07.生きただけ



 土の匂いだ。
 ベランダに佇む実弥は、煙草を咥えたまま夜空を見上げた。先ほどまでそこにあった月が、雲にすっぽりと隠されてしまった。
 空気が湿り気を帯びて重くなる。遠くの方で雷鳴が聴こえた気がする。じき、雨が降るだろう。

『ねえってば』

 左耳と肩に挟んだスマートフォンから、怒りと悲しみを抱き合わせたような女性の声が漏れる。

『本当に好きなの? 私のこと』

 実弥は瞼を閉じ、煙をゆっくりと吐く。
 宇髄のように、煙草がないとかえって体がおかしくなるというほどではなく、吸わないなら吸わないで構わない。が、こういうとき、つくづく思うのだ。煙草は間が持つから便利だ、と。

「……さァな」

 途端に泣き声が上がる。最低、もういい、さよなら。要約するとそういうふうなことを言って、電話はぶつりと切れた。
 結局またこのパターンだ。実弥はため息をつきながら、煙草を灰皿に押し付けた。
 「本当に好き?」ってなんだ。いつ、お前に好きだと言った。勝手に寄って来たんだろう。想いをかければその分返ってくると一人で期待して。そうではないことに気づいた途端に、泣いたり罵ったりして――。
 そこで、ガラリと窓が開いた。

「兄ちゃん」

 どこか声を弾ませ、玄弥がベランダへと出てくる。

「長かったな、電話」
「短い方だわァ」
「え、それで? まじかよ。もしかして彼女とか?」
「……いや」

 ふうん、と喉を鳴らす玄弥の隣で、実弥はベランダの柵に背を持たれるようにして煙草に火をつける。

「兄ちゃんって彼女つくんねーの?」
「――は?」
「俺、聞いたことないからさ。兄ちゃんの恋愛事情。なんで? 絶対モテるのに。つくればいいじゃん、彼女」
「……お前、そういうのなんて言うか知ってるかァ」

 首を傾げる玄弥に、実弥は煙をふうっと吹きかける。げっ、と目を閉じる玄弥の額を指で弾くと、

「余計な世話ってんだ、バーカ」
「いってぇよ!」

 鼻で笑った実弥に唇を尖らせる玄弥だったが、ポケットの中で鳴ったバイブ音に、ぱっと目を輝かせた。いそいそとスマホを取り出すと、画面を見ながら頬を緩ませ、「なんだよ、のぼせたって」と呟く。
 そんな弟を横目で見たのち、実弥は空を仰いで、ふうっと煙を吐き出す。

「俺、彼女できた」

 顔を上げた玄弥は、喜びを滲ませた声で言うのだった。

と付き合いはじめたんだ」

 ――ああ。やっぱり煙草は間が持つ。沈黙を、煙が埋めてくれる。誤魔化してくれる。

「……お前、ずっと好きだったもんなァ」

 吐き出した煙の行方を目に映しながら言うと、玄弥は気恥ずかしそうに視線を下げた。
 そんな弟の反応に、煙草を咥えた実弥の唇にはうっすらとした笑みが浮かぶ。

「良かったじゃねェか。仲良くやれよ」





 一昨晩から降り続く雨は、梅雨を連れて来たようだ。中庭の桜木は、若葉の先から止めどなく雫を滴らせ、地面に大きな水たまりを作っていた。
 人影も少なくなった校舎四階の廊下から、実弥は中庭を見下ろす。そうして腕時計に視線を落とし、息を深く吐いた。
 今夜は宇髄主催の飲み会がある。といっても参加者はいつも通りで、宇髄と実弥の他に冨岡、伊黒、そして煉獄。伊黒は行けたら行くと話していたが、足元が悪いからやめておくと言い出しそうだ。もし伊黒がそう言って断ったら便乗しようか、と実弥は考えていた。飲み会という気分でもなかったからだ。
 再び桜木の方へと目をやる。そうして瞼を閉じると、そこに浮かぶのは――

「不死川先生」

 その声に肩をびくりと上げた実弥は、後ろを振り返る。その目は裂けそうなほどに大きく見開いている。
 驚かれたことに驚いたのか、不意に声を掛けたことで叱られてしまうとでも思ったのか。そこには顔をこわばらせ、首をすくめたが立っていた。

「あ、の……玄弥を見かけませんでしたか? 一緒に帰る約束をしてたんですけど、いなくって」

 付き合いはじめたんだ。玄弥の声が耳に蘇る。
 実弥はから視線を逸らす。

「さァな。先に帰ったんじゃねェか?」
「そんなはず……約束破られたことなんて、一度もないから……」

 尻すぼみになっていくは、どこか不安げにスカートを握り締めている。
 実弥はそんなの姿を横目でうかがい、ふっと笑った。

「甘えてんなァ、お前も」
「えっ?」

 そう言って実弥が歩きはじめると、も後を追う。少し速度を上げれば、小走りで付いて来る。それがおもしろくて、実弥は緩急をつけながら、あてもなく歩くのだった。

「先生、あの、これって玄弥のところに向かってるんですか?」

 息を上げながらそう訊かれ、実弥は我に返ったように足を止める。わっ、と声が上がると同時に、実弥の背中にが顔面からぶつかった。じんわりと広がったその感触に、実弥は何かをこらえるように唇を結ぶ。は慌てて体を離した。

「ご、ごめんなさい」

 ポケットからハンカチを取り出し、実弥の背中をとんとんと拭う。色つきリップを塗ったばかりだったのだ。汚してしまったらまずい、怒られる。
 必死でハンカチを当て続けるの方へ、実弥は顔だけをゆっくりと向ける。

「あいつがどこにいるかなんて知らねェ」

 低い声が落ちてくる。見上げればすぐに実弥の顔があった。

「――え、っと……」

 はその距離の近さにようやく気づいた様子で、口ごもりながら一歩、二歩と後ろへ下がった。

「電話は繋がらねぇのかァ?」
「……あ、そっか電話すればいいのか」
「アホだな」
「え、あっ、あほって! 教師が生徒に言うことではないんじゃ――」

 すっと伸びてきた手に、の言葉は途切れる。

「昔っからお前はよォ、どっか抜けてんだよなァ」

 頭に乗る手。その向こうで淡く笑む人。
 息が止まりそうだと、はうまく働かなくなった頭の片隅でそう思った。

「気ィつけて帰れよ」

 くしゃくしゃと頭を撫で、どこか名残惜しそうに引いたその手は、ポケットの中へと消える。そうして実弥はへ背を向けると、階段を降りていった。
 その場に残されたは、撫でられた頭へとゆっくり両手を乗せる。ほのかに紅潮した頬で、ひとりごちるのだった。

「――昔って、なに……」





 あれは、そういうことなのだろうか。
 杏寿郎は誰もいなくなった教室で、掲示物の貼り替えをしながら思い巡らせていた。
 手を繋いで走ると玄弥。あの後ろ姿が、目に焼き付いて離れない。付き合っているというのは、嘘だと思っていたのに。
 力が入りすぎて画鋲が曲がってしまった。杏寿郎は他の画鋲を手に取り、壁に刺す。そうしながら窓の外へと目をやった。
 校庭に、傘が二つ並んでいた。水たまりを避けようとした水色の傘が、透明傘に押されてよろめき、地面に落ちてしまう。

「――

 顔をしかめながら傘を拾い上げたのは、だった。透明傘の下で笑っているのは玄弥だ。は仕返しとばかりに玄弥を押し、水たまりに入らせようとしている。ひと揉めしたのち、二人は顔を見合わせて笑った。
 校門の向こうに消えていく傘を見送りながら、杏寿郎は唇を固く結ぶのだった。







「不死川。君の弟がと付き合っているというのは本当か?」

 摘み出そうとしていた枝豆が弾け飛び、杏寿郎の額に当たる。それでも杏寿郎は瞬き一つせず、実弥を見据えていた。

「お前それ、今ここでする話かよ」

 他の面々より遅れて到着した杏寿郎は、実弥の向かいに座った途端、そう口を開いたのだった。

「おいおい煉獄どうした。来て早々にそんな息巻いてよぉ」

 すっかり酒の回った宇髄がからかうように言いながら、サーモタンブラーを杏寿郎の首に押し当てる。その冷たさに、杏寿郎は少し体を揺らして眉根を寄せた。酒に弱い義勇はすでに酔い潰れ、すうすうと寝息を立てていた。
 学校の近くでは生徒や保護者に会うかもしれないからと、宇髄主催の飲み会は義勇の自宅で開催されることが多かった。義勇もはじめこそ「なぜ俺の家なんだ」と不服そうだったが、「お前の家がちょうど良いんだよ。狭すぎるわけでも綺麗すぎるわけでもねぇから、遠慮なく派手に飲めるだろ」という宇髄の言葉を、なぜだか妙に納得したように受け入れたのだった。宇髄が「これは俺のだから使うなよ」と自分専用のタンブラーを置いて帰ることも許していた。

「で、どうなんだ」
「……詳しくは知らねェが、まあ、そうらしいなァ」

 杏寿郎は腕を組み、目を閉じた。
 実弥は胸の内で舌を打つ。やっぱり伊黒が断ったときに、便乗すればよかった。今日の飲み会で、煉獄はきっとこの話題を出してくるだろうと思っていた。そうなればきっと、宇髄は面白がる。冨岡は役に立たない。伊黒がいればなんとか場を収めてくれる。そう思っていたのに。
 杏寿郎は、ぱちりと目を開けた。そうして、まっすぐに言う。

「別れさせるというのはどうだ!」

 杏寿郎の肩に腕を回していた宇髄は、酔いが覚めたかのように目を丸くしたのち、へらりと口元を緩める。

「お前ってそういうとこあるよな。目的のためには手段を選ばねえっつーか」

 一方の実弥は、眉間に深い皺を刻み、鋭い目で杏寿郎を睨んでいた。そうして、唸るように言う。

「俺の弟になんかしてみろォ。いくらお前だからって、容赦はしねェぞ」

 二人の視線がぶつかり合い、空気が張り詰める。
 「おいおい」と弱ったようにため息をつく宇髄の隣で、突然、義勇がむくりと起き上がった。

「誰の話だ?」
「あーもうお前はいいから寝とけ、もっとめんどくさくなるから」
だ! 

 腕を組み、実弥を見据えたまま、杏寿郎が声を張る。ふらつく義勇の耳には遅れて届いたようで、「……」と呟く。そうして、思い出した、というふうに言った。

「不死川の嫁か」

 途端に、宇髄が義勇の頭を叩く。ぐらりとバランスを崩してその場に横たわった義勇は、ものの数秒のうちに寝息を立てはじめるのだった。

「どういうことだ。嫁、とは……」

 沈黙が流れる。
 杏寿郎は瞬きを忘れたかのように実弥を見つめていたが、実弥は視線を下げ、ポケットから煙草を取り出す。フィルター部分をテーブルに軽く叩きつけ、吸い口を噛む。

「答えろ、不死川」

 ライターの火が、杏寿郎の瞳の中で揺れていた。
 実弥が煙を吹き出すと、宇髄は立ち上がり、部屋の窓を開けた。雨の匂いを含んだ夜風に、白い煙がゆらめく。

「玄弥が死んで……一人になっちまった俺を気遣って、そばにいてくれた」

 杏寿郎の目から、力がふっと抜けたように思えた。実弥は口早に続ける。

「だがあいつは俺に同情してただけで、好いてるとかそういうのじゃァ――」
「君はどうなんだ」

 指に挟んだ煙草から、灰がぽたりと落ちる。

「不死川は、彼女を愛していたのか?」

 実弥は、天井に向かって薄くなってゆく煙を見上げた。

「俺は――」

 しかしその瞳は、遠い遠い何かを映しているかのようだった。
 
「ただ、一緒に生きただけだ」





(2021.08.27)