- 第三話 花のひと -


 瑠火が息を引き取った時、杏寿郎の世界から色が消えた。
 父の槇寿郎は、瑠火の死を境に引きこもりがちになり、酒量が増した。ようやく言葉らしい言葉が話せるようになった千寿郎は、死というものをまだ理解できず、毎夜のごとく母を探し回る。日中は、不憫に思った近隣の人々が日ごとに交代で世話をしに来てくれるが、母恋しさに泣く千寿郎を寝かしつけるのは杏寿郎の役目だった。
 も、よく煉獄家に足を運んでいた。たまにの母も一緒にやって来ては、炊事や洗濯、掃除をしてくれた。
 仏壇の花はいつも新しく、線香も絶えない。夜は槇寿郎が仏間に居る。夜通し仏壇を眺め、蝋燭や線香を取り替え、朝が来るまで亡き妻に語りかけているのだった。
 仏壇の花がどんな色をしているのか、杏寿郎には分からなかった。全てが灰のような色をしているように見えた。


 瑠火が亡くなってから、もう何度目かの朝が来た。槇寿郎は以前のように稽古を付けなくなったので、早起きする必要もないのだが、杏寿郎は朝日が登るとともに目が覚めてしまう。
 隣で眠る千寿郎の顔を見て、その向こうへ目をやる。泊まりに来ていたがそこに寝ているはずなのに、布団はもぬけの殻だった。杏寿郎は弟を起こさないようにそっと部屋を出て、の姿を探す。

?」

 仏間の襖を開くと、そこには槇寿郎が仏壇の前に座り、線香を取り替えているところだった。虚ろな目で杏寿郎を見やると、

「もう稽古はしない。お前は剣士になんてなるな」

 そう言い、酒瓶をあおった。
 ――守ることができなかった。共にいる世界を守るためなら、何だってすると誓ったのに。それなのに、目に見えない病に母を奪われ、幸福を挫かれた。できることは、もっと他にもあったのだろうか。何をどうしていれば、母を守ることができたのか。
 考えても答えは見つからなかった。杏寿郎が道に迷った時、導いてくれるのは母だった。その存在を失った今、暗い闇の中で立ち尽くすしか他ない。しかしきっと、今目の前にいる父はそれ以上に打ちのめされている。
 杏寿郎は、背中を丸める槇寿郎へ何も言葉を返すことなく、そっと襖を閉じた。

 は台所にいた。その後ろ姿に杏寿郎が声を掛けるが、振り返らない。近づいて見ると、は甕を抱え込んで、俯いていた。

「お味噌がもうなくなりそうなの。どこでお味噌を買ってるのか……瑠火さんに、聞けなかった」

 の抱えている甕には、味噌が入っていた。しかしもう底が見えていて、あとわずかしか残っていない。

「でも、おんなじ味噌を買えたって、一緒の味にはならないんだよ。今だってお母さんたちがこれでお味噌汁を作ってくれてるけど、全然瑠火さんの味じゃないんだもん。作り方を知らないから……どんなものから、どうやって出汁を取ってたのかとか」

 は幼いころからいつも、瑠火の作る味噌汁が大好きだと言っていた。杏寿郎もまた、母が作ってくれるさつまいもの味噌汁がこの世で一番好きだった。

「瑠火さんの味、守れなくってごめんね」

 は杏寿郎を見上げ、しゃくり上げながら言った。
 ――誓いを守れなくて、ごめんなさい。
 仏壇に手を合わせる時、杏寿郎はひたすらそれだけを胸に、母を思う。

が泣いて謝ることじゃない」

 そう言って、杏寿郎はの隣に座った。は鼻をすすりながら泣いている。

「母上が味噌をどこで買っていたかは知ってる。今度一緒に行こう」

 は顔を上げ、杏寿郎の横顔を見る。

「でも、味が――」
「それはもういい」

 杏寿郎は台所の出窓を見つめていた。
 母が死んでも、夜は明ける。陽は沈む。季節はめぐる。何ひとつ、止まってはくれない。それは仕方ない。仕方がないんだ。

「俺も母上の味噌汁が好きだった、この世で一番うまかった。でももう――いないから、それは仕方のないことだから」

 自分でも気付かぬうちに息が上がっていた。ふと背中にぬくもりを感じると、が手を当てていた。その頬にはもう涙は伝っていない。まっすぐに、杏寿郎の目だけを捉えていた。そんなの姿に母が重なった時、体の奥底から込み上げる思いが口をついて出た。

「守れなかった……!」

 顔を覆う杏寿郎に、は甕をそっと置き、その震える体を包み込んだ。
 そこへ、小さな足音が近づいてくる。

「にぃに、ねぇね」

 千寿郎だった。二人を見つけると、とたとたと走って来て、杏寿郎の背中に抱きつく。杏寿郎が振り返ると、千寿郎はうれしそうに笑って、

「あっち、いこう」

と、杏寿郎の寝間着を引っ張った。「ねぇねも」との手も引く。

 千寿郎に連れられ、杏寿郎とは縁側までやって来た。目の前に広がる庭の向こうでは、朝日がのぼっているところだった。その光に目を細めていると、

「ははうえ!」

 千寿郎がそう言って、縁側を降り、駆け出した。杏寿郎は目を丸くして千寿郎の走る先を見たが、朝の光にかすんで何も見えない。急いで庭へ降り、千寿郎の後を追う。
 そうして千寿郎が立ち止まる場所へ着いた時。千寿郎はにこにこと笑っていたが、そこには誰もいなかった。そこにあったのは、

「桔梗……」

 桔梗の花々が、天に向かって凛と咲いていた。
 千寿郎は桔梗を見ながらきゃっきゃと笑う。ああ、と、杏寿郎は息を漏らした。
 千寿郎が、暗闇にいた杏寿郎を光のあたる場所まで連れ出したのだ。そして、まるで母を思わせる気高くてまっすぐなその花は、杏寿郎の世界に色を取り戻させた。
 ――そうだ。決して忘れてはいけない、母上との約束があった。果たすべき使命。
 杏寿郎の瞳は、もう揺れてはいなかった。桔梗に顔を近づけて喜ぶ千寿郎を抱き寄せ、炎のように赤いその瞳は、朝日をまっすぐに見上げていた。


 は、そんな兄弟の姿を見ながら、瑠火の言葉を思い出していた。

 ――この世には、人ならざるものが存在します。
 そういったものから人々を守ることが、この煉獄家の務めです。
 杏寿郎も、そう遠くないうちに、煉獄家に生まれた者、強く生まれた者の使命としてその任にあたることになります。
 あなたと杏寿郎は、生まれた時からずっと一緒に過ごしてきましたね。
 でもこれからはきっと、進む道が違ってくる。
 もし、岐路に立つ時が来たら……その時あなたは、あなたの思った道を選ぶべきです。
 何にもしばられることなく、自由に、心がおもむく方へ。
 私があなたに願うのは、それだけです。
 あの子の、杏寿郎の心を照らし続けてくれて、本当にありがとう――。