04.思い出せ



「玄弥は、さんと付き合ってるのか?」

 炭治郎の言葉に、玄弥は飲んでいた紙パックを握り潰してしまう。その拍子に、ストローからあふれ出したカフェオレがぼたぼたと廊下に落ちた。

「は、つッ、付き合ってねぇよ!」
「そうなのか。いつも一緒にいるし、玄弥から甘い匂いもするからてっきり」

 そう言いながら、炭治郎はティッシュを取り出し、床にこぼれてしまったカフェオレを拭いはじめる。玄弥も慌てて膝を折ると、炭治郎からティッシュを貰い、ごしごしと力任せに拭く。

「……甘い匂いだったら、なんなんだよ」
「禰豆子といるときの善逸からも、同じ匂いがするんだ」

 にこっと微笑んだ炭治郎。その言葉に込められた意味を悟り、玄弥は耳まで赤く染めながら舌打ちをした。
 不意に、バタバタという足音が聞こえてきた。次第に近づいてくるその音に、玄弥と炭治郎は顔を上げる。廊下の角から現れたのは、だった。

「玄弥……!」

 玄弥の姿を見つけると、は安堵したように笑んだ。そうして、こちらへと駆け寄ってくる。
 スンスン、という空気を吸い込むような音。なんなんだ、と思った玄弥が隣を見ると、炭治郎が自分の体に顔を近づけて、匂いを嗅いでいた。

「おい嗅ぐな!」

 玄弥に鼻先を摘まれ、炭治郎が「わあっ」とどこか楽しげに鼻声を漏らす。
 「竈門くん?」と首を傾げるを、玄弥はしゃがみ込んだままの体勢で見上げた。

「どうしたんだよ、そんな走って。煉獄先生の説教から逃げて来たのか?」

 するとは見るからに動揺した様子で、

「あっ、いやその、ちょっと……トイレに行きたくて」
「なら行ってこいよ。待ってるから」
「ご、ごめんね。すぐ戻るね!」

 は申し訳なさそうに謝ると、再び走って行く。

「戸惑い」

 玄弥は、ぼそりとそう呟く炭治郎へ顔を向ける。

「と、なんだろう? この匂いは……恐怖、に近いのかな」

 炭治郎はの背中を見つめながら、鼻をスンッと鳴らした。玄弥も、廊下の角へと消えてゆくの背を見送る。その眉間には、かすかな皺が刻まれていた。


 トイレに駆け込んだは、洗面台に手を突き、深く長い息を吐く。そうして、鏡に映る自分の姿に目を見開いた。
 ――なんで、こんなに顔が赤く……。
 ハンカチを取り出し、額に滲む汗を拭う。そうしながら、社会科準備室でのことを思い返す。

「結婚してくれって、なに……」

 驚きで声も出ないとは、あのことを言うのだろう。
 「俺には前世の記憶がある」と、先生は言った。「前世で、君と俺は――」と。

「……最後まで、聞けばよかった」

 先生の言葉が終わらぬうちに、部屋を飛び出して来てしまった。
 ――先生は何を言おうとしたんだろう。前世で、先生と私は……?
 気になる。けれど、もう聞けない。知ってしまえば何かが変わる気がする。それが、怖くて。



 がトイレから出ると、窓枠に腕を置いて外を眺める玄弥がいた。

「ごめんね、待たせてばっかりで」

 その後ろ背に声を掛けると、玄弥はゆっくりと振り返る。

「それは別にいいけど。大丈夫だったか?」
「えっ?」
「いや、呼び出し。煉獄先生が呼び出ししてんの初めて見た。よっぽど悪いことでもしたのかよ?」
「――してない……と、思う」
「なんだそれ」

 玄弥は眉間に皺を寄せ、俯くに近づきながら続ける。

「なんか言われたのか? こっぴどく叱られたとか」

 そうして、の顔を覗き込んだとき。玄弥は目を見張った。

……?」

 玄弥の声が、静かに響く。するとは勢いよく顔を上げて、明るく言った。
 
「なんでもないよ。宿題してくるの忘れちゃったから、それで叱られてたの」
「……でもお前、さっき悪いことはしてないって――」
「あっ、ねえもうこんな時間! まずいって、早く行かないと先輩たちに怒られるよ!」

 は玄弥の腕を掴み、ぐいぐいと引っ張りながら走り始めた。
 玄弥は見たのだ。俯いていたが、唇を噛み締め、頬を染めていたのを。何かを必死に押さえ込もうとしているような、そんな、今まで見たこともない表情で。




 ――煉獄先生の目が怖い。
 今日は授業中、一度だけ視線が合った。射抜くような目でこちらを捉えるので、蛇に睨まれた蛙のように硬直してしまう。しかしすぐに視線は逸らされ、もう交わることはなかった。
 あのとき、話の途中で逃げ出したことを怒っているのだろうか。それとも、返事を待っているのだろうか。
 いや、返事も何も、はい喜んでと言うはずがない。だって、たったひと月前に出会ったばかりなのに。教師と生徒なのに。そんなこと、先生だって百も承知なはず。それでもあんなことを言うなんて……。
 どうしよう。無理ですって言っても納得してもらえない気がする。理由がいる。会ったばかりだから、教師と生徒だから、ということ以外にも、断る理由が――。

 そんなことを悶々と考えながら歩いていただが、渡り廊下に差し掛かると、はたと足を止めた。
 杏寿郎がいたのだ。渡り廊下の中央あたりで、柱に寄り掛かり、腕を組んでいる。そうしてこちらへ顔を向けると、じっとを見据えた。
 は目を大きく見開いたまま、前にも後ろにも動けずただ立ち尽くす。
 ――ここを通らなければ、部活へ行けない。今日は遅刻できないのに。また部長に、来るのが遅いと叱られてしまう。
 は意を決したように拳を握り締め、震えそうな足で一歩を踏み出す。
 そうして顔を伏せたまま、杏寿郎の前を通り過ぎようとした。が、スッと伸びてきた手が腕を掴み、その衝撃に、は思わず杏寿郎を見上げる。

「この間はすまない。驚かせてしまったな」

 杏寿郎が手を離すと、はすぐに腕を引っ込め、視線を下げる。

「順序を誤ってしまった」

 それは、授業中よりも数段低い声だった。
 
「俺と交際してくれないか」

 ゆっくりと顔を上げたは、目を丸くし、口を半分開け放っている。

「無論、結婚を前提として」

 は呆然とした様子で杏寿郎を見上げたまま、

「――そういうこと、ではなくて……」

と、声を絞り出すようにして言う。

「……からかわないでください」
「俺は本気だ」
「だって――先生と、生徒……ですよ?」
「そうだな。だからと言って、このまま君を放っておくことはできない」

 まっすぐに言う杏寿郎に、はわずかに後退りをする。

「……どうして? だって、会ったばかりなのに?」
「今世ではな」

 は首を横に振る。まるで、杏寿郎がそれ以上言葉を続けるのを拒んでいるかのようだった。
 そうしてカバンを掻き抱くようにして、声を上擦らせながら言う。

「わ、私! 不死川くんと付き合ってます! なのでお付き合いも結婚も、全部……全部無理です!」

 杏寿郎の反応を見るのが恐ろしいのか、は目を伏せたまま踵を返し、走り去ろうとした。
 しかしまた、腕を掴まれる。先ほどよりも強い力に、は思わず顔を歪めてしまう。

「君は本当に、不死川少年のことが好きなのか?」

 振り返ることができない。あの目で見つめられながら問われたら、咄嗟についたこの嘘がきっと明かされてしまう。そう思ったからだ。

「それとも、俺から逃れるために?」

 次の瞬間、ぐっと腕を引き寄せられ、は小さく息を漏らす。
 束の間、視界が暗転する。そうして次に瞼を開いたとき、の目の前には白いワイシャツが広がっていた。杏寿郎の腕の中に、閉じ込められてしまったのだ。

「誰にも触れさせるな」
「れ、んごく…せん――」
「違う」

 低く沈み込むような声だった。忙しなく動いていたの瞳は、ぴたりと静止した。
 ぎゅうっと抱き締められ、杏寿郎の胸に押し当たる左耳から、彼の鼓動が聴こえてくる。全身から、ぬくもりが溶け込んでくる。

「違うだろう。そんな呼び方ではなかったはずだ」

 ゆっくりと体を離した杏寿郎は、を見下ろす。も瞬きを忘れたように、まっすぐに杏寿郎を見つめる。

「君も早く思い出せ」

 校舎から聴こえてきたチャイムに、は我に返ったように瞬きを繰り返した。
 そうして唇を噛み締めると、くるりと背を向け、何も言わず走り去って行くのだった。

 渡り廊下に残された杏寿郎は、自分の手のひらへ視線を落とす。
 ――触れてしまった。抱き締めて、しまった。
 ふと辺りを見渡す。人気はない。誰にも見られていなかったか、と息を吐いたとき。

「あいつに無理強いするのはよせェ」

 目を見開いた杏寿郎は、声の方へと顔を向けた。そしてその姿を認めると、

「不死川」

と声を漏らす。
 ポケットに手を突っ込んだ実弥が、ゆっくりと杏寿郎の元へ近づいて来る。

「前世の記憶なんざ、なくて当然なんだからよ」
「……ではなぜ俺や君にはその記憶がある。宇髄にも、冨岡にも」

 実弥は立ち止まり、柱に背をもたれる。

「俺は自分が死んでから後のことをよく知らない。家族にも、前世の記憶がない。宇髄は鬼のいなくなった世で長く生きたと言っていたが、あまり多くを語らない。冨岡もだ。なぜ話さない? よもや、早々に死んだ俺に気を遣っているのか?」

 杏寿郎は実弥の方へと体ごと向ける。そうして真正面から向き合うと、静かに尋ねた。

「不死川。君はどう生きた? 誰と、生きたんだ?」

 風が吹く。杏寿郎の赤い毛先が揺れる。
 実弥はその様を目に映しながら、少し間を置いたのち、呟くように言うのだった。

「――忘れちまった」



 射撃場の前まで来ると、はその場にうずくまった。
 何かが込み上げてくるのだ。胸に手をあてがい、浅くなった呼吸を整えるように、息を吸っては吐いてを繰り返す。
 知ってる。あの耳を打つ鼓動を、体に溶けゆくぬくもりを。そんな気が、する。





(2021.07.31)

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