03.願わくば



「煉獄。お前ってさ、いっつもあんな感じなわけ?」

 食堂から出て行くの背を見送っていると、不意にそう訊かれて、杏寿郎は顔を向けた。

「憶えてないんだろ、前世のこと。そりゃ怖がられるわ。相手は高校生だぞ」

 いつになく真剣な顔をして言う宇髄に、杏寿郎も低い声で返す。

「やっと見つけたんだ。目の前にいるのに、追わずにはいられない」

 はあ、と息を吐いた宇髄は、そのまま視線を横に流す。その目は、頬杖を突いてそっぽを向いている実弥を一瞬捉えたが、すぐにまた杏寿郎へと戻された。

「まあ、お前の気持ちも分かるけどよ。俺の嫁たちも、俺のこと一切覚えてねぇからなあ。雛鶴なんて今度結婚するらしいし」

 その言葉に、杏寿郎はわずかに眉根を寄せる。実弥も宇髄へ顔を向け、目を見張っている。宇髄はそんな二人の表情を見て、「なんてツラしてんだよ」と鼻で笑った。そうして厨房の方を見やるので、杏寿郎もつられて目をやる。そこには、生徒たちへ食事を受け渡しながら微笑む雛鶴がいた。

「宇髄はそれでいいのか」

 静かにそう訊く杏寿郎。宇髄は雛鶴を見つめたまま、

「いいんだよ俺は。愛した女が幸せに生きてんなら、それで」

と、笑った。
 雛鶴は送られた視線に気づき、頭を下げながら淡く笑む。宇髄は、ヨッと明るく手を上げた。

「それはきっと、前世で思い残すことなく共に過ごせたからこそ言えるのだろう」

 宇髄は雛鶴から目を離し、杏寿郎を見る。

「けれど俺は、彼女があれからどう生きたのかも知らない。君たちは知っているのか? そもそも鬼殺隊にいた頃の彼女を、君たちは知っていたか?」

 実弥は頬杖を突いたまま、空になった手元の皿を見つめている。杏寿郎はそんな実弥と、瞬きを繰り返す宇髄とを交互に見やる。
 口を開こうとする気配がない実弥に、宇髄は再び息を吐く。そうして「そうだな」と言うと、杏寿郎の赤い瞳がじっと宇髄を捉えた。

「鬼殺隊にいた頃のは、知ってる。剣士から隠に移ったやつ、ぐらいの認識だったがな。それからののことは――」
「煉獄先生ー」

 そこで不意に名前を呼ばれた杏寿郎は、くるりと振り向く。生物教師の胡蝶カナエが、手を振りながら近づいてくるところだった。

「お食事中にごめんなさい。先生のクラスの子たちが、ケンカを始めちゃいまして」

 勢い良く立ち上がった杏寿郎に、宇髄が声を掛ける。

「手伝うか?」
「すまない! ではこの牛丼と親子丼を代わりに食べてもらえないだろうか」
「……そっちかよ」
「よろしく頼む!」

 杏寿郎は食べ終えた皿を重ねて、胡蝶と共に食堂から出て行った。
 途端に実弥が、その鋭い目で宇髄を睨み上げた。そんな実弥に対し、宇髄は牛丼と親子丼を指しながら、「どっち食う?」と訊く。

「宇髄……テメェ面白がってやがるなァ」
「ちゃんと約束は守ってんだろ? 煉獄には言わねえって」
「破りかけてんだよテメェのは。……もうあいつの話が出ても下手に乗るんじゃねェぞ」

 実弥は席を立ち、お盆を手に持つ。

「不死川」
「……ンだよ」
「それでいいのかよ。別にお前、悪ィことしたわけじゃねーだろ」

 束の間見合った二人だったが、実弥は舌打ちを残して踵を返す。

「あっ、おい! お前もこれ加勢しろよ」
「いらねぇ」

 ひらりと手を振り、実弥は生徒の波に消えていく。
 残された宇髄は、牛丼と親子丼に視線を落とし、

「いつかは知ると思うけどな」

 そうして顔を上げ、小さくなっていく実弥の背中に独りごちるのだった。

「そんとき、お前はどうすんだよ。なあ、不死川」





「炎柱さまは、どうしていつも私なんかに構ってくださるのですか?」

 朝の澄んだ空気が身を包む中、は遠慮がちにそう尋ねた。それは、山での任務を終えた帰り道のことだった。杏寿郎とは、湖のほとりでスズメを助けたあの日から、もう何度も任務を共にしていた。

「私なんか、とは?」

 背中を負傷したは、隠の処置を受けたのち、杏寿郎の腕を借りて歩いていた。「炎柱さまのお手を借りるなんて畏れ多くてできません」と頑なに首を横に振っていたが、杏寿郎が半ば強引にその体を引き寄せたので、観念して歩き始めたのだった。

「――私には剣技の才がありません。刀だって色変わりしないし、ご存じの通り、任務ではいつも足手まといで……惨めなほど非力な、弱い人間です」

 はその足を止め、地面に視線を落として、か細く言った。

「正直、このまま鬼殺隊にいていいものなのかと……悩んでいます」

 背中の傷は、仲間を庇ったがために負ったものだ。杏寿郎は到着間際、蒼白な顔をして膝から崩れ落ちる隊員を見た。そんな隊員に、鬼が襲いかかる。杏寿郎は鬼へと突き進む足を加速させたが、間に合わない、と思った。そのとき、が隊員に飛びかかり、鬼の攻撃をかわしたのだった。しかしその背は鋭い爪で裂かれ、血が溢れ出ていた。
 「具合が悪そうだなと思ってたんです。前線を離れた方がいいのではないかと。でも階級のこともあって、進言するのをためらってしまって」駆けつけた杏寿郎に、はそう話した。私よりもあの隊員を、と言うに構わず、杏寿郎は止血しようと手を当てる。が、自らの手に滲んだの血に、視界が一瞬ぐらつくのを感じた。命の灯火が消える瞬間を、もう何度も目の当たりにしてきた。失いたくない。彼女は失いたくない。そう、強く思ったのだった。

「君は、周りをよく見ている。誰もが見落としそうなものにも目を向けて、ためらわずに手を差し伸べることができる。たやすく思えるだろうが、みなができることではない。それは君の強さで、立派な才能だ」

 は顔を上げ、杏寿郎を見た。

「君は剣士にこだわるか? であれば、俺のところで鍛えてあげよう。だが――」

 の瞳は、かすかに揺れていた。朝陽を受け、きらりと輝いて見えたのは、涙が滲みはじめたせいだろう。

「命の守り方は人それぞれだ。剣士だけが全てではない。この鬼殺隊で、君が君として生きる道は、きっと他にもあるはずだ」

 彼女の守り方は優しくも、危うさを孕んでいると思った。最前線で鬼と立ち向かう剣士としてそのやり方を続けていくならば、力をつけなくてはいけない。しかし、彼女の武器は刀ではない。慈しみ深さだ。そしてそれが生かされるのは、剣士ではない。杏寿郎は、そう感じていた。
 杏寿郎の言葉に、はついに涙をこぼした。

「守りたい、です。失う痛みや悲しみを、もう誰にも味わってほしくないです。守りたいんです。でもそれは、刀を持たなくてもできるのでしょうか。私に……できるのでしょうか」

 瞳が溺れていた。その中で必死にこちらを捉えるに、杏寿郎は腰をかがめ、目線を合わせる。

「できる。君なら大丈夫だ」

 頬を伝う涙を、杏寿郎の指が掬う。しかしそれでは間に合わないほどに、涙は次から次へとこぼれ落ちるのだった。
 肩を震わせて静かに泣いていただが、次第に落ち着きを取り戻したころ、杏寿郎は「」と呼び掛けた。それは朝の空気に溶け込むほどに、やわらかな声色だった。

「俺は、君がどんな道を選ぼうと、君の傍にいたいと思っている。構わないだろうか?」

 その言葉に、は目を丸くしたのち、ゆっくりと視線を下げてゆく。

「……どうして、私なんですか?」

 小さな声で尋ねただが、その頬は紅潮していた。

「君はきっと、俺を見落とさないだろうから」

 杏寿郎の言葉に、は顔を上げ、かすかに首を傾げた。そうして、ふっと力が抜けたように笑うのだった。

「見落としようがないですよ。炎柱さまのような方を」

 杏寿郎は、の体をぐっと引き寄せた。
 ああ、良かった。ここにいる。ぬくもりがある。
 願わくばもう、何も失いたくない――。





 コンコンという音で、杏寿郎は目を開けた。

「失礼します」

 社会科準備室の戸が開き、女子生徒が入ってくる。だった。窓辺に寄り掛かる杏寿郎から少し距離を置いた場所で立ち止まると、不安げな顔をして、おずおずと訊く。

「あの先生、私……何かしたでしょうか?」

 部活動の前に社会科準備室へ来るように、という呼び出しを受けたのだった。しかしには全く身に覚えがないのだろう。どんなことを言われるのだろうかと、不安と恐ろしさで体を小さくしていた。

「君は前世を信じるか?」

 杏寿郎は神妙な面持ちで、そう尋ねた。途端に、は脱力したように見えた。

「またそれですか……」
「どうなんだ。信じるか?」

 杏寿郎の低い声と真剣な眼差しに、は少し視線を下げる。そうして、カバンを胸元で抱き締めるようにして持つと、ゆっくりと口を開く。

「……昔、祖母が言っていました。人が生まれてくるのは、前世で何か課題を残しているからで……それを今世で解決できれば、もう生まれ変わることはない、と」

 下げていた視線を杏寿郎へと向けたの顔は、窓から差し込む夕焼けの色に染まっていた。

「なので私も……前世はあると、思います」

 そうしてまた、気恥ずかしそうに俯く。杏寿郎はそんなに一歩、また一歩と近づきながら「そうか」と返した。



 咄嗟に顔を上げたは、目を丸くした。名前を呼ばれたこともそうだが、すぐ目の前まで迫っていた杏寿郎の姿に驚いた様子だった。
 杏寿郎は腰をかがめ、と目線を合わせる。そうして、淀むことなく真っ直ぐに言うのだった。

「卒業したら、俺と結婚してくれないか」





(2021.07.25)

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