彼がこれまでどう生きてきたのか、私は知らない。
 少しの物音でもすぐに起きるとか、たまに変な呼吸をするとか、体力がとんでもないとか。なんでなの、と聞いたこともなければ教えてもらったこともないので、知りようがない。
 はじめこそ疑問に感じてはいたが、近ごろは、過去をすべて把握しようとしなくてもいいのではないか、とも思っている。そんな私は、妻としておかしいのだろうか。


- 知らない -



 下町で食堂を営んでいた父が流行り病で死に、その後を追うようにして母も死んだ。私はそれまでまともに料理をしたことがなかったので、見た目も味もお粗末そのもの。当然、父の味を求めて訪れていた常連たちは次第に足が遠のき、もう店を畳もうかと考えていた。

 その頃だった。彼がうちの店へやって来たのは。

 寡黙で何を考えているのか分からなくて、初めて間近でその顔を見た時、瞳の奥に暗い海が広がっていると思った。
 品書きにない鮭大根とやらを注文してきたので、うちには置いてないと言うと、「では何ならあるんだ」と言った。
 無礼な物言いだなと思いつつ、壁の品書きに目をくれる様子もないので、玉子焼き定食ならすぐに出せると言うと、それでいいと素っ気なく返された。
 玉子焼き定食なんて、品書きにはない。けれど当時の私が自信を持って出せるのは、それしかなかった。味噌汁と玉子焼きの作り方だけは、小さい頃から父に仕込まれていたのだ。これさえ作れたら嫁には行けるぞと、適当な父親だったので嘘か真か定かはでないが、そう言って笑っていたのを覚えている。

 そうして出した玉子焼き定食を、彼はうまいとも、まずいとも言わなかった。それでも食べ終えた皿には一粒の米も残っておらず、安堵するよりも先に、しっかりとした家で育ってきた人なんだなと思った。

 初めて完食してもらえたことでなんとなく自信を得て、それからがむしゃらに励んだ。満足に作れるものも、客も増えていき、特に玉子焼きは人気の品になった。彼はたまにふらりと店に来ては、いつも玉子焼き定食を頼み、きれいに完食して帰っていく。

 ある時、「鮭大根あります」と耳打ちするように伝えると、まるで能面のようだった顔に一瞬、生気が宿ったように見えた。「まだ自信がないので品書きには入れてないんですけど」と言うと、「それで構わない」とうなずいた。
 目の前に置かれた鮭大根を見て、いただきますと手を合わせる。その姿がきれいだなと、毎度のごとく思った。ひと口食べ、頬が緩んだと思えば「うまい」と、小さな声だが確かにそう言った。私は思わず「そんな顔もできるんですね」と口に出してしまったが、彼はそれに構わず箸を進めていた。
 それからは以前よりも増して、店へ通ってくれるようになった。

 しかし彼は、ある時からぱったりと来なくなった。どうしたんだろうと気に留めつつも、鮭大根のおかげで店が繁盛しはじめ、息つく間もない日々を送っていた。
 
 そうして春を迎える頃、彼はやって来た。久しぶりに姿を見せたと思ったら、その髪は短くなり、右腕は失くなっていた。
 呆気に取られていると、開口一番で「一緒に生きてほしい」と言った。
 正直いまだに名前も知らなかったし、私の何が良かったのかも分からない。けれど、共に過ごす姿を想像すると違和感はなく、むしろしっくりと来た。この人が他の女性と寄り添う姿を思うと、胸がチクリとした。
 そうして「私でよければ」と答えると、それまで見せたことのない柔らかな表情で笑んだ。周りで聞き耳を立てていた客たちも一斉に拍手し、祝福してくれた。
 彼を間近でよく見てみると、その瞳の奥にあった暗い海は消え、代わりに、ほのかな光が宿っていた。

 店の二階で暮らしていた私は、手狭になるからと、結婚を機に彼の家へと引越した。

 けれど、一緒になっても、知らないことが多すぎた。彼は働いていないが、どうしてか裕福だったし、産屋敷という差出人から分厚い封筒が毎月届く。鴉が手紙を届けに飛んでくることも珍しくなかった。

 今のところ、彼が冨岡義勇という名前で、鮭大根に目が無く、私の料理をきれいに完食してくれるということぐらいしか、まともに知らない。それで夫婦になるなんてと不気味がる人もいるだろうけれど、不都合なことは特にないので、知らないことや語らないことが罪だとはひとつも思っていない。

 私は彼の腕のことを思って遠慮したが、できることはやりたいと強く言うので、週に一日程度、店の手伝いを頼むことにした。
 注文を聞き、皿の上げ下げをするのだが、彼の片腕に気づいて、常連客は食べ終わった皿を自分たちで下げに来るようになった。

 彼は自分から話しかける性格ではないが、なぜか周りから自然と構われる星のもとに生まれたようだ。現に、常連客たちからもかわいがられていた。店へ来て彼がいないと、誰もが「今日は義勇くんいないの?」と尋ねる。心なしか女性客も増えたように思う。

 それに、よく笑うようになった。出会った当初は、まるで櫂を失った小舟にでも乗って、暗く静かな海にただ浮かんでいるだけのような人だったのに。
 しかし彼もまた、「はよく笑うようになった」と言ってきたので、彼の目にも私が同じように映っていたのだと気づいた。私たちは似た者同士だったのかもしれない、だから一緒にいることがごく自然のように感じるのかもしれない。そう思った。

 「冨岡さんはとても強い方だったんです。大勢の命を救ってきました。僕もその中の一人です」と、ある時店に来た男性客が涙を浮かべながらそう言った。彼は不在で、事情を何も知らない私は、そうですかとしか返せなかった。
 そういうことは、それから何度かあった。決まって彼がいない時に現れ、皆「助けられた」「感謝している」と口々に語った。

 強い人だった。その言葉が心に引っかかった。
 だって、私は知っていた。彼が冨岡義勇という名前で、鮭大根に目が無くて、私の料理をきれいに完食してくれることぐらいしかまともに知らなかったけれど、おそらくあの人たちが知らないことを、知ってしまっていた。
 彼があの日、あの夜、眠りながら泣いていたということを。



 そして今夜も、彼は泣いている。眠りながら、声を漏らして泣いているのだ。

「義勇さん」

 どんなに強くて、すごい人だとしても、今目の前にいるのは、涙を流しながらごめんと呟く、弱くてもろいただ一人の人間。
 櫂を見つけても、暗い海を抜けても、置いてきてしまった何かがあるのだろう。あの人たちが言うように、きっとこの人は、自分を犠牲にしながらたくさんの人を守ってきた。私のことも、いつも守ろうとしてくれている。それは知っていた。

 覆い被さるようにして抱きしめると、彼は私の背に左手を回して、ぎゅっとしがみ付いた。まるで子どものようだった。

「もう頑張らなくていいよ」

 そう言った私の言葉は、きっと届いていないのだろう。彼は珍しく、深い深い眠りに落ちているようだった。

 その人の過去をすべて知らなければ、愛してはいけないのだろうか。
 いや、そんなはずない。過去と地続きの今を愛することができれば、きっとそれでいい。
 それに、今はいつか過去になる。これから積み上げていく日々が、彼にとって、穏やかであればいい。

 かすかな寝息を立てて健やかに眠るその顔がたまらなく愛おしい。まさか自分がこんな感情を抱く日が来るなんて、知らなかった。



(2021.02.14)