最近よく、あの頃の夢を見る。それは夢と呼ぶにはあまりにも鮮明で、まるで、魂の記憶が見せている映像のようだった。
 その中で、涙を流しながら微笑む女性がいた。こちらへ手を伸ばし、何かを語りかけている。知り合いにはいない女性だった。知らない、けれど知っている、そんな不思議な感覚。
 ただ一つはっきりと分かるのは、夢から覚めたときに感じる、どうしようもないほどの恋しさだけ。


01.魂の記憶



 入学式の後片付けのため、校内には生徒会や吹奏楽部の他、数人の教員が残っていた。
 杏寿郎もその一人で、生徒に混じってパイプ椅子や床のシートを片付けたのち、翌日からの授業に備えるために社会科準備室へと向かっていた。

 この学園の中庭には、樹齢百五十年とされる桜の木がある。毎年入学式の直前に見頃を迎えるので、式当日には、この桜を背景に記念写真を撮る新入生とその保護者であふれるのだった。
 陽も傾き、今では人気もなく静まり返っているその桜木を、杏寿郎は三階の廊下から見下ろした。

 ――前世の記憶がある。しかしそれは、杏寿郎だけではない。この学園の職員室にいる大半の者がそうだった。初めて会ったとき、懐かしさが込み上げるとともに、あの頃の記憶がまざまざと蘇ったものだ。
 杏寿郎は、自分の死後、仲間たちがどう生きたのか知らない。宇髄は長く生きたと言っていた。伊黒や悲鳴嶼は、鬼舞辻との決戦で死んだと。冨岡と不死川は、それから数年後に寿命で死んだと聞いた。二十半ばが寿命なんて、と言う杏寿郎に、冨岡は「前借りをしたから」と彼らしく言葉少なに答えた。
 宇髄や冨岡、不死川がどんな余生を過ごしたのか知りたいと思ったことはある。けれどみな、前世のことを多くは語りたがらなかった。鬼がいた時代と現代は全く違う。ようやく訪れた平穏に影を落とさぬためなのか、それとも、わざわざ語るまでもないことだと捉えているのか――。

 杏寿郎は、桜木の下で揺れた影に目を留める。人はいないと思っていた。けれどその満開の花に隠れて、姿が見えなかっただけのようだ。
 桜の下から現れた一人の女子生徒。風に揺れる長い黒髪は、毛先にかけてゆるやかに波打っている。胸元にコサージュが見えた。新入生であろうその女子生徒は、木の幹に近づくと膝を折り、地面の何かを見つめている様子だった。
 生徒の顔は、よく見えない。それでも杏寿郎は何かに引かれるように、早足で廊下を進み、階段を駆け下りると、そのままの勢いで中庭へと出た。


「君、どうかしたか」

 声を掛けると、女子生徒は振り返った。その顔に、杏寿郎の息は止まる。風に乗って届いていた吹奏楽部の演奏も、校庭で響く生徒たちの声も、何もかもが聞こえなくなった。
 途端に、夢によく出てくるあの女性が浮かんだ。そうして、目の前の女子生徒と彼女が、ぴたりと重なったのだ。

「――見つけた」

 言葉が勝手にこぼれ落ちた。
 すると堰を切ったように、あの頃の記憶が身体中を駆け巡った。出会いから、別れまで。彼女と過ごした日々。あのまま続くことを願ってやまなかった、日々――。

「鳥が、怪我をしているようで」

 立ち尽くす杏寿郎に、女子生徒は囁くように言った。
 しゃがみ込むその傍らには、小さなメジロがじっと佇んでいる。時折り羽をバタつかせ、飛び立とうとしている様子だった。
 女子生徒が、メジロへ手を伸ばした。杏寿郎は咄嗟に、「触らない方がいい」と口を開く。

「野生の鳥は人を怖がる。下手に触れば、ショック死してしまうこともある」
「そう、なんですか? でもじゃあ、どうしたら……」

 女子生徒は眉根に皺を寄せ、困惑したようにメジロと杏寿郎とを交互に見合わせる。
 杏寿郎は足を進め、そんな女子生徒へと近寄る。

「信じて待とう」

 隣にしゃがんだ杏寿郎を見上げ、女子生徒は首を傾げる。

「見たところ、特に傷もないようだ。少し挫いたのかもしれないな」
「挫く……」
「じきに飛べるはずだ。この鳥の回復力を信じて待つとしよう」

 杏寿郎は横目で女子生徒を見やる。バタバタと羽を鳴らすメジロに、彼女は何かを唱えていた。

「……がんばれ、がんばって」

 飛べるよ、大丈夫だよ。そんな懐かしい声が、杏寿郎の耳に蘇る。
 祈るように口元で手を合わせる女子生徒。そんな姿に、杏寿郎は思うのだった。あの時と同じだ、と。
 杏寿郎はその横顔をまっすぐに見つめた。視線に気づいた女子生徒も、顔を向ける。
 目と目が、合う。やわらかな黒褐色の瞳は、ただ目の前の杏寿郎を映していた。一方、杏寿郎の赤い瞳は、彼女の黒褐色の奥を探るように捉えていた。

 ――杏寿郎さん。

 声が、聴こえる。

「君は心が優しいな」

 女子生徒は目を丸くしたのち、視線をわずかに下げた。

「そんな……先生こそ」

 「先生」という言葉に杏寿郎の動きが止まったためか、女子生徒は慌てて続ける。

「先生、ですよね? あれ、保護者……?」

 ああ、そうだ。普通は前世の記憶なんて持ち合わせていない。生まれたばかりの頃には覚えていたとしても、成長と引き換えに少しずつ忘れていく。それが、普通なのだ。
 
「煉獄杏寿郎。君の言う通り、この学園の歴史教師だ」
「歴史の……すみません私、高校からの編入で、まだ先生たちのこと分からなくて。あ、、です」

 知ってる。杏寿郎は心の内でそう返した。
 夕陽が差す。桜の花が茜色に染まる中で、メジロがひときわ大きく身を動かした。
 あっ、との声が漏れる。メジロは羽音を響かせ、夕焼け空へと飛び立っていった。

「よかった……」

 は安堵したように笑った。
 メジロの姿が消えてもなお空を見上げ続ける横顔に、杏寿郎はおもむろに訊く。

「君は、前世を信じるか?」

 傾けられたの顔には、何の雑念もないように見えた。ただ唇がかすかに開き、

「前世――?」

と、呟くように言った。
 その目には、何が見えているのか。杏寿郎が一歩踏み出す。そうして彼女の名前を呼ぼうとした、その時。
 


 途端に、の顔に表情が戻った。そうして声の方へと振り向く。杏寿郎もその方へと視線だけをやる。
 桜木の向こうから、こちらへ近づいてくる男子生徒。その胸元にはと同じく、コサージュが付けられていた。

「玄弥」

 ――不死川の、弟。
 杏寿郎は、「煉獄先生?」とわずかに首を傾げる玄弥に、口角をきゅっと上げた。玄弥はぺこりと頭を下げたのち、視線をへと移す。

「お前何してんだよ、こんなとこで」
「何って、玄弥を待ってたの」
「はあ? 先帰れって言っただろ。おばさんたち絶対家で待ちくたびれてんぞ」
「え?」
「え、じゃなくて。今日は入学祝いで外食するって、お前がさっき話してたじゃねえか」

 ああっ、と声を上げたは、慌てた様子でカバンを手に取る。そうして玄弥の元へと駆けるも、途中で足を止め、くるりと振り返った。
 
「さよなら、煉獄先生!」



 小さくなっていく背中を見送る杏寿郎は、ゆっくりと視線を下げ、瞼を閉じてゆく。


 ――広い湖のほとりだった。湖に巣食らった鬼が近隣の村を襲い、応援に駆けつけたのだ。
 交戦中の隊員たちの中に、色変わりのしていない刀を持ち、打ち震えながら鬼と対峙する女性隊員がいた。それが、彼女だった。
 鱗にまみれた鬼の手が、彼女の方へと伸びたとき、杏寿郎の炎刀がその腕を断ち切った。そうして瞬きする間に、鬼の首と胴は泣き別れになるのだった。
 隠が村人や隊員の治療などの後処理を行う中、彼女は湖のほとりにそびえる大木の下でうずくまっていた。その傍らでは、弱った様子のスズメが羽をバタつかせていた。
 杏寿郎が「連れ帰ってやろう」とその背に声を掛けると、彼女はびくりと肩を上げた。振り返り、杏寿郎の姿を見ると「炎柱さま」と驚いていた。それが、初めて交わした言葉だ。
 弱った鳥に触れると驚かせてしまうから、このまま様子を見るのだと彼女は言った。このスズメの力を信じるのだ、と。

「大丈夫、飛べるよ」

 彼女は口元で手を合わせ、スズメに向かって熱心に語りかけていた。杏寿郎も隣で膝を折り、それを見守った。
 隠が撤収しないのかと伺いに来たが、先に行くよう伝えると、湖のほとりには杏寿郎と女性隊員の二人だけになった。彼女はそれに気づかないほど、スズメに集中していた。
 山と山の間から、朝陽が覗く。湖の水面が薄紅色に染まる。辺りがやわらかな光に包まれる中、スズメは羽音を響かせながら飛び立った。
 朝焼けに消えてゆくスズメを見送りながら、よかった、と何度も繰り返し、彼女は涙ぐんでいた。その横顔に、とても心優しく、慈しみ深い人だと、そう思った。
 それが、彼女とのはじまりだった――。


 そんな、魂の記憶。
 杏寿郎は瞼を開く。そうして、玄弥と並んで歩くの背中に、

「やっと会えた」

 そう、ひとりごちるのだった。


 そんな杏寿郎の姿を、校舎四階の窓から見下ろす人影があった。

「不死川」

 そう声を掛けられ、実弥は窓枠から手を離した。振り返ると、いつからそこにいたのか、体育教師の冨岡義勇が佇んでいた。
 義勇は窓の方を指しながら、

「あの女子生徒は――」
「言うな」

 言葉を遮った実弥は、鋭い視線で義勇を睨みつける。

「特に煉獄には、死んでも言うんじゃねェ」

 義勇がどう受け止めたのか、その表情からは窺い知ることができなかった。しかし「分かったなァ」と念を押されると、彼はこくりと頷いた。
 そうして実弥は再び窓の外を一瞥したのち、ポケットに手を突っ込み、数学準備室へと消えていくのだった。



 ――どうか見つけてください。私も、きっとあなたを見つけ出しますから。
 また、会いましょう。






(2021.06.27)