突然、土砂降りの雨が降り出した。ついさっきまでの快晴が嘘のようだ。
 道行く人々は頭を覆いながら、雨しのぎの場を探して駆け回る。買い物帰りのは、スーパーの袋を抱えたまま民家の軒下へ入った。すぐに止むだろうと高を括っていたが、五分、十分待っても一向に止む気配はない。蒸し暑い日が続いていた頃にこの大雨。じっとりとした暑さに、肌がちくちくと心地悪い。
 天気予報では雨だなんて一言も言ってなかったのに。空を見上げてため息を吐きながら、「今日は一日快晴です」とにこやかに言う結野アナを思い浮かべた。レジ袋の中の傷みゆく肉を思い、再びため息が出る。ここから走っても五分はかかる家まで、びしょ濡れになりながら帰る気力はない。かと言って、奮発して買った牛肉が駄目になってゆくのを感じながら、この軒下で雨が止むのをひたすら待つ気もない。せめて傘さえあれば……。
 振り返り、民家の戸を叩いてみる。人が居る気配はない。また、ため息。天気予報を外す天気予報士なんて、と再び結野アナを思う。すると不意に、ある人の顔が浮かんだ。思えば、ここはその人の住む家からほんの目と鼻の先だった。

「助かった」

 は頬を緩ませそう呟くと、矢のごとく降る雨の中に飛び込んで行った。



 本当にひどい雨だった。もはや頭を庇いながら走る人はもちろん、傘を差して歩く人の姿さえ見られない。そんな街の中を、は荷物を胸に抱いて駆け抜ける。
 カンカンカンカン。下駄を鳴らしながら階段を登り切ると、そのままの勢いで玄関の戸を引く。

「銀時ー傘借りても――」

 言葉が終わらぬうちに正面から何かとぶつかり、体が大きく揺れた。あっと声を出す間もなかった。ぶつかって行った女性が階段の手前でこちらを振り返り、鋭い目で睨んで見せたのだ。が立ち竦んでいると、彼女は前を向き直り、去って行った。
 カンカンカンカンカン、カン――。
 下駄箱に立て掛けられる、使い古された唐傘が一本。はそれを横目に見ながら、下駄箱の上に買い物袋を置き、履き物を脱いだ。濡れた足袋がとても気持ち悪く、歩くごとにぴちゃぴちゃと鳴る。
 薄暗い居間で、銀時はソファに仰向けになり天井を見つめていた。だらりと伸びた腕の先では、ジャンプが床に伏せている。

「雨、降ってんのか」

 呟くように言った。先ほど、最後まで紡がれなかったの言葉。それを聞き取っての問いに、は口ごもった。

「うん。さっきまで晴れてたんだけど、急に降り出しちゃって……」
「そんなはずねーよ。結野アナ、今日は快晴だって言ってたし」
「外しちゃったんだよ。この音聞こえてる?ざあざあって、もうすごいんだから」

 がそう言うと、銀時は黙り込んだ。
 その姿を見て、なんてタイミングの悪いときに来てしまったんだと思った。さっき、彼女とぶつかったときに引き返していれば――。

「濡れてんな」

 銀時は、レジ袋を持ったまま突っ立ているを見上げている。髪や着物からは水滴がぽたぽたと落ちて、床に小さな水溜まりをつくっている。

「……うん。タオル借りて良い?」
「洗面所」

 短く返すと、銀時はジャンプを拾い上げ、そのまま顔に被せた。
 洗面所の棚に小積まれたタオルを取りながら、唇を噛んだ。言葉を間違えた。「帰る」と言うべきだった。せめて、「タオル借りて帰るね」。
 このまま何も言わずに帰ろう。そう思い、タオルを握り洗面所を出る。玄関に向かう途中で居間に目をやると、銀時は体を起こしてソファの上で胡坐を掻いていた。

「人気者のあなたの一番であり続けられる自信がないし、もう疲れた」

 が背を向けたとき、銀時は言った。

「……だってさ、あいつ」

 床に視線を下げたまま、ハッと笑った。は目を見開いていた。どきりとしたのだ。
 銀時との付き合いは長かった。彼が万事屋を始めて間もない頃に、依頼人として初めてこの家を訪れた。何を依頼したかは憶えていない。全く大したことのない、くだらない内容だったはず。
 一目惚れだった。初めて銀時をコンビニで見かけたときに、直観で「この人だ」と思ったのだ。こそこそ後を付いて行けば、『万事屋銀ちゃん』と看板のかかった家へ入って行ったので、その数日後に依頼を口実に彼の元を訪れたのだ。
 ひどく緊張して身を小さくする私の前にぬるいお茶を差し出し、「何かお困りごとですか?」と、後で考えればひどくかっこつけた口調で言った。もうその一言だけで舞い上がってしまって、その後のことは憶えてない。でも、別れ際に「今は手持ちが無いので謝礼金はまた今度持ってきます」と言ったことは憶えてる。次にまた会う口実を、軽くてつるつるな脳を絞って考えたのだ。

「そ、っか」
「もうワケ分かんねぇ」

 後ろ頭を掻いてから、背もたれに寄り掛かって再び天井を見つめる銀時。しんと静まり返った部屋に、まだろくに仕事も入ってこなかった昔の万事屋を思い出す。
 初めての依頼の後も、私は何かと理由を付けて頻繁に万事屋に出入りするようになったけど、色っぽいことなんて一つもなくて。そのうち新八くんや神楽ちゃんが万事屋の一員になって、銀時のところに人がたくさん、吸い寄せられるように集まってくるようになって、それに比例するように、私の足は次第に万事屋から遠のいていった。それでもたまに街中で出くわした。でも、立ち話でもしてるとすぐに誰かが彼に声を掛けて、二人きりじゃなくなる。「じゃあね」「おう」と言って別れるとき、私は何度も振り返ってその後ろ姿を確かめるのに、銀時の隣にはもう人が居て、もう一度こちらを見てくれることなんて無かった。

「――それは、銀時が悪いわけじゃないのに」

 銀時は天井を仰いだまま、呟くようにそう言ったに視線だけをやった。は握りしめたタオルを見下ろしたまま、唇を噛んでいた。
 だって、それが銀時の魅力なんだ。他人のことなんてどうでもいい、一人でも生きていけるって顔して、人に慕われるのが。
 あの子だって、そんな銀時に惚れたくせに。誰も見たことのない銀時の顔を見てやろうとあの手この手で落としてからは、「特別」であることに酔いしれ優越感に浸っていたんだろう。でも、ふと不安になる。二人きりで居ても銀時の後ろにたくさんの人が見えて、こんなに大勢の中で果たして本当に自分は一番なのか、疑ってしまうのだ。こわくなる。自信が無くなる。銀時の顔を見るだけで、責めたくなって、泣きたくなる。

「でも、あの子の気持ちも、分かるんだ」

 玄関でぶつかったときの、あの憎々しい視線。今にも掴みかかってきそうな、でも恐れているような、そんな顔。それらを思い返していると、無性に羨ましくなった。私は銀時のために、醜くはなれなかったから。銀時に彼女が出来たときだって、鼻水流しながら号泣するなんてことしなかった。だから失恋の涙の味なんて私は知らない。むしろ、どうして私はこういうときに限って感情をさらけ出せないんだろうって、腕を組みながら冷静に考えてた。
 の言葉に銀時は首をひねっていた。水がぽたりぽたりと毛先から滴り落ちるのを見て、「ちゃんと拭いとけって」と間を繋ぐ。しかしはそれ以上語らず、黙って髪を拭く。
 ふと顔を上げ、銀時を見据えたは唐突に言った。

「銀時にとって私は、一番の、女友達?」

 そう言った後では唇を噛んだ。違う。また、言葉を間違えた。

「ああ、そうだな」

 言い淀むことなく答えた銀時に、一瞬喉がきゅっと締まった。それをなんとか押し開いて、言葉を続ける。

「それは、これからもずっと変わらない?」
「……どうした?」
「答えて」
「変わらねーよ」
「……そっか」

 体の繋がりはないけど心の繋がりがある関係を友達と呼ぶなら、私の心を悟ってほしかった。少しでも、一瞬でも良いから、私にも幸福な戸惑いを与えてほしかった。それでも「一番」の言葉に安堵している自分の心が単純で、矛盾してて、もう私だってワケが分からない。
 は大きく息を吸うと、首にタオルを掛けたまま、銀時の腕を掴んで立ち上がらせる。

「あの子に伝えてほしいことがあるの」
「何を」
「だから追いかけて」
「は?」

 強引にソファから引きはがされた銀時は眉根を寄せる。は手を離し、数歩後ろに下がって銀時との間を取った。
 解ってた。この人を独り占めしようと思うこと自体が、間違いなんだって。軽くてつるつるな脳なのに、そんなことに気付いてしまって何も動けなかった私と、たぶん賢い脳を持ってるのに、何も気付かないまま突っ込んで行ったあの子。この先も女友達として一番であり続ける私に、不安定なポジションに居るあの子は嫉妬するのだろうか。でも私は、

「“銀時と手が繋げて、抱きしめてもらえて、キスが出来て、それ以上のことだって出来ちゃうあなたが羨ましい”って伝えて。そしたらきっと、安心するから」

 ひと思いに言いきった私を、銀時はしばらく何も言わずにただ見つめていたと思う。俯いていたせいでどんな表情をしていたかは分からなかったけど、視線は痛いくらいに感じてた。もう、そのまま何も言わないで。早く行って。
 そう念じていると、不意に物音がした。顔を上げると銀時はもう居なかった。が振り返ると、彼は玄関でブーツに足を通していた。「あっ待って」。そのまま戸に手を掛けたので、は思わず声を掛ける。

「傘持って行きなよ」

 靴箱にもたれ掛かる傘を、薄暗い居間から指す。

「お前が使えって。これ借りたかったから来たんだろ」
「私はいいよ。お登勢さんに借りて帰るし」

 それだけじゃなかったけど、という言葉は呑み込んだ。
 銀時は傘とを交互に見やった後、戸を開けた。その途端に激しい雨音が部屋に流れ込んできた。

「ごめんな」

 聞こえないだろうと思って雨音に紛れさせたのかもしれない。でもしっかりと聴こえた。
 ぴしゃんと閉まった戸と、置き去りにされた傘。ずぶずぶに濡れた足袋を鳴らしながら玄関まで歩くと、途端に足の力が抜けてその場に崩れ込んだ。胸の奥から何かが湧き上がってくるような感覚と、喉が締まる感覚。

「ごめんなって、なに」

 ずるい。そう言われたら、もう何も言えないじゃない。何度も言葉を間違えて言えなかったことだって。
 鼻の奥がつんとすると思ったら、涙が溢れた。ざあざあと降る雨に紛れて、私は今ようやく泣いた。あれは、ひとりだけのものにしてはいけないひと。私の軽くてつるつるだったはずの脳が賢くなったあの一瞬一瞬が憎いと、今になって思う。
 視界の隅に入った買い物袋でふと思い立った。傷んでしまって悪くなった牛肉でも食べてお腹を壊したら、きっともっと苦しい。そうしてもっと泣いて、泣き尽くそうか。しかし不意に冷静になった。滲む涙もぴたりと止まった。
 そうやって自暴自棄になったところで、もうなんにも変わんない。




(2011.1.11)