- 第六話 ぬくもり -


 風呂敷包みを手に帰ってきた杏寿郎は、出迎えた千寿郎に「ただいま」とだけ告げると、自室へと入って行った。
 その少し後で、千寿郎はお茶と茶菓子を持って、兄の部屋の外から声を掛ける。

「兄上、お茶でもどうですか」
「すまないな。入ってくれ」

 千寿郎が襖を開けると、杏寿郎は隊服を脱いでいるところだった。

「俺は千寿郎に詫びなければならない」
「はい?」
「ジャムパンを買いそびれた」

 そんな約束してたっけ、と不思議に思っていると「すまん」と頭を下げられたので、千寿郎は慌てて「気にしないでください! 頭を上げてください!」と返す。

「また今度あの辺りに行った時には、必ず」
「ありがとうございます。美味しかったですもんね、さんが買って来てくださったあのパン」

 千寿郎は湯呑みに茶を注ぎながら、傍に置かれる風呂敷に目をやり、

「いいものは見つかりましたか?」
「ああ、甘露寺にも見立ててもらってな。だが、もう必要ないかもしれない」

 首を傾げる千寿郎。
 「がうまくやると言っているなら、やるのだろう」。先日、の縁談話をした後、千寿郎がそれとなくどう思っているか尋ねると、杏寿郎はまっすぐにそう答えた。しかし今目の前にいる杏寿郎は、その時の様子とはまったく違う。
 千寿郎は遠慮がちに訊く。

「あの……何かあったのでしょうか?」

 目を伏せていた杏寿郎だったが、ふっとかすかに息を吐いたのち、視線を上げると溌剌とした声で言うのだった。

「千寿郎! 一服したら稽古だ!」
「ええっ、あ、はい!」



 その数日後だった。が軽い足取りで煉獄家を訪れ、縁談が流れたことを嬉々として報告したのは。
 杏寿郎は不在だったが、よほど嬉しかったのか、槇寿郎の部屋にまで乗り込んで「おじさん、私は解き放たれました!」と言うので、槇寿郎は千寿郎を呼びつけ、は気が触れてしまったのか、と珍しく動揺した様子を見せたのだった。


「槇寿郎おじさん、久しぶりにお姿を見たけど、少し痩せたみたい。ちゃんと食べてる?」

 鍋の火加減を見ながら、がそう尋ねた。その隣で豆腐を切っていた千寿郎は手を止め、眉を下げる。

「少しずつ食べてはいるんですけど、最近はさらに酒量が増えて……任務前でも断酒できなくなってきてるんです」

 深く唸りつつ、は竹串を手に取る。が煉獄家へ来ると、こうやって千寿郎と並んで台所仕事をすることが多かった。

「ところでさん、今日は何を作ってくださってるんですか?」

 よくぞ聞いてくれたとばかりに、は自信たっぷりに答える。

「初出しだよーこれは。この間ふと思い出してねえ」

 鍋から大根を一つ取り出して器に盛ると、小鍋から味噌だれをひとすくいして大根の上へ乗せ、柚子の皮を散らす。
 そうして千寿郎に差し出し、満面の笑みで言う。

「瑠火さんのふろふき大根!」

 わあっ、と千寿郎の目がきらめく。すかさず「作り方を知りたいです!」と、自前の料理手帖を取り出す。

「酩酊おじさまにこれ食べさせてさ、夢の中で瑠火さんに喝でも入れてもらおう」

 ねっ、と笑うに、千寿郎は眉を下げ、唇をふるふると震わせる。「そんな顔しないのー」と頭を撫でてくるに、千寿郎はたまらず抱きついた。まるで犬を撫でるかのようにがしがしと髪をかき乱されても、千寿郎は構わずの腰にしがみついたまま、声を振り絞った。

「良かった、さんが戻って来てくれて良かった……もう、姉上って呼べなくなるのかと思いました……」

 は「ん?」と撫でる手を止め、千寿郎の顔をまじまじと見おろす。

「どういう意味? 今までも姉上なんて呼んでなかったでしょ?」
「……いいんです! こっちの話です!」
「なによせんちゃん……あっ、さては年ごろなわけね!」
「内緒です!」
「図星か! これはあれだ、よもやよもやだ!」

 千寿郎はにしがみついたまま、声を上げて笑っていた。



 日が傾きはじめた頃、杏寿郎が帰って来た。玄関土間にある草履に目を留め、出迎えた千寿郎にすかさず尋ねる。

が来ているのか?」

 こくりと頷いてほほ笑む千寿郎に、杏寿郎は「そうか!」と口元を緩めた。気持ちが前のめりになっているのか、なかなかうまく草履が脱げない。そんな杏寿郎に、

「兄上、これを」

 そう言って、千寿郎が風呂敷包みを手渡す。
 それは先日、杏寿郎が持ち帰ったものだった。

「いつものお部屋にいらっしゃいますよ」


 が煉獄家へ泊まる時、幼い頃までは杏寿郎の部屋で寝起きしていたが、年ごろになる頃には部屋を分けるようになった。杏寿郎は今まで通りで良いのではと言ったが、は「だめだよ」と耳を真っ赤にしながら譲らなかった。
 廊下の突き当たりにあるその部屋は、千寿郎が産まれた場所でもある。煉獄家でも一番日当たりの良い部屋だ。
 襖から中を覗くと、斜めに差し込む日の光の中で、は横になっていた。杏寿郎が入るぞと声を掛けても、その背中は微動だにしない。
 近寄ると、すやすやと息を立てて眠っている。そんなに、思わず頬を緩める杏寿郎。そしてその傍らに座ると、風呂敷包みを開いた。
 そこにあったのは、白の朝顔があしらわれた、薄花色の浴衣。
 それを広げての体に被せ、艶やかな黒髪に指を滑らせる。



 穏やかな声だった。そして今度は、の頬を指で優しく突く。いつかの日、自分がやられたように、の鼻をぐっと押してみる。それでもは寝息を乱さず眠り込んでいる。
 鼻から指を離そうとしたとき、不意にやわらかな感触が指先に広がった。杏寿郎の動きがぴたりと止まる。指がの唇に触れてしまったのだ。
 そこでが寝返りを打ったので、杏寿郎は慌てて手を引っ込める。仰向けになったは、いい夢でも見ているのか、ふふっと声をもらして笑った。
 そんな様子を見て、杏寿郎は隊服の胸ポケットから丸めんこを取り出す。そうして、白い犬の描かれたそれをの姿と重ね、

「やはり似ているな!」

と声を上げ、笑った。
 その声にはもぞもぞと動き、次の瞬間、ぱっちりと目を開けた。そうして杏寿郎の姿に驚いたように、勢いよく体を起こす。

「あ……お、おかえりなさい」
「ただいま!」

 溌剌とした声でそう返す杏寿郎に、は伏し目がちになる。

「どうかしたか」
「いやなんか、こうして二人で話すのって、すごく久しぶりな気がして……」
「うむ、なるほど! 照れているのだな!」

 違うもん、と言い返そうとしただったが、自分の体に掛けられている浴衣にようやく気づき、首を傾げる。

の寝巻きがくたびれていたから、新しいものをと思ってな」
「えっ、私に?」
「他に誰がいる! まだ寝ぼけているようだな!」

 ははは、と笑う杏寿郎。は薄花色の浴衣をまじまじと見つめている。

にはこの色が似合うと思ってな。そしてこの朝顔も」
「……」
「気に入らなかったか?」

 少し不安げな声色で顔を覗き込んできた杏寿郎に、は思わずのけぞる。そうして後ろ手をついたまま激しく首を横に振り、
 
「寝巻きにするにはもったいないなって! だってこんなにきれいな浴衣……」
「好みではなかったか?」
「違う違う、ごめんね!」

 今度はが身を乗り出し、杏寿郎の手を握る。

「本当に、すてき。澄んだ空に朝顔が咲いてるみたいで。すごく嬉しいよ。ありがとう、きょうちゃん」

 こぼれんばかりの笑みでそう言っただったが、ハッと我に返り、慌てて杏寿郎から離れる。
 唇を結び、ぱちぱちと瞬きを繰り返す杏寿郎。その耳はほのかに赤く染まっているが、顔を赤くしながら浴衣を揉むは気づかない。しかし「」と呼ばれると、すぐに顔を上げる。

「ここに居るということは、あの青年との縁談は無くなったという理解でいいか?」

 あ、と声を漏らす。杏寿郎はそんなを横目で見やる。
 そうしては杏寿郎の方へと向き直り、

「縁談のこと事前にちゃんと話せてなかったから、驚かせちゃったよね。あの話は無くなりました」
「そうか! そうなるとは思っていたが、さすがに婚約者だと言われた時には少し面食らってしまった」
「それは本当に私も頭に来て……」

 それから、はその後の一件のことを全て話した。まるで武勇伝かのように語るの隣で、杏寿郎の眉間には次第に深く皺が刻まれていく。

「で、当面は縁談話も持ち上がらないはずだし、跡取り問題も何とかなりそうだし、万事うまく収まったっていうわけ!」

 満足げにそう言って杏寿郎の方へ視線をやったは、そこにある表情に戸惑った。怒りなのか、嫌悪なのか、恐れか、それとも悲しみか。杏寿郎は、それらがない交ぜになったような顔をしていた。
 きょうちゃん、という声が、杏寿郎の腕の中に消える。一瞬のうちに体を抱き締められていたのだ。

「笑って話すことではない。怖い思いをしただろう。俺があの時、を奪ってでも連れ帰れば」

 は「違う」と言葉をさえぎると、杏寿郎を見上げる。

「きょうちゃんのせいなんかじゃ……私は、自分の力でよく切り抜けたなって、褒めてほしかったのに」
「もしその男がもっと力強く冷酷だったら? 口を塞がれていたら、腕を縛り上げられていたら、どうなっていたと思う。俺はそれを考えるだけで……のそばに付いていなかった自分が憎くて仕方ない」

 もしもなどと考えもしなかったは、杏寿郎の言葉に口ごもり、うつむく。
 確かに、掴まれた手首や撫でまわされた頬の感覚、見下ろしてくる男の目は忘れられない。もし声を上げられなかったら、もっと力づくで襲われていたら。

「お母上はきっと、身を切られるような思いをしたに違いない」

 は再び杏寿郎を見上げた。
 ――そうだ、お母さんの腕の中で私は……。

「きょうちゃんの御守りが力をくれたの」

 おもむろに懐から取り出した丸めんこを杏寿郎の鼻先に押しつけ、は震える声でそう言った。



 あの時、傍らに落ちためんこを見て、力を振り絞れたのだ。そのあとは、母の腕の中で手の震えを抑えようと必死だった。めんこの武士に杏寿郎を重ね、縋りつくように頬を擦り寄せ続けた。
 自分でも知らないうちに、あの時の感情に蓋をしていたのだ。私の方が一枚上手だった、よく戦った、自由になれた。そう思おうとしていた。
 杏寿郎の顔がにじんでいく。は声が漏れそうになるのを手で押さえ、目をぎゅっとつむった。その拍子に涙がこぼれ落ちていくのが、自分でも分かった。

「怖かった」

 杏寿郎は、振り絞るようにしてそう言ったの頭を胸に引き寄せ、ぎゅうっと抱き締めた。
 体に溶け込んでゆくようなやさしいぬくもりに、は今ようやく、胸の奥底から呼吸ができたように感じた。