- 甘くてやわらかな -



「出た。妖怪、洗面所居座り男だ」

 鏡の前で髪型をセットしていた天元はふと手を止め、背後に映り込む寝ぼけ眼のを見た。その目は一瞬、の首元を捉えたが、すぐに視線を自分の姿へと移す。

「あーあ、うるせぇ女が起きてきた」

 そう言って再び手を動かし始めた天元の尻を、は「ひどい」と叩く。「地味にいてぇわ」と文句を言う天元の腰に腕を巻き付け、その広い背中に顔を埋めると、くんくんと鼻を鳴らす。

「天元、良いにおいがする。香水?」
「俺様からほとばしる色気のにおいだ」

 なにそれ、と笑う
 は天元が着古した、なんとも言えない絵柄のピンクTシャツを着ている。くったりとした生地の着心地が良いと気に入っていて、同棲を始めてからは、寝巻きとして勝手に着るようになった。はじめこそ文句を言っていた天元だが、今はもう諦め、所有権をに譲った。
 そんなTシャツ姿で腰にしがみ付くを、鏡越しに見て小さく笑う天元。

「あー、まだ寝てたいよー」
「寝てろ寝てろ」
「会社行きたくないよー」
「休め休め」
「……ねえ、私を堕落させようとしないで」
「とっくに堕落してんだろ」

 そんな天元に、は再び「ひどい」とむくれ、その額でごつごつと背中を打つ。「やめろ」と言いつつも、髪をセットする手を止めない天元。

「ていうかお前、何? やけに早起きじゃねえの」
「何って、普通に会社行くんだよ」
「は? 今日は休み取ったって言ってなかったか?」
「え、言ってた?」
「いや昨日言ってただろ」
「うそ。言い間違っちゃったのかな。明日だよ、有給休暇」

 「げ」と声を漏らす天元。は「なに?」とその顔を覗き込む。

「……いや、別に」
「なにそれ変なの。ねえ、まだ洗面所使う?」
「んーあとメイク仕上げるだけ」
「それが長いんだよなあ」
「いいから先に朝メシ食っとけよ」
「その前に顔だけ洗わせてー」

 肘で小突かれ、天元は渋々といった様子で脇に寄った。
 はヘアゴムでざっくりと髪をまとめ、顔を洗いはじめた。そうして鏡を見ると、自分の顔をぺたぺたと触る。天元はそんなの様子を横目で伺うようにして見ている。

「顔、すんごいむくんでる」
「そりゃ昨日あんだけ飲んでたらそーなるわ」

 昨晩、天元が職場の同僚からもらった土産物の日本酒飲み比べセットを、二人で一瞬のうちに空にした。
 は酒が入ると、何かと自分の限界を超えたがる。例えば昨日は、四分間瞬きをしない、一回もミスせずに高速で猫踏んじゃったを弾く、目を閉じた状態でへのへのもへじを完璧に描く、など。そのどれもが大したことではないが、本人は至って真剣にやっているのだった。
 ザルの天元は、そんなが無茶しすぎないよう、酒を飲みつつ良きタイミングで制するのが常だった。

「天元はあれからすぐ寝たの?」
「あれって?」
「……あれはあれだよ」

 口ごもりながら言うに、にやりと笑う天元。

「お前、終わってすぐ気絶したからなぁ」
「だってそれは! 天元が……」
「煽ったのはお前だぞ。俺は明日仕事あるっつってんのに、わたし限界を超えたいのーって言うから」

 は眉間に皺を寄せ、唇をぎゅっと結んで天元を見上げる。それは怒りというよりも、恥が滲んだ目だった。

「ばか。筋肉むきむき芸術爆発ばかやろう」

 ふんっと顔を背け、化粧水をばちばちと顔に叩きつける
 昨晩、へのへのもへじがうまく書けずに苛立ちを募らせたは、何分間息を止められるかという新たなチャレンジを始めた。さすがに酒を飲んだ状態でそれはまずいだろうと天元が止めるのも無視して、目と口をぎゅっと閉じた。
 そうして顔を真っ赤にさせはじめたとき、天元がにキスをし、その口に無理やり息を吹き込んだ。そこからは、何分間息を止めるかではなく、何分間キスを続けられるかに挑むと決めたようで、天元にしがみ付いて離れなかった。しかし、されるがままの天元でもなかった。
 それからあれよあれよと事が進み、今こうして、は昨晩のことを忘れたいとばかりに、化粧水を激しく肌へと叩き込んでいるのだった。

「お前さー」
「なに」
「今日は俺が服選んでやるわ」
「え? どうして?」
「タートルネックとかいいんじゃね」
「いやそんなのもう暑くて着てらんないよ。え、なんなの?」

 訝しげなに「別に」と言い残し、洗面所から出ようとする天元。

「あれ?」

 しかし、そんな素っ頓狂なの声に、ぴたりと足を止める。
 振り返ると、は鏡へ身を乗り出すようにして、首元をしきりに触っていた。そうして鏡越しに天元を捉えると、

「ちょっとこれ!」
「おー気づいちまったか」

 の首筋には、ほんのりと赤く色づく痕があった。

「天元のばか! 会社行けないじゃん!」
「どんぐらい付けられるのか、俺も限界を超えてみたいと思ってな」

 その言葉に、はTシャツとズボンを脱ぐ。その胸や腹、太ももや足首の至る所まで、もれなくキスマークがはらはらと刻まれていた。

「なんでこんなに……」
「お前が今日休みだって言うから」
「休みは明日だよ!」

 喚くをなだめるように頭を撫でる天元だが、その手はすぐに振り払われる。そうしては鏡を覗き込み、「どうしよう」と弱々しい声を漏らす。
 天元はふうっと息を吐き、洗面台に近づく。

「じっとしてろよ」

 自分の棚からコンシーラーと筆を取り出すと、片手での頭を押さえ付け、その首筋に筆を当てる。は素直に従い、暴れることなくただ鏡を見つめていた。

「派手に喚き散らしてんじゃねーよ。簡単に隠せるんだわ、こんなもん」

 塗り重ねられていくコンシーラーによって、天元が付けた痕はみるみるうちに薄くなっていく。最後に粉を叩くと、よほど近くでじっくり見ない限りは分からないほど、きれいに隠れてしまった。
 不本意ながらも感心してしまっただが、得意げな天元に、

「なんかやり慣れててやだ」

と唇を尖らせる。

「なーに勘繰ってんだよ。別に慣れてるわけじゃねぇわ。ただ俺様のメイクテクとセンスがすごいだけで」
「……それを真顔で言えちゃうのがすごいよね」
「神だからな」

 高らかに笑う天元につられて、も笑う。

「というか、早く服着てこいよ。風邪ひくぞ」
「天元が選んでくれるんじゃないの?」
「俺が選んだらお前、とんでもねーことになるぞ」
「とんでもねーって?」
「会社の連中に見せるにはもったいねぇほど良い女に仕上がるってこと」

 えっ、と目を輝かせるに、天元は続ける。

「あ、訂正。土台がイマイチだから無理だわ」

 途端にはしかめ面になり、天元はいたずらな笑みを浮かべる。
 はおもむろにつま先立ちをし、セットされたばかりの天元の髪を乱してやろうと腕を伸ばす。

「おいやめろ! 髪はやめろ!」
「どうせフード被るんでしょ? セットしてもしなくても一緒じゃん!」
「ばっかお前、全然わかってねぇな! 見えねーとこにこそ気を配るのが美学なんだよ!」

 ぴたりとの動きが止まり、目を細めて天元を見上げる。

「見えるところにキスマーク付ける男が何言ってんの」

 そう言って再び腕を伸ばしてきたの手を掴み、

「許せって」
「だって首にキスマークとか……! 学生じゃないんだから」

 天元は手を掴んだまま、を抱き寄せる。

「止まんなくなった。お前がかわいすぎて限界超えたんだわ、俺」

 は天元の胸元に埋まっていた顔を上げ、

「ずるい」

と、眉間に皺を寄せ、唇をぎゅっと結んで天元を見つめた。そこに滲むのは、怒りでも、恥でもなく、甘くてやわらかな熱。天元はその瞼に唇を寄せる。すぐに恋しくなってしまうそのぬくもりを追い求めるように、唇は次第に首筋へと這っていく。天元が塗り重ねた化粧が苦いのか、の肌が甘いのか。もう境目もわからない。
 出勤時間が迫る中、二人は束の間、甘くやわらかな熱に包まれていく。



(2021.03.18)


拍手を送る