに、「ばかにしないでよ」とは口をとがらせた。
 セブルスがこちらへ近づいてくる。膝まで浸かっていた水が、今はすねの辺りまでになっていて、その白い足がの目にはまぶしく映る。

「見るな」
「……ああ、ごめん。あんまりきれいな足だから、つい見惚れて」
「変態か、貴様は」

 呆れたように言ったセブルスはようやく岸までたどり着いた。の隣に腰掛けるセブルスの足はもう、足首の上まで見えている。

「ハンカチ、貸そうか?」
「間に合っている」

 セブルスは畳んで置いていたローブから布切れのようなものを取り出し、それで濡れた足を拭く。
 まずは右足をきれいに拭い上げたが、もう片方へ取り掛かる際に、思わず拭ったばかりのその足を水に浸けてしまい、セブルスは顔をしかめた。今の失態を見られてはいなかっただろうか、と隣の様子を横目でうかがう。幸いはセブルスの足ではなく湖の向こうを眺めていて、気づかれてはいなかった。

「セブルス」

 黙々と足を拭いつづけるセブルスに、はぼうっとした声で言った。

「好き」

 セブルスの動きが止まった。顔を上げれば、と目が合った。先ほどまでホグワーツ城を映していたその目が、今は真っ直ぐにセブルスをとらえている。
 から目を離したセブルスは、再び足を拭いはじめる。

「だから何だ」

 冷たくそう言い放たれても、は顔色を変えなかった。
 セブルスは両足の水分を取り終えると、布切れをローブに仕舞い、靴下へ手を伸ばした。

「セブルスって、本当に分かってない」

 は表情こそ変えなかったが、そう言った声だけが、悲しみを帯びているようだった。何を、と問う前にセブルスの体は強く押され、次の瞬間、ばしゃんという激しい水音が響いた。状況を呑み込むより先に、体中が冷たさに震えた。ただ、唇だけが温かい。

「今日はもっと素直になれるって、さっきそう言ったでしょう?」

 唇を離すと、はほほ笑んだ。しかし、震える声を抑えきれていない。
 セブルスはに押し倒されたのだ。それも、湖へ。

「やめろ」

 水中に後ろ手をつくセブルスは、自身に跨るを睨んだ。

「なんだ。キスまでされたのに、まだ冷静なんだ」

 は笑う。
 浅瀬と言っても、セブルスは下半身と腕を水に浸からせているし、先ほどよりも水が冷たく感じる。ズボンをたくし上げたままで膝を折っているので、膝の皿二つがぽっかりと水面に現われている。それらを指して、は「島みたい」とさらに笑う。

「貴様、ふざけるな!」

 たまらず声を荒げたセブルスに、笑い声は止んだ。
 口をつぐんだに、ようやく怯んだかと胸をなで下したときだった。一瞬の顔に怒りの色が見えたかと思えば、ばしゃ、という音と共に水が浴びせ掛けられた。反射的に、目を瞑る。

「セブルスは私を好きになってくれないのに、どうして私がセブルスを好きでいなくちゃいけないの!エバンズがポッターと付き合ってるなら、セブルスは諦めて私のところに来ればいいのに、どうしてそうしないの!」

 堰を切ったようにそこまでを言うと、呆気にとられたままのセブルスの襟元をつかんだ。弱弱しく、小刻みに震えている。

「いつも、いつも……そばにいるのに」

 冷たくなった胸元に、温かなものがじわりと滲み、広がった。それがの流した涙だと気づいたセブルスは眉根を寄せる。

「こうでもしないと私のこと、女として意識してくれないじゃない。セブルスは男で私は女よ。この世に女はエバンズ一人じゃないってこと、わかってる?」

 涙に埋もれるの瞳はそれでも真っ直ぐにセブルスをとらえ、声を詰まらせながら続ける。

「ねえ、私のことも見てよ……私で、いいじゃない……私を好きになってよ」

 逃れるように視線を逸らせば、スカートから伸びる足が視界に入った。白い、とセブルスは頭の片隅でそう思った。
 頬に手があてられ、顔を持ち上げられる。強引にセブルスの視線を合わせたは、呆然とした様子で言う。

「これでもだめならもう、死ねばいいのに」
「……死んではいけない」

 とっさにセブルスがそう返すと、は目を丸くした。の力が緩んだところで、セブルスは両頬を包んでいた手を振り払った。

「違う。セブルスが、よ」

 言うと、は吹き出すように笑いはじめた。

「……」
「本当に私、今日は素直すぎるね。醜いぐらいに」
「……」

 額に張り付いた髪から、一筋の水が伝う。その水が目に入り、セブルスは目を閉じる。
 これだけ水に浸かっていれば、冷たさに感覚が麻痺してくる。の笑い声が聞こえる。愉快の欠片もない、乾いた笑いだ。そして瞼の裏に焼きつくのは、先ほど見たの白い足。
 目を開けたセブルスは、「いいか」との注意を引いた後、言った。

「僕はこの世に女がエバンズ一人だと思うほど愚かではない。貴様が異性だということも、もちろん認識している。こんなことをされなくとも」

 最後の言葉を強調すると、は唇を結んで視線を下げた。セブルスは構わず続ける。

「そもそも、貴様は勘違いをしているんじゃないか?僕がエバンズを想っている、と」
「え、そうじゃないの?」
「何を根拠に」
「……恋に根拠なんて」
「何を見てどう感じたか知らんが、全て貴様の思い込みだ。そしていい加減そこを退け」

 セブルスの言葉を呑み込むまで少しの間をあけた後、はセブルスの体から降りた。セブルスはその際、スカートの中が視界に入ってしまわぬように目を閉じることを忘れなかった。
 水音を立てながら立ち上がると、唇に手を当てて何やら思いを巡らせているを横目で見てから、ふっと鼻で笑うセブルス。

「一人で怒って、泣きじゃくって、さらけ出して。なかなかの見ものだった」
「わ、忘れて!今のことは全部!……あーもう、今ならマーピープルにさらわれてもいい」

 湖を忙しなく見渡すは言葉の通り、真剣にマーピープルの姿を探しているようだった。そこでふとセブルスと視線がぶつかると、頬を染め、罰が悪そうに言った。

「なによ。見ないで」
「それは、さっき言っていたことと矛盾しないか?」
「……だから忘れてって」
「生憎、僕は記憶力がいい。忘れろと言われて忘れてやるほどの思いやりも持たない。それは貴様もよく知っているだろう?それに、」

 ばしゃん、と再び激しい水音があがった。尻もちをついてしまったのか、は顔を歪める。

「やられっぱなしでは気が治まらないことも」

 そう言ってセブルスが覆いかぶさってきたので、は驚きのあまり非難の声をあげることもかなわず、ただ口をぱくぱくとさせている。その様子を指して、「いたぞ。マーピープルが」とせせら笑えば、は思いきり顔をしかめた。
 先ほどとまるで逆転してしまっている。押し倒す力も、体に圧し掛かる重さも、セブルスは手加減しなかった。やられっぱなしでは気が治まらない。まさにその通りだ。セブルスのこの性格をうっかり忘れていたは、先ほどまでの自らの行いを悔いた。その一方で、心臓が胸を突き破って出てくるのではないかと思うほどに、高鳴っていた。

「貴様の想う男ぐらい、知っていた」

 唇から伝わるぬくもりに、指先から足の先までが震えるようだ。ただ、余裕そうな口ぶりのわりには、ぎこちないキスだった。
 しばらく目を丸くしたまま呆然とセブルスを見上げていたは、やっとの思いで声を発する。

「……重い」
「貴様も相当重かった」

 そんなセブルスの憎まれ口も、今は許せた。これから校内でリリー・エバンズの姿を見かけても、嫉妬で心を乱すことはないだろう。むしろ、陽気に手を振ってハローとあいさつするぐらいの気持ちの余裕ができた。それと、自信。
 はセブルスを見上げる。

「死ねばいいのに」

 かわいらしさの欠片もない言葉なのに、愛してるの言葉よりも深く重く響いたのは、セブルスへのありったけの想いが込められていたからだろう。






(2010.2.3)

反転で一言。
その後、セブルスが夢中で採取した藻の入った小瓶を、照れ隠しというか悔し紛れでさんが湖の彼方に飛ばしたんで、セブルスはその後数日間口も利かなければ目も合わせないという状態だったら良いと思います。*