「ブラコンだよね」って人から言われることが、嬉しかった。
 「ものすっごいブラコンだよ」って誇らしげに認める自分が、好きだった。
 でもそんな私を、「あんたたち兄妹、デキてるんじゃないの?」とからかう子もいた。そんなとき、私はムキになって怒る。なんでそんな方向に考えたがるんだろう。そういうこと言うのは本当にやめてほしい。孤独なキョウダイが近親相姦に陥る映画を観たことがあるけれど、気持ち悪いと心から思った。世の中にはいろんな愛のかたちがあるのかもしれない。でも私はリーマスの恋人になりたいとか、リーマスと結婚したいとは思わない。そんなの絶対イヤ。私は私が自分で見つけた人と恋人になったり夫婦になったりするんだ。
 それでもリーマスに恋人が出来ると、私は荒れてしまう。男の子の話をしてみたり、夜遊びを繰り返してみたりして、リーマスの気を引こうとする。心配させようとする。自分が恋人を作ってしまったせいだって自覚させようとする。そんな私の頑張りも虚しく、リーマスはそれを自覚してくれないのだけど。でも決まって、最後の手の家出を考えはじめた頃に「別れたよ」と言ってくるから不思議だ。私とは違って親切心の塊みたいな人だから、リーマスは恋に不器用だった。別れるときは必ずリーマスの方がふられる。理由を訊いたことはなかったけれど、一つだけ私も知ってる別れ方があった。



- ブラザーコンプレックス -



 日曜日の昼下がり。遅い起床で眠た目を擦りながらリビングへ行くと、リーマスはソファに寝転んで読書をしていた。私に気づくと、「おはよう。お昼は冷蔵庫の中に入れてあるから」と本の下から言った。
「んー、食欲ない」
「夏バテ?大丈夫?」
 本を閉じて体を起こしたリーマスに、私は笑った。
「こっち向いてくれた」
 そんな私にリーマスは呆れたように笑って、また寝転んだ。本にさえ嫉妬してしまう私は、この先またリーマスに恋人が出来たとき、どうなるんだろう。
 冷蔵庫を開けて冷たい空気を顔に当てる。それでもやっぱり食欲が無いのは本当のことだったので、オレンジジュースだけを取り出した。コップに注ぐと、それを持ってソファへ向かう。
「何読んでるの?」
「テネシー・ウィリアムズだよ」
 ソファはすっかりリーマスが陣取っていたので、そのソファとローテーブルの間にクッションを置いて、そこに座った。
 ジュースをひと口飲んで、後ろを振り向く。 
「“しらみとり夫人”?変なタイトル」
 本の表紙を見て首を傾げる私に、リーマスは短く笑った。私も肩を揺らして笑い、ジュースをまた飲んだ。氷がカランと鳴った。
 窓の外は今日も晴れ渡り、入道雲がもくもくと伸びている。私はコップの中の氷をジュースに鎮めたり浮かばせたりさせながら、夏の空を眺めていた。ミーンと蝉が鳴く。
「あのさ、
「なに?」
「あの子の連絡先、教えてくれる?」
「……」
 “あの子”とは、高校時代に私が唯一仲良くしていた女の子のこと。この間リーマスと街に出てると偶然会って、そのまま三人でご飯を食べに行った。リーマスとあの子はその時が初対面だったけど、趣味が合うのか本の話ばかりしていた。飛び交う作家の名前や本のタイトルについて行けなくて私は内心ムッとしていた。それでも私はあの子と気が合ったし、それ以来も連絡を取り合って何度も会っていた。あの子はこの夏休みの間だけ、実家に帰省する大学の友人から部屋を借りて暮らしてる。その家にも幾度となく遊びに行った。
 私は氷で遊びながら答える。
「イヤ」
 振り返らなかったけど、リーマスは本を閉じたか、胸に伏せて置いたと思う。
 私は氷を押しながら、少しふざけた調子で言う。
「聞いてどうするつもりー?デートにでも誘うのー?」
「そういうわけじゃないよ。ちょっと用事があるだけ」
「どんなー?その用事私が代わりに済ませてきたげるよ」

 いさめるように言われて、振り返った。リーマスは本を手放していなかった。読書を続けてるフリをしている。だって視線は一点に定まったまま動いていないから。
 私はリーマスが怒っているところを見たことがない。からかって怒らせてみようと思ったことも、これまで何度もあった。でもその度「」と、今みたいにいさめるように言うだけで終わってしまう。怒るまでもなく、その一声だけで私に解らせてしまう。
「……番号書いたげる」
 渋々そう言うと、「ありがとう」はすぐに返ってきた。
 私はテーブルの隅に置いてあったメモとペンを引き寄せた。いつもはこんなとこに置かれてないのに、兄のこういう所は抜かりないなと思う。
「ねえ。その用事も親切心からなの?それともあの子にちょっと期待してる?」
 ポケットから携帯電話を取り出し、あの子の名前を探しながら言う。
「あの子を相手にするのは大変だと思うよ。恋で深い傷負ってるから。大好きだった人との思い出の場所に行って吐いちゃうぐらい」
 そう言った後で、しまったと思った。あの子のトラウマの話をしてしまったからではなくて。
「それは僕だって同じだよ」
 ちょうど蝉の鳴き声が響いた。
 良かった。この静まり返った部屋の中で、そう言ったリーマスの声だけが虚しく響くようなことにならなくて。
 それでも胸の中に押し寄せてきた疑問を口に出さずにはいられなくなって、あの子の連絡先を紙に書きながら、私は続けた。
「今でも仲良くしてるんでしょ?シリウスと」
 シリウス。久しぶりにその名前を口にした。小さい頃は私ともよく遊んでくれて好きだったけど、今は大嫌い。多分この世で一番嫌いな男かもしれない。
 私はペンを置いて振り返った。リーマスは本を胸の上に置いて、天井を見つめていた。
「リーマスが優しいのは分かってるけど、私、そういうとこは理解出来ないな。その女もとんだビッチだけど、シリウスだって友達の恋人奪っちゃうような奴なのに」
 シリウスは、リーマスの恋人を横からかっさらって行ったのだ。
 それは去年の秋のこと。今日みたいな日曜日の昼下がり、リーマスはリビングでテレビを見ていた私に言った。「別れたよ」と。初めてだった。いつもはそう言われたら「ほんとに?」と目を輝かせるのに、そんなこと到底出来なかった。今にも泣き出しそうな声で、リーマスが言ったから。私は迷わずリーマスを抱きしめた。私は何も訊かなかったけど、リーマスがひとりでに話してくれた。「あいつはシリウスのところへ行ったんだ」。
 あの裏切り者。今思い出しただけでも私は怒りで唇が震えてしまう。
「あんな奴と、どうして今でも仲良くするの?」
 私は怒りを抑えるように言った。リーマスはただ遠い目をしているだけで、何も答えない。
 リーマスはあの男をぶん殴って良かったんだ。怒り狂って良かったの。でもリーマスは怒らないから。ただ私の前で静かに泣いただけだったから。私が代わりにあの男の鼻をへし折って、女の頬を腫れるまでぴっぱたいて来たって良かったのに。リーマスがやめてくれと言ったから。自分だけが傷ついて終わりだなんて、私だったらそんなの耐えられないのに。人が良すぎるって、生きにくい。
「……私、リーマスに恋人が出来るのが嫌。最初はただの嫉妬だったけど、シリウスのことがあってからはさらに嫌。また傷付くリーマスを見ることになるなら、もう恋はしないでほしいって思っちゃうよ」
 天井を見据えたままのリーマスから顔を背け、私は膝を胸に抱き寄せた。
 もちろん自分の心が嫉妬で荒んでしまうのが嫌なのもある。だって唯一無二の兄だから、それを誰かに取られる気がして。まさに、横からかっさらわれて行くみたいで。でも……
「でも、リーマスがこの先二度と恋が出来ない人生を送ることになるなら、それはそれで悔しい」
 喉の奥がぎゅっと締まりそうになるのを堪えながら言った。言い終えたとき、あの時あの子のことも抱きしめてあげれば良かった、と思った。
 あの子の大好きだった人との思い出の場所には、私も一緒に行った。居酒屋でひとしきり飲んだ後の軽いノリで行ってみたのだけど、その場所に着くと、あの子は途端に顔を青くして吐き出してしまった。重症だった。あの子は涙こそ流さなかったけど、リーマスと同じだったんだ。背中を擦るだけじゃなくて、リーマスにそうしたように抱きしめてあげたら、あの子も少しは紛れたのかもしれない。
「悔しいよ」
 結局私は自分のことしか考えてない。まだまだ子供だから、大切な人の幸せが自分の幸せだなんてそんなこと、思えない。
 膝に顔を埋めて唇を噛み締めていると、不意に頭を撫でられた。
「ありがとう」
 振り向くと、リーマスは微笑んでいた。
 こんな優しい兄に、ひがみっぽい妹。いつか冗談っぽく、「リーマスはお母さんの子宮の中で、私の分の優しさも吸い取って出てきちゃったんだね」と言ったことがある。醜い感情は全部残して行ったから、私がそれを持って出てきた。自分は良い所ばっかり選んで生まれてきてズルいよね、と。そうするとリーマスは「全部なんてことなかったはずなんだけどな」と笑ったっけ。
「……どういたしまして」
 優しさゆえに自分が苦しむなら、代わりに私が醜くなってあげる。私が自分の醜さに苦しむなら、代わりにリーマスが優しくなぐさめてくれる。そうやって私たち兄妹は互いに助け合って生きてきた。
 でも、ずっと傍にはいられないから。お互いに、苦しいときに助けてくれる相手を見つけて、そうやってそれぞれの道を生きていかなきゃいけないから。生まれたときからリーマスはいつも私の傍に居てくれたけど、私だって生まれてからはいつもリーマスの傍に居たけど、でもいつかはそうやって。きっとどこのキョウダイだって、みんなそうなんだ。
「あの子も」
 リーマスの言葉にふと我に返った。私が先を促すように頷くと、リーマスは続けた。
「テネシー・ウィリアムズが好きみたいなんだ。でもこの本は読んだことが無いらしいから、貸してあげたくて。……でも、が嫌がるなら」
 体を起こす。そうして私の左隣に足を突くと、本を差し出した。
「この本、あの子に渡してくれる?」
 私は手には取らず、ただそれを見つめた。『しらみとり夫人』はわりと古い本らしく、くたびれて少し黄ばんでいた。
 押し黙ったまま見上げた私に、リーマスは少し困ったように笑った。私は本を受け取った。
「よろしく」
 ぺら、とページをめくった。でも眠くなりそうだなと思ってすぐに閉じた。私は読書が苦手だ。
 そんな私を見て、リーマスがまた笑った。私はその声を後ろに聞きながらメモ紙をページに挟む。そうして振り返り、リーマスの胸に本を押しつけた。
「イヤよ。そのぐらい自分でやりなさいよね」
 リーマスは目を丸くしていた。
 私はコップを持って立ち上がった。メモ紙に視線を落とすリーマスを横目に見て、キッチンへ向かう。あの子の名前と連絡先を書いた紙。
 お互いに、それぞれの道を。再びそんなことを思い始めると、喉の奥が締まった。鼻がツンとする。

 声を掛けられて、足が止まる。
「ありがとう」
 目の奥の熱も、その一言で引いていった。
 どこのキョウダイだって、何だかんだ言って絶対ブラコンだったりシスコンだったりするんだよ。みんないつか来る別れに寂しさを感じてたり、感じたことがあったりするはず。それは私だけじゃない。きっと、みんな一緒。
 そう思ったらなんだか安心して、頬が緩んだ。
「幸せになろうね、お兄ちゃん」







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