- 最終話 またね -


 痛みはじめた腹の傷に堪えながら、炭治郎は杏寿郎の鴉に誘われるようにして、金色に輝くススキ畑をかき分けていく。
 川の水面はきらきらと光を反射させながら、あかね色が混じりはじめた空を背景に、ゆったりと流れている。
 炭治郎をこの河川敷まで誘った鴉は、川辺に佇む一人の女性の肩へとまった。薄花色に白の朝顔があしらわれた浴衣に身を包むその女性は、鴉に指を差し出し、鴉はそれをついばんでいる。
 この人が、と炭治郎が思うと同時に、振り返った女性と目が合う。

「あなたが……溝口少年?」

 その言葉に、炭治郎の耳には「溝口少年!」という溌剌とした声が蘇る。

「はじめまして、竈門炭治郎といいます。……煉獄さんには、確かに最初そう呼ばれていました」
「知ってる。ごめんね、わざとそう呼んでみたの」

 うっすらと微笑んだ女性は、炭治郎の方へと向き直る。

「はじめまして。杏寿郎の妻の、です」

 花のようなにおいがする人だと思った。それは、列車で杏寿郎と隣り合わせに座ったときに、ほのかに感じた香りと同じだった。

「あの、煉獄さんのこと……」

 炭治郎はその先の言葉が出ず、口ごもる。カァ、と鴉がか細く鳴き、はその嘴を撫でる。

「祝言を上げられたばかりだったと、千寿郎さんから伺いました」

 炭治郎は眉根を寄せ、唇を噛む。の顔を見ることができなかった。

「俺は煉獄さんの最期に立ち会ったんですけど、その……さんへの言葉は――」
「預かっていないんでしょ?」

 目を丸くし、思わず顔を上げる炭治郎。

「よかった」

 は穏やかにそう言って、炭治郎に微笑む。

「気にしないで。そういう約束だったから」

 風がそよぎ、ススキが擦れ合う音が広がる。
 炭治郎が言葉を紡げずにいると、が「私ね」と口を開いた。

「小さい頃から、あの人と別れる時にはいつも“またね”って言ってたの。彼も“またな”って返してくれてた。でも、鬼殺隊に入ってからは、そう言わなくなった。奥歯を噛み締めるようにして、力強くうなずくだけになった。だから私は意固地になって、それからもずっと“またね”って言い続けてきたけど……」

 そこまで言うと言葉を止める。そうして息を吐くように短く笑って、

「重荷だったかな」

と首をかすかに傾げた。
 炭治郎は手のひらを強く握り締める。

「そんなことないです。きっと、さんのその言葉は、煉獄さんの力になっていたと思います。また会うために、今日も生き抜くって」

 それは、曇りのないまっすぐな目だった。
 は、そんな炭治郎をしばらく見つめたのち、

「ありがとう」

と、微笑んだ。
 不意に、炭治郎の背負っている箱がギリギリと音を立て始めた。

「禰󠄀豆子、どうした? 出たいのか?」

 うー、という声が聞こえる。炭治郎が「まだ日が落ちていないからだめだよ」と背中に語りかけていると、

「ここに妹さんが入ってるんだね。かわいい声がする」

と、がすぐ隣まで近づいてきて、箱の側面をコンコンと軽く叩いた。すると箱の内から、それを真似るようにコン、コンと音が返ってくる。
 そんなやりとりを繰り返しながら、がおもむろに話し始める。

「鬼殺隊の人たちはみんな、いろいろな思いを背負って戦ってるんだね。平々凡々と暮らす私たちを守るために。ごめんって言うべきなのかな。だって、ありがとうだなんて、そんな偉そうなこと言えないよ」

 そう言って、どこか自嘲的な表情を浮かべていた。
 炭治郎はそんな顔を見て、の方へと向き直る。すると、コンコンと叩き合うことができなくなったせいか、箱の中から禰󠄀豆子の不服そうな声が漏れる。

「何も言わなくったっていいと思います。ただ大切な人たちの明日を守るために、自分がそうしたくて、そうせずにはいられなくて、戦っているだけですから」

 は目を丸くしたが、次第にその視線は下がっていき、ついに伏せた。しかしその口元は、安堵したような笑みを含んでいた。
 そうして顔を上げ、「ちょっといいかな」と手を差し伸べると、炭治郎の頭に乗せる。

「そんなことまっすぐに言ってくれる少年には、こうせずにいられない」

と、くしゃくしゃと撫でた。炭治郎は突然のことに戸惑いつつも、どこか懐かしいような、心地よい感覚になる。
 しかし、ふわりと鼻に届いたにおいに、「あ……」と声を漏らした。

さん、気づいてますか?」
「え?」
「お腹に、子どもがいるみたいです」

 さあっと風が吹き、ススキが揺れる。

「あの、俺は鼻が利くんです。妹や弟たちの時もそうだった、母さんから同じにおいがしてて……」

 は炭治郎の頭に手を乗せたまま、目を見開いている。肩に乗る鴉の声に、その手をゆっくりと引っ込め、おそるおそる自らのお腹に当てる。
 炭治郎は羽織の内側から白い包みを取り出した。

「千寿郎さんから譲り受けたんですが、お腹の子に渡す方がいいと思います」

 そうしての前に差し出されたのは、炎を象った鍔。
 初めてこれを見たときと同じ場所にいる。はふとそう思い出した。杏寿郎に刀を見せてもらい、この鍔に触れた。槇寿郎のものとも、千寿郎のものとも違う。いつ何時もそばにあった、杏寿郎だけの炎。

「煉獄さんの命は、繋がれていくんですね」

 涙を浮かべながら笑う炭治郎。はそんな炭治郎の手を両手で包み、炎の鍔を握らせる。

「これは、炭治郎くんに託されたもの。だからどうか持っていて」
「でも、そんな――」
「それに、この子が大きくなる頃には、もう刀は必要なくなってる。きっと、鬼のいない世界になってるから。私はそう信じる」

 「俺は信じる」。あの日、まっすぐな瞳でそう言われたことが思い起こされ、炭治郎は目を細めた。
 あの時、煉獄さんはまるで朝日に抱かれるように、穏やかな表情をしていたんだ――。
 そんな姿が目の前にいるに重なったように思えて、炭治郎は堪えきれずに声を漏らし、泣いた。は炭治郎が落ち着くまでそばに寄り添い、その頭をやさしく撫で続けた。

 炭治郎がそろそろ行きますと言った頃には、空はすっかりあかね色に染まっていた。
 が最後に彼の背中の箱をコンコンと叩くと、嬉しそうな声とともに、コンコンと返ってきた。
 炭治郎が頭を下げ、ススキ畑へと向かっていく。

「炭治郎くん」

 その声に立ち止まり、振り返る炭治郎。

「またね」

 の言葉に、炭治郎は笑った。それは、まぶしいほどの笑顔だった。

「また必ず!」

 そう言いながら豆だらけの手を大きく振り、炭治郎はススキの中へと消えていった。

 はその場に崩れるようにして座り込む。そうして、懐から二枚のめんこを取り出した。
 一枚は、ぎょろりとした目玉の武士。もう一枚は、血がにじみ、破れかぶれになった丸めんこ。それは、杏寿郎の胸ポケットに入っていた遺品だった。そこに描かれる犬は、相変わらず陽気に笑っている。
 杏寿郎と最期まで共にしたそのめんこを口元に当て、

「きょうちゃん」

と、涙を流す。ずっと堪えていた。炭治郎の前で涙を見せるのは酷だと思ったからだ。

 強い風が吹いた。頬を伝っていた涙を、その風がさらってゆく。
 ふと顔を上げたの目には、もう涙は浮かんでいなかった。そうしてお腹を見おろし、そっと触れる。指先から、いとおしいあのぬくもりが広がった気がして、唇を結んだ。
 そうしてそのまま、赤い夕日を見つめる。
 日の沈む方には、極楽浄土があるらしい。いつか、この河原で空を見ていたとき、杏寿郎がそう教えてくれた。じゃあ瑠火さんもあそこにいるんだね、と言うと、杏寿郎は笑って、力強くうなずいた。
 は夕日を見すえたまま、両腕でお腹を抱え込む。
 そうして、覚悟と慈しみを孕んだ声で言うのだった。

「守るよ」



 - 完 -


(2021.02.07-02.14)


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