- 何かの熱 -



 熱が出た。季節の変わり目に弱い体質だということを、毎度のごとく忘れてしまう。そして季節の変わり目と仕事の繁忙期というのはなぜか被るものなので、無茶を重ねた末に、こうして熱を出すのは珍しいことでもなかった。

 加湿器がせわしなく稼働する中、ベッドに横たわって、天井をぼうっと見つめていた時だった。
 ごとん、と大きな音がして、思わず体を起こす。キッチンの方からだ。ベッドから下り、カーディガンを羽織って寝室を出る。
 そうしてリビングのドアを開け、すぐ左手にあるキッチンを覗くと、

「義勇?」

 そこでは、恋人がお玉を片手に立ち尽くしていた。その目はシンクの中をじっと見つめている。

「え、何してるの? 大丈夫?」
こそ何をしている。寝ていろ」
「いや、音がしたから気になって……」

 義勇は相変わらず一点を見ている。何が起きたのかと近寄ってみると、雪平鍋がシンクに突っ伏していた。思わず「わ!」と声を上げて鍋を手に取ると、お粥らしきものが鍋底にわずかに残っていて、あとは全てシンクの上にこぼれ落ちてしまっていた。

「もしかして、お粥作ってくれてたの?」

 義勇はこくりと頷く。
 普段は料理をしない彼が、なんと私のためにお粥を作ってくれていたらしい。けれど、あとはお皿によそうだけという状態で、どういうわけか手を滑らせてシンクにぶちまけてしまったようだった。
 いつもなら、義勇がこういうドジを踏んだときにはからかうのだが、今日この状況でそれはためらわれた。なぜなら彼が、ひどく落胆している様子だったから。

「腹が減っただろう。何か買ってくる」

 そう言ってお玉を置いた義勇の手を握り、

「私、義勇のお粥が食べたい。まだお腹大丈夫だから、面倒じゃなければもう一回作って?」

 義勇は一瞬、面食らったような表情をした。しかしすぐにお玉を手に取り、

「面倒なわけがない」

と、ムフッという音でも付きそうな笑みを浮かべるのだった。



 ベッドに戻れと言われながらも、私はカウンター越しに義勇の姿を眺め続けていた。今はここでこうしている方が、元気でいられる気がしたから。

 二カ月ほど前から同棲をしているこの部屋は、私の一目惚れで決まった。何よりも、このキッチンが魅力的だった。小さな窓が付いていて日も差し込むし、レンジフードが銀色でプロっぽいし、おまけにカウンターキッチンという私の理想通りの出立ち。
 このキッチンで、義勇においしいものをたくさん食べさせてあげるんだと意気込んでいたけれど、あれから引越し後の片付けや仕事の忙しさにかまけて、未だにちゃんとした料理を振る舞えていない。
 そのことに焦る気持ちはあるけれど、これから一緒に過ごす時間はまだまだあるんだからと思うと、ふたりで暮らし始めたことへの喜びを改めて感じる。

「ねえ。やっぱりさ、カウンターキッチンの部屋にして良かったと思わない?」

 計量スプーンで慎重に醤油やらみりんやらを計っている義勇に声を掛けるも、やはり無視された。さすがにタイミングが悪かったらしい。
 それでも構わずに続ける。
 
「だってさ、料理してる義勇の姿をこうやって拝めるんだもん」

 義勇は鍋に計量済みの調味料を入れ、お玉を手に取ると、ちらりと私へ目をやった。

「俺もいつも思っている」

 それだけ言うと、鍋をかき混ぜはじめる。
 義勇は多くを語らないタイプだけど、何も考えていないわけではない。頭や心の中にあることを口に出す量が、人より少ないだけで。

「それもうちょっと聞かせて。何を思ってるの?」

 だから、こうやって聞くと、大抵きちんとした答えが返ってくる。

「料理をしているが好きだ。見ていて飽きない」

 そして大抵、こうやって直球な言葉が返ってくるので、聞いたこちらが口ごもってしまう。

「まだ大したもの作れてないけど……」
の作るものは何でもうまいが」

 義勇は首を傾げてそう言うので、私は照れくさくなって視線を泳がせる。この人は天然のたらしなのかもしれない。そう思うことがよくある。
 火加減を調整しながら「ここから五分置く」とつぶやく義勇。そうして冷蔵庫を開け、卵を手に取り、こちらを振り返る。

はネギが嫌いだったな」
「あ、うん」
「じゃあ代わりに鮭フレークを」

 そう言いながら、「鮭の粗ほぐし」とラベルの貼られた小瓶を取り出す。

「いやそれ全然代わりになってなくない?」
「ネギの代わりに鮭の栄養を足すんだ」

 真顔で言う義勇からほとばしる、鮭への絶対的な信頼感。私は思わず噴き出してしまう。

「どうして笑うんだ? 卵だけでは物足りないだろう」
「ごめんごめん。いや、義勇ってほんとに鮭狂いだよなあって」
「……俺は鮭狂いじゃない。鮭大根が好きなだけだ」

 少しムッとした表情をする義勇に、

「ちょっとその戸棚開けてみて」

と言うと、彼は言われた通りに背後の戸棚を開いた。義勇のぎくりとした様子が、その後ろ姿だけでもよく分かった。

「鮭狂いじゃないなら、その爆買いされた鮭フレークについてはどう説明するの?」

 そこには、大量の鮭フレークが所狭しと並べられている。全て義勇がネットで取り寄せたものだ。引越してすぐ、「俺はこれがないといけないんだ」と言って注文していた。まさかこんなに買うとは思ってもいなかった私は、これが届いたとき目眩がした。どうやって消費するの、誤発注じゃないの、ただでさえ収納スペースの少ないこの家が鮭フレークで埋め尽くされてしまう、と。

「ねえ、義勇?」

 声を掛けると、義勇はゆっくりとこちらを振り返る。
 なんて言うんだろうかと、思わず私の胸は高鳴ってしまう。義勇の言葉は先が読めなくて、付き合い始めた頃は苦戦することもあったが、今はその予想のつかなさを楽しんでいる自分がいる。

「俺じゃない。このメーカーが出す鮭フレークがうますぎるのが悪い」

 義勇ロジックが炸裂していて、私はたまらず笑ってしまった。

「もう認めて楽になりなさいよ冨岡先生。あなたは鮭に狂ってますよ」
「違う。俺を狂わせられるのはだけだ」

 まっすぐな目でそう言われ、完全に射抜かれてしまった。顔がみるみると熱くなっていくのを感じる。
 義勇は鍋に卵を溶き入れる。そしてちらりと私を見て、ふっと笑う。

「元気になったみたいだな」
「……いや、今ので熱上がったわ」

 「今の?」と首を傾げる義勇。どうやら自分が殺し文句を放ったという自覚はない様子。じゃあさっきのふっという微笑みはなんだろう。元気になって良かった、という安堵の笑みだったのだろうか。

「分かりづら」

 ぼそりとつぶやいた私の声は届かなかったらしい。義勇はコンロの火を消して、器を取り出しながら言う。

「もうベッドに戻れ。お粥もできた。運んでやるから」 
「そうしようかな、ありがと。あーおいしそうなにおい」

 鼻をくんくんさせながらカウンターを離れ、寝室へ向けて一歩踏み出そうとした時。いつの間にか義勇がすぐ隣に立っていて、声を出す暇もなく体を持ち上げられてしまった。
 あ、運ぶってお粥じゃなくて私のことなんですね。
 いわゆるお姫さま抱っこをされながら廊下を進んでいく中で、やっとそう気付いた。誤解を呼ぶ男だと思いつつ、まじまじとその顔を見上げてみると、顎にごはん粒が付いているのを見つけた。かわいい。

 寝室に着くと、義勇は私をベッドに下ろした。そうして布団を被せると、腰をかがめて額に手を当ててくる。

「熱いな。悪化したか」
「……いや、そうじゃなくて、これは義勇のせい」
「俺か?」

 きょとんとした顔をしている義勇の腕を引き、その体を抱きしめる。

「義勇のおかげで私は幸せだなーってこと」

 義勇は何も言わず、ぎゅうっと強く抱きしめ返してくれた。沁み渡っていくぬくもりに、もう言葉なんていらないなと思った。
 ……あ、義勇にごはん粒が付いてること教えるの忘れてた。きっと粒は私の肩口に移って来てるはず。まあ、いいや。そんなことすらも愛しいと思えたのは、この熱のせいだろうか。



(2021.03.05)