- 恥も色気も -



 今まで実家暮らしだった私は、仕事で遅く帰ることが多く、たいてい家族みんなが入った後のお湯に浸かっていた。
 いや、正直言うと、入浴剤の香りもすっかり飛んだ出がらしのようなお湯に入る気にはなれず、シャワーで済ませることが常だった。
 お風呂に浸かることってそんなに重要? シャワーで十分じゃない? とすら思っていた。

「お風呂ってこんなに気持ち良かったっけ……」

 そんな考えが今日、覆った。
 新しい家で入る、初めてのお風呂。真新しくてあたたかなお湯が、引越し作業で疲れ果てた身体を包み込んでくれる。入浴剤の香りが体内をかけ巡り、凝り固まったいろんなところをほぐしてくれるようだった。

「幸せ」

 息とともにこぼれ出た言葉が、浴室内にこだました時。

「湯加減はどうだ!」

 威勢の良い声とバーンとドアの開く音が轟き、私は驚きのあまり、湯船の中で身体を滑らせてしまった。顔の半分まで湯に浸かり、鼻が溺れた。
 なんとか体勢を整えて浴室ドアの方を見ると、半裸の恋人が「平気か?」と首を傾げて立っていた。

「ねえ杏寿郎、乙女がお風呂に入ってる時は覗いちゃだめって、お母さまに教わらなかった?」

 鼻の奥のツンとした痛みを堪えながら言う。すると杏寿郎は、

「すまん! だが、覗きに来たわけではない。と風呂に入りたくて来た!」

とまっすぐに言うと、スラックスを脱いで下着に手を掛けた。私は「待って待って!」と目を覆う。

「なんだその初々しい反応は」
「だってこんな明るいところで……見慣れてないから」

 杏寿郎の笑い声が浴室内にこだまする。
 ドアが閉まり、蛇口が捻られる音がして、私は指の隙間から様子を伺う。杏寿郎はシャワーで身体を流している。だめだと思いながらもいろんなところに目が行ってしまうし、何かしらのことを考えてしまう。上腕二頭筋がたくましいよなとか、腹筋が割れてるんだよなとか、お尻がどうとか、いろいろ。
 そこで、ふと気付いた。"明るいところで見慣れてない"のは、杏寿郎だって同じこと――。

「電気を消してください!」
「消す?」
「そう! 消して電気を!」
「それはできないな! 暗いと危ないだろう」

 私は目を覆っていた手で、今度は自分の胸や腹を覆い隠しながらそう頼み込んだが、あえなく却下されてしまう。
 それでも食い下がろうとすると、杏寿郎は湯船に片足を入れて、私の背後にするりと入って来た。水かさが一気に増す。

「大丈夫だ。この位置なら背中しか見えない」

 そう耳元で言われて、肩をびくりと震わせてしまう。その反応に、杏寿郎は愉快そうに笑った。
 私の両側に伸びる杏寿郎の脚は少し折られているので、膝が水面から出ている。その様子が、海にぽっかりと浮かぶ島みたいだなと思った。

「湯の色が緑だな」
「入浴剤使ったの、ヒノキのやつ」
「なるほど。どうりで実家の風呂と同じ香りがするわけだ」
「煉獄家ではヒノキの入浴剤が定番なの?」
「入浴剤ではなく、浴槽が檜で出来ている」

 それ、高級なやつじゃないですか。良い旅館とかでしか見たことないよ。
 胸の内でそんなことをぼそぼそと呟きながら、緑の水面に浮かぶ杏寿郎の膝を指で突いてみる。全く動じないその様子に、これは沈むことのない島だな、なんてつまらないことを考える。

「一緒にお風呂入るのって、初めてじゃない?」
「いつもが嫌がるからな」
「……それ分かってて突入してきたの?」
「同棲初日なら許されるかと思ったんだが」

 ちゃぷん、とお湯が浴槽に跳ね返る音がする。少し振り返ってみると、杏寿郎が私の肩口から顔を覗き込んでいた。

「やはり嫌か?」

 眉を下げ、心なしか瞳に悲しげな色をにじませている。そんな杏寿郎に、私は慌てて首を横に振る。

「そんなことないよ! ちょっと恥ずかしかっただけで……」
「恥ずかしがることもないだろう」
「それは、杏寿郎が自分の身体に自信があるから言えるんだよ」
「自信? は自信がないから恥ずかしいのか?」
「……いろんなところに無駄な肉が付いてるんだもん。特にお腹とか見られたくない」
「なるほど、これか」

 お腹の肉をふにふにと摘まれ、私は「ちょっと!」と声を上げる。手を払い落とすと、杏寿郎は声を出して笑った。

「なるほどじゃない! いじわる!」
「すまん! そう怒るな」
「けしからん教師だ! 私もう先に上がるからね!」

 そう言った後で、ハッとした。
 いや先に上がることなんてできない。今ここで立ち上がったら、裸をばっちり見られてしまう。立ち上がることでまず、杏寿郎の顔面近くにお尻をさらすことになる。浴槽から出るときには脚を持ち上げるので、お腹の肉が寄るかもしれない。上も下も全部見えてしまう。
 仮に目を閉じててと言ったところで、いたずらっ子精神のある杏寿郎のことだから、分かったと良い返事をしつつ絶対に目を開ける。そうに決まってる。

「どうした。上がらないのか?」
「……杏寿郎が先に出てよ」
「俺はまだ出ない! 身体の芯が温まっていないからな!」
「じゃあ私もまだ出ない」

 もうお腹を触られないように、膝を胸に抱くようにして身体を小さくする。そうしていると、不意に杏寿郎の腕が私の身体を引き寄せた。後ろから抱き締められるようなかたちで、

「自信を持て。俺はの全てが愛しい」

 そう囁いてくるので、膝を抱える力がふっと抜けてしまった。杏寿郎はそんな私の隙を見逃さず、すかさず腰に腕を回してきて、さらに力強く抱き締める。

は柔らかいな。抱き心地が良い」
「……喜んでいいのかなあ」
「もちろんだ」
「なんかちょっと複雑だけど」

 そこで私は身体を回し、杏寿郎と向かい合うかたちになる。少し驚いたような表情をしている杏寿郎に軽くキスをすると、そのままその首に顔を埋める。我ながらちょっと思い切ったことをしたなと、照れくさくなったのだ。

、胸が当たっているぞ」
「私もさっきから杏寿郎のいろんなとこが当たってました」
「む、それは恥ずかしいな」
「恥ずかしいんだ」

 思わず笑うと、杏寿郎は「うむ」と小さく唸った。
 首筋から、杏寿郎のにおいがする。私はそれを追い求めるように、杏寿郎にしがみ付き、その首に顔をぐりぐりと押し当てた。
 杏寿郎は「どうした」と言いながらも、優しく抱き締めてくれる。きっとここが、世界で一番安全で、安心できる場所。そう思った。

。そうやって甘えてくれるのはありがたいが、あまりくっ付きすぎるな」
「どうして?」
「たまらなくなるからだ」

 訂正。どうやら安全な場所、というわけではなさそうだ。

「すけべ」

 でも、こうして一緒に入るお風呂も悪くない。毎日は遠慮するけど、たまになら良いよと、お風呂から上がったら言ってみよう。具体的には週に何回だ、何曜日だ、と前のめりで訊いてきそうだけれど。
 そんな杏寿郎の姿を想像すると、笑いがこぼれてしまった。

「突然どうした。のぼせたか?」
「そうかも」
「それはまずいな!」

 途端に杏寿郎の抱く力が増し、これは身体を持ち上げようとしているなと即座に察した私は、浴槽の縁に手を掛けて阻止する。そんなことしたら、今は入浴剤でなんとなく誤魔化せているこの裸が丸見えになってしまう、と必死だった。杏寿郎も、のぼせたと言った私を一刻も早く風呂から出そうという一心だったのだろう。
 互いの力がぶつかり合った結果、私はバランスを崩し、後ろに倒れる。とっさに私が杏寿郎の両肩を掴んだがために、彼も一緒に倒れる。
 頭の先まで沈んでしてしまった私を、杏寿郎はすぐに助け起こしてくれた。彼も顔を水面に付けてしまったらしく、前髪の先から水を滴らせている。そんな私たちは、顔を見合わせ、二人で大笑いした。
 もう恥も色気も消えてしまった。それもなんだか私たちらしくって、なおさら笑えた。

 再訂正。やっぱりここが、世界で一番安全で、安心できる場所らしい。



(2021.03.06)