コンコン、という心地良い音を憶えてる。
 鬼だった頃の記憶は曖昧で、なんだかずっと、長い夢を見ているようだった。それでも憶えていることはいくつかあって、その中の一つが、あの音だった。


- 誓い(あけぼのに咲く-番外編-) -



「禰豆子ちゃん」

 篝火の前に置いた床几に座り、燃える炎を見上げながら、トントンとお腹に手を当てる。その仕草が、あの音を思い起こさせた。さんはこちらに気づくと、にっこりと微笑んだ。

「寒くない? こっちにおいで」

 そう手招きをされ、体が勝手に動いてしまう。いつもそう。さんにおいでと言われると、肩の力がふっと抜け、手足がひとりでに動くのだった。
 さんと初めて顔を合わせたのは、人間に戻れた後だった。千寿郎くんと共に、蝶屋敷で静養するお兄ちゃんを訪ねて来てくれた。「禰豆子ちゃん。やっと会えたね」と笑ったその姿に、穏やかな声に、泣いて縋りつきたい思いを堪えるのに必死だった。どうして。初めて会ったのに。そんな思いをぐるぐると巡らせていると、お兄ちゃんが教えてくれた。顔を合わせるのは初めてだけど、禰豆子とさんは前に会ったことがあるんだよ、と。首を傾げる私に、さんは脇にあった小机を軽く叩いた。コン、コン。その音に、涙が一つこぼれ落ちた。
 ――ああ、あのときの、ひと。
 暗い木箱の中で、胸を撫でるような優しい音とともに、木板を通して溶けてくるぬくもりを感じていた。コンコンと叩かれるたびに、不思議と母を思い起こした。そんなわけないだろうとお兄ちゃんには笑われるかもしれないけれど、今思えばあの一瞬、胎内の記憶が巡ったのかもしれない。
 再会をしてからは、身重のさんの身の回りの手伝いをするために、頻繁に煉獄家を訪れた。千寿郎くんは「お忙しいのに悪いです。僕がいますので大丈夫ですよ」と言ったけれど、彼も日中は学校がある。槇寿郎さんも家のことをしようと動くけれど、「お義父さんにそんなことさせられない」とさんが仕事を奪ってしまう。それなら私がちょうど良いんじゃないか、と半ば押し切る形で、こうして今夜もさんのそばに居るのだった。

「ごめんね。今日も泊まりになっちゃったね。家のことは大丈夫?」
「平気です。たまには私がいない方が、お兄ちゃんたちも寛げると思いますし。男同士の話もしやすいんじゃないですか?」
「そうかなあ。善逸くんはすごく寂しがってそうだけど……」
「善逸さん?」
「そのうち私、恨まれちゃうかも」

 首を傾げていると、さんはただ淡く笑むのだった。そうして、「座って」と床几をもう一つ差し出してくれる。

さん。お腹に触ってもいい?」

 床几を広げながらそう尋ねると、さんは「もちろん」と笑った。けれど私の差し出した手は、指先がお腹に触れる寸前でぴたりと止まる。

「……本当に、大丈夫ですか?」

 おずおずと訊くと、さんは、なめらかな口調で言った。

「触ると弾けてしまいそう?」

 なんで分かったの。驚いて目を丸くしていると、さんは喉を鳴らして笑った。

「私のお腹は丈夫なんだよ」

 そうして、私の手を取る。

「禰豆子ちゃんは優しいね」

 けれどお腹にあてがうことはなく、私の手の甲をひと撫でしたのち、ふっと離した。無理強いはしない。どうするかは自分で決めて。そう言うかのように、さんは口角をきゅっと上げた。
 大きく息を吸う。そうして、膨らむお腹にゆっくりと手を当てた。ああ、このぬくもり。お母さんのお腹も、こうだった。

「……あったかい」

 あふれそうになる。さんのそばにいると、遠いあの頃の、包まれていたぬくもりを思い返すから。母が与えてくれた、やさしい熱を。このお腹にあるぬくもりは、それと似ている。
 私は堪えきれずに、お腹に頬を当てる。するとさんは、頭を撫でたあと、私を体ごと抱きしめてくれた。お兄ちゃん以外の誰かに抱きしめてもらうのは、本当に久しぶりだった。全身から溶けてくる熱に、頭がぼうっとしてくる。そのとき、頬で胎動を感じ、あっと声が漏れる。

「喜んでる。禰豆子ちゃんがあったかいからだね」

 ぽこぽこと、踊るように動いている。確かにさんの言う通り、喜んでくれているのかもしれない。

「もしくはかわいい女の子が好きなのかも。さてはこの子、男だな」

 冗談めいた口調で言うから、私もくすくすと笑ってしまう。さんは変わらず、私の頭を撫でてくれる。そうして、その手を背中に回し、トントンと軽く叩く。コン、コン。それは箱を叩いたあの時のようだった。

さん」

 あの日。ススキの波が広がる河原で、お兄ちゃんがさんに伝えたことを、私も知っている。昇っていった命と、宿った命。さんはきっと、たくさんの思いを抱えて今、こうして篝火の前にいる。

「ぬくもりを、思い出させてくれてありがとう」

 言いながら、トントンと背を打つ心地良さにまどろみそうになる。背後でぱちんと爆ぜる炎の音に、ああもしかして、そこに居るのかなと思った。

「あのね、さん」

 鬼だった頃の記憶。そのうちの一つに、あの赤い瞳がある。「いいか、竈門妹」と、汽車の中でそう真っ直ぐに見据えられたことを憶えている。

「私、この子に会えるのがすごく楽しみだよ」

 ――ねえ、煉獄さん。お兄ちゃんに言葉を掛けてくれて、ありがとう。鬼だった私を認めてくれて、ありがとう。

「禰豆子ちゃん」

 ありがとう。そう言ったさんの目からこぼれ落ちた涙が、私の頬を打つ。しかし涙は燃え盛る炎の熱で、一瞬にして消えていった。

「早く会いたいなあ」

 ――ねえ、煉獄さん。誓うよ。今度は、あなたが大事にしたかったものを、あなたに救われたみんなが、私が、守るって。だから、大丈夫だからね。




(2022.02.18)


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