06.あの頃



「君か?」

 目隠しをした状態の杏寿郎は、体躯の良い隠に背負われたまま声を弾ませた。
 そうして耳栓を引き抜くので、隠に「炎柱さま!」と咎められたが、気に留める様子もなく続ける。

「大事な用があると言っていたが、このことだったんだな!」
「な、名乗ることはできません。案内人の事情で、その――」
「なるほど! にも事情があるのだな。余計なことを言ってしまって申し訳ない!」

 ついに名前まで呼ばれてしまい、は気まずそうに先輩の隠へ視線をやる。彼もまた、弱ったように眉を下げていた。
 炎柱を刀鍛冶の里まで送り届ける。それも最後の案内人として。にとってそれは大役だった。任務明けに杏寿郎から食事に誘われても、なんとかはぐらかしつつやんわりと断り、この場所で半刻以上も待ち続けていた。先輩たちに教えられたことを頭の中で何度も反芻しながら、今こうして炎柱を迎えたのだった。
 どうして声を発する前に、私だと気づいたんだろう。気配か、はたまた匂いか。これだから柱はおそろしい――。
 そう思いながら地面に片膝を突き、杏寿郎を背負う準備をしていると、

「君に俺が背負えるのか? 怪我をしかねないぞ!」
「ご心配なく。毎日丸太を担いで鍛えていますので」

 「丸太を?」と首を傾げる杏寿郎の姿が幼子のように見えて、は頬を緩めた。

「はい、岩柱さまの御指南のもと」

 言いながら先輩の隠に合図を送る。すると杏寿郎の体は、の小さな背に移された。
 しかし遠慮をしているのか、杏寿郎は地面に両足を突き、体重を乗せようとしない。

「炎柱さま。大丈夫ですから」
「む、しかし――」
「私を信じてください」

 ぐっと力を込めて立ち上がる。重みに一瞬ふらつきそうになったが、なんとか堪えた。大丈夫そうだと判断したもう一人の隠は、では、と言って姿を消す。
 が剣士から隠に移り、半年ほどが過ぎた。杏寿郎は自らの任務の担当として、のいる部隊を頻繁に指名した。が「指名制なんてあるんですか」と先輩に尋ねると、俺もこんなの初めてだと不思議そうに話していた。

「君は岩柱と面識があるのか」

 なるべく重みをかけないためなのか、杏寿郎はの背中に付きすぎないよう、上体を起こしていた。

「あ、はい。玄弥が――」
「玄弥?」
「あの、不死川玄弥という剣士がいて、気が合う仲間でして……。彼の修業にたまにお供をさせてもらうのですが、その師匠が岩柱さまで」
「君はその少年のことを慕っているのか?」

 不意に訊かれ、えっ、と声を漏らす

「し、慕うなど、そんなことは」

 口ごもりながら答えているうちに、はたと気づく。

「炎柱さま、耳栓! 耳栓を外したままでしょう?」
「うむ! 栓をしていては会話ができないからな!」
「しなくていいんです、してはいけないのです」

 杏寿郎の体を下ろし、その手に握られていた耳栓を「貸してください」と受け取る。見れば、いつの間にか目隠しも外している。弱ったように息を漏らしながら、杏寿郎の耳へと差し込もうと背を伸ばす。しかし赤い瞳にまっすぐ捉えられ、は咄嗟に目を閉じた。

「君は――」
「失礼します!」

 杏寿郎の言葉を遮るように、強引に耳栓を差し込み、そのままの勢いで目隠しもぎゅっと巻くのだった。
 そうして、がっしりとした体にまるで後ろから羽交い締めされるように、は杏寿郎を背負って走り始めた。
 危なかった、とは唇を噛む。まだ顔が熱い。あれ以上あんな近距離で目を合わせてしまったら、心臓が口からまろび出る。

「なあ、

 耳元で囁くようなその声に、胸がひときわ跳ねた。の体はぐらりと揺れる。足を、挫いてしまったのだ。
 しかし倒れる前に杏寿郎が地面に片足を突き、の体を支えた。

「申し訳、ございません……」

 耳栓をしている杏寿郎には聞こえないはずだった。それでもは謝り続けた。
 涙が滲むのは、痛みからではない。情けなさからだ。
 杏寿郎は何も言わずにの腕を取ると、膝を折り、自らの肩に回した。そうして耳栓を外し、

「俺が走ろう。君は道案内をしてくれ!」
「え、そんな、そんなことは――」
「心配無用だ! 何も見えていないし、君の声以外は何も聞かない!」

 の返事を待たずに、目隠しをしたままの状態で杏寿郎は駆け出した。あまりの速さに言葉が追いつかない。自らの不甲斐なさに落ち込む暇など、もうどこにもなかった。



 杏寿郎は、定期的に刀を研ぎ直してもらっているのだと話した。自分でも手入れをしているが、やはり職人の施すそれには及ばないと。
 里に着くと、杏寿郎は「君もここで療養していきなさい」と言った。その言葉通り、里長の元へと向かう杏寿郎を見送ったは、捻挫にも効くという温泉に浸かっていた。幸い他に人の姿はなく、岩場の陰にちょうど良い空間を見つけたので、心置きなく体を伸ばしながら熱い湯に包まれていた。
 夕焼け空を見上げて、ふうっと息を吐く。

「……良いところ、見せようと思ったのに」

 君ならできる、という杏寿郎の言葉を思い返す。
 ――今のところ何ひとつ、満足にできていない。早く役に立たなくちゃ、と思うほどに力が入りすぎて、うまくいかない。
 先日の任務でも、負傷した隊員の応急処置中に怒鳴られた。包帯がきつい、下手くそ。謝りながら巻き直すも、声を荒げられたことに萎縮して、今度は緩くなってしまった。見かねた他の隠が代わってくれたが、悔しくて情けなくて、涙を堪えるのに必死だった。ふと視線を感じて目をやると、少し離れた場所から、炎柱さまが真顔でこちらを見つめていた。ああ、呆れられてしまったんだろうなと、あのときそう思った。これが鬼殺隊で生きる、最後の道なのに。
 なのにまた今日も、ヘマをしてしまった。

「……もう、見限ってしまっただろうな」

 君の傍にいたいと言われたけれど、一度抱きしめられたこともあるけれど、こんな役立たずな人間を受け入れるほど物好きでもないだろう――。

「誰が誰を見限ったんだ?」

 の悲鳴が轟く。そう言って岩場から顔を覗かせたその人が、杏寿郎だったからだ。

「え、えっ、炎柱さま……!」
「すまない! よもや君がいるとは。全く気づかなかった!」
「うそうそ、うそでしょ、だめ! 近づいて来てはだめです!」

 にごり湯なのがまだ救いだった。杏寿郎は顔だけを湯から出したまま、まるで泳ぐようにの方へと近寄る。しかしの言葉に「それもそうだな」と頷くと、少し距離を置いた場所に身を落ち着けた。

「思えば、こうして誰かと湯に浸かるのも久しぶりだ」

 無邪気に笑う杏寿郎に、は少し脱力する。裸だからと恥ずかしがっているこちらの方が、かえって邪な考えを抱いているのではないか。そんな気さえしてくるほど、杏寿郎の顔には下心のしの字もないように見受けられた。
 それでも、体が見えてしまってはいないかと視線を下げて確認していると、

「君はすごいな。俺を持ち上げて十町も走った」

 不意に掛けられた言葉に、は「え?」と顔を上げる。

「自分では気づいていないだろうが、君は日々成長している。きっと、歯を食いしばりながら訓練を重ねているのだろう」
「……そんな、私なんて全然まだまだ……」
「成長速度は人それぞれだ。焦ることはない。包帯の巻き方も、近ごろではすっかり上達したようだしな」

 は鼻の奥がツンとするのを感じた。目の奥が熱くなる。きっと、湯気のせいだ。体の中のいろんなものが、ゆるんでしまったから。

「いい湯だな! 少しとろみもあるようだが、これは一体どういう仕組みなのだろうか」

 ――どうして。いつも、そうやって前を向かせてくれるんだろう。
 こちらへ微笑みかける杏寿郎の顔が、次第に見えなくなっていく。そうして涙がこぼれそうになったとき、はお湯をぱしゃりと自分の顔にかけた。

「少し、おそばに寄っても構いませんか?」

 驚いたように目を丸くした杏寿郎だったが、すぐに「もちろんだ」と口角を上げた。
 はしたないことだとは、分かっている。けれど、どうしても今、その隣にいたいと思った。
 そばまで来ると、杏寿郎は笑った。もつられて、はにかんだように笑う。そうして肩を並べ、夕空を見上げながらあれこれと取り留めもなく話し続けた。

「ところで先ほどの話だが」

 ふと杏寿郎が話題を変え、は「はい」と語尾を上げる。

「君は不死川少年のことを――」
「慕っていません! 本当に、良き仲間として思っているだけで……」

 食い気味に答えてしまった自分の勢いに恥ずかしさを覚えつつ、は唇を噛んだ。

「なるほど。それは良かった」

 ちゃぷん、と水音が響く。空を仰ぐ杏寿郎の横顔に、は頭の中に霧が立ち込めていくような感覚を覚えた。
 今ここでのぼせて倒れてしまったら、炎柱さまにこの貧相な体を晒してしまう。それは何としてでも避けたい。意識をしっかり保たなければ。
 頬を叩きはじめたに目をやり、杏寿郎は言った。
 
「なぜだか妙な気持ちになる。君が他の男と共にいるのを想像するだけで」
「――え?」
「俺は自分が思っているよりも、器の小さい人間なのかもしれないな」

 それ以上、言葉を紡げなかった。は膨らみきった胸の奥底から、息を漏らしてしまう。

 ああ、もう随分と、のぼせてしまったみたいだ――。







!」

 母の声だ。明かりが眩しい。視界に飛び込んできたのは、安堵したように眉を下げた母の顔だった。
 どうやら、のぼせてしまったらしい。母に引っ張り上げられるかたちで湯船から出ると、体を支えられながら部屋へと連れて行かれる。
 母は「死んだかと思った」と涙目で弱々しく言ったが、あんな熱いお湯で長風呂するなんて、とすぐに説教モードへと切り替わってしまう。手渡された水を飲み、何度も謝りながらベッドに横になると、濡れタオル持って来るから、と母は出て行った。
 机の上に手を伸ばしてスマホを取る。画面の眩しさに目を細めつつ、新着メッセージを開く。玄弥からだった。『何してんの?』のメッセージに、『お風呂でのぼせてた』と返す。そうしてスマホを枕元に置くと、ふう、と息を吐く。

 なんだか懐かしい夢を見た気がする。あれは秘湯というのだろうか。山奥の温泉に入っている夢。誰かと話していたような気もする。けれどもうすでに夢の記憶がおぼろげになりつつあって、はっきりと思い出せない。母の金切り声に蹴散らされてしまった。
 頭の中だけじゃない。胸の内側も、なんだかもやもやとしている。吸い込みすぎた湯気が、熱をそのままに、体内をゆらゆらと巡っているようだった。
 もう一度、息を吐く。遠くの方で雷鳴が聴こえた。もうすぐ梅雨が来る。
 ――やだな、登下校がめんどくさくなる。
 できる限り毎日一緒に帰ろう、と玄弥が言っていた。付き合うって、一緒に帰ることなのかな。よく分からない。けど玄弥となら、雨で憂鬱な時間も、くだらないことで笑い合える時間に変わるんだろう。

 口元をかすかに緩めたは、ゆっくりと瞼を下ろす。
 眠りに落ちるのは、一瞬だった。





(2021.08.27)