物心ついた頃から、いつも誰かを探していた。


08.初めて



 前世の記憶があるのだと気づいたのは、弟が生まれた時だった。玄弥を手に抱いた瞬間、まるで頭の中に映像が流れ込んでくるかのように、すべてを鮮明に思い出した。「待ってた。もう死なせない」そんな言葉とともに、涙があふれたのを憶えている。
 弟や妹たちが産まれて、前世での家族が揃っても、まだ誰かが欠けていた。それが誰なのかは、もうはっきりと分かっていた。
 けれどあいつだけは、だけは、なかなか姿を見せなかった。もしかするとこのまま会うことはないかもしれないと思うたび、こんなにも前世から繋がりがある人に囲まれてるんだ、だけいないわけがないと、そう自分に言って聞かせた。
 けど就職して、同じ職場に煉獄が赴任してきた時、このままあいつとは再会しない方がいいのかもしれないと、そう思いはじめた。
 会ったところで、どうするんだ。大正の世でが俺と一緒になったのは、同情からだ。だから今世こそは、心から想う相手と添い遂げたらいい。それが、あいつにとっての幸福だ。

 だからあの時、会ってしまったと思った。

「不死川玄弥くん、だよね?」

 風邪をひいた顧問の代理で引率した、玄弥の射撃大会。そう声を掛けてきたのが、だった。
 それは、頭を横からガツンと殴られたかのような衝撃だった。何とか堪えようとを凝視していると、あいつは怯えた様子でちらりと視線を向けただけで、すぐに玄弥へと話を振りはじめた。その素振りから、には前世の記憶が一つもないのだと悟った。無論、玄弥もだ。
 気の合う二人だとはすぐに分かった。前世でのは、玄弥には本当に良くしてもらったと常々話していた。相性が良いのだろう。初対面の相手には素っ気なくしてしまう玄弥が、には警戒心をほどき、笑顔まで見せていた。
 そうして、ぎこちなくも談笑する二人を見ながら思った。
 ――ああ、今世でのお前は玄弥と同い年なのか。まだ未成年のガキじゃねえか。よかった。諦めるべき理由なら、いくらでもある。





 大粒の雨が地面を叩きつけている。
 三階へと続く踊り場に佇み、そんな外の景色を眺めていたは、ハッとした様子で振り返った。

「なんだァ、こんなとこでボサッと突っ立って。部活じゃねェのか」
「その前にちょっと……煉獄先生から、呼び出しを受けてまして……」

 飲み会での一件を思い返し、実弥は奥歯を噛み締める。
 あの夜、「ただ一緒に生きただけ」と返した時の杏寿郎の顔が、忘れられなかった。眉間に深い皺を刻み、唇を噛み締めていたが、あれは決して怒りではない。悲しみでもない。しかしそれはすぐに変化した。己の中に湧いた感情をどう飼い慣らすべきか、と困惑しているようにも見えた。いつも軽口を叩く宇髄でさえ、何も口を出せなかった。そうして杏寿郎は「帰る」とだけ言い残し、雨の中、傘も差さずに飛び出して行ったのだった。

「……よくされんのか、呼び出し」
「えっと、よくかどうかは……」
「何回目だァ」
「確か……二回目、です」
「何の用で」
「今度の球技大会のことで、とか……」

 実弥は「はァ?」と首を横に傾ける。
 球技大会は、この学園の初夏の風物詩だった。赴任当初は何の意味があるんだと侮っていたが、この行事の前と後とでは、学園の雰囲気ががらりと変わる。学年やクラスの垣根を越えて編成されたチームで競うため、縦と横の繋がりができることで新入生が馴染むのだ。そうしてその良好な雰囲気のまま、秋の体育祭や文化祭へと持っていく。

「その……チーム編成のことで相談したい、と」
「お前体育委員でもねェだろォ。第一あれは冨岡主導の行事なはずだァ。なんで煉獄がそんな話をお前にする必要があんだ」
「……冨岡先生に、サポートを頼まれたと」

 知らない話だが、冨岡ならやりかねないなと思った。すでに日々の生徒指導で追われているし一人では手に負えない、とでも言って、人の好い煉獄が二つ返事でサポート役を受け入れたと。差し詰めそんなところだろう。
 冨岡、仕事しろ。呆れてため息を一つ漏らしていると、ふと視線を感じた。

「よくご存じですね。私が体育委員じゃないって」

 そこではが、実弥をまじまじと見上げていた。やわらかな黒褐色の瞳の中に、自分の姿がよく見える。
 ――いつの間にこんな、まっすぐ見てくるようになったんだ。この間まで怯えてたじゃねェか。
 そこで不意にチャイムが鳴り、は「あっ」と声を上げる。
 
「すみません、もう行かないと」
「……ッ!」

 階段を数段上がったところで立ち止まったが、「はい」と振り返る。なんでしょう、というふうに首を傾げる姿から目線を逸らしつつ、実弥は言った。

「ドアは閉めるな。開けとけェ」

 なぜだか妙に、嫌な予感がしたのだ。行くなとは言えない。今の立場で言えることは、せめてそれぐらいだと思った。

「はい、先生」

 が去った踊り場で、実弥は窓に背をつき、手の甲で口元を押さえた。
 はい、と頷いた時に見せた、の無垢で朗らかな笑み。

「……笑いかけてんじゃ、ねェよ」

 あんな顔は見せるな。もう見れないものだと、諦めていたんだ。それでいいと覚悟していた、つもりだったのに。
 実弥は手の甲を噛んだ。押さえ込んでいたものがあふれ出しそうになるのを、必死で堪えるかのように。
 口内に滲みはじめた鉄の味とともに、あの日々がじわりじわりと浮かび上がってくる。

 ――実弥さん。

 



 もたれかかった窓越しに、雨が背を突いてくる。
 杏寿郎は薄暗い社会科準備室で、窓に背中を預け、腕組みをしていた。
 電気を点けなければ。じきにがやって来る。生徒たちはいつも、ドアの小窓から室内を伺ってから中へと入って来る。部屋が暗ければきっと、中を伺うこともなく「煉獄先生は不在なんだ」と思い込んで、そのまま部活へと行ってしまうだろう。
 点けなければ。けれど、体が動かない。同僚との飲み会の夜から、ろくに眠れていなかった。背中を打つ雨がなぜだか心地よく感じるのは、そのせいか。次第に瞼が重くなっていく――。



「ひどい雨ですね。こんなの初めてです」

 土砂降りの雨を前に、どうしてか目を輝かせている
 その傍らで羽織を絞りながら、

「俺もだ! 滝のような雨とはこのことを言うのだな」

と杏寿郎も笑う。
 夜更けからぱらぱらと降り続いた雨は、任務明けの朝方には本降りとなった。道中で杏寿郎から「俺の羽織の下に入れ」と言われ、は「そんなの畏れ多いです」と断った。しかし半ば強引に引き入れられるような形で、今ようやく、この神社の軒下までたどり着いたところだった。

「嵐でも来ているのでしょうか。風も強くなった気がします」
「何か言ったか? 雨の音で君の声が聞こえん!」
「嵐が! 来ているのでしょうか!」
「うむ! そうだろうな!」
「それは恐ろしいですね!」

 そこで杏寿郎は腰をかがめ、と目線の高さを合わせる。そうして、声を落として言った。

「恐ろしそうには見えないが」
「……そう、ですか?」
「濡れそぼっているせいかもしれないな。君も頭巾を取って、雨水を絞り出すといい」

 頭巾を脱ぐと、水がぼたぼたと滴り落ちた。髪も顔に張り付いていて気持ちが悪く、は頭巾を絞りながら、頭をぶんぶんと横に振った。すると杏寿郎は「まるで犬だ」と笑った。

「やはり恐ろしそうには見えないな」
「……嵐の気配を肌で感じるのは初めてで。初めてのことって、なんだか胸がさわさわとするんです」
「なるほど」
「いけませんよね。この嵐で、もしかすると命を落とす人だっているかもしれないのに……」
「では祈るとしよう!」

 杏寿郎は神前に小さく礼をすると、賽銭を入れた。雨の中に響く鈴の音。深く礼をし、手を叩き合わせるその一連の所作は、目を見張るほどに滑らかで美しかった。
 はハッと我に返ったようにして杏寿郎の傍に駆け寄ると、自らも先ほど見た例に倣って手を合わせた。
 瞼を閉じて懸命に祈っているに、杏寿郎は目を細める。
 
「胸がどうなると?」
「さわさわ……」
「なるほど。それは一体どんな感覚なんだろうな。俺には経験がない」
「では杏寿郎さんは、初めてのことを経験するとどんな感覚になりますか?」

 「杏寿郎さん」という呼び名に、杏寿郎はわずかに目を丸くする。
 そうだ。いつか言ったのだ。下の名で呼んでも構わないと。
 任務時には「炎柱さま」という呼称を決して崩さなかったが、任務から離れた今、さり気なくそう呼んでみたのだろう。見ると、は恥じらうように俯いていた。
 ならば気づかない素振りをしようと、杏寿郎は調子を変えずに、うむ、と唸る。

「そういう時ほど何も感じなくなるかもしれないな! 異能の鬼と対峙する時は相手の術を掴むことに集中しているし、派生の呼吸の持ち主と相見えた時は何か学べるものがないか目を凝らしている」
「鬼殺以外では?」

 遠慮がちにそう問われ、杏寿郎は静止した。
 鬼殺以外のことで、初めての経験。初めて竹刀を持った時、父の突きを喰らった時、真剣を手にした時、鬼を斬った時。浮かぶのは全て、鬼殺に当てはまるものばかりだ。
 ――いや、違う。本当はもっと、あったはずだ。

「炎を」

 ゆっくりと押し広げた記憶の中には、大篝火を見上げる母の姿があった。

「燃え盛る炎を、初めて見た時」

 ――胸の中で何かが爆ぜるような、そんな感覚だった。
 杏寿郎がそう言葉を続けようとした時、突風が吹き荒れた。その拍子に、鈴がちりんちりんと鳴り響く。
 風で舞った木の葉やなびく雨からを守るようにして覆い被さると、矢のごとく飛んで来た木の枝が杏寿郎の頬をかすめた。

「炎柱さま、お怪我を……!」

 頬に手を当て、細く流れる血を拭う。はそこで手を止め、視線を少し上げた。すると赤い瞳と重なり、目を逸らすこともできずにただ息を呑む。
 そうして、どちらからともなく、互いに吸い寄せられるかのようにして、唇を重ね合わせたのだった。

「なるほど。これが君の言う、さわさわか」
「……さわさわどころでは……ないです」

 頬を赤らめて目線を下げる。その顎をそっと持ち上げ、

「もう一度、俺を呼んでくれないか」
「……杏寿郎、さん」

 杏寿郎は噛み締めるように笑い、もうひとつ、口づけをした。
 溶けあう熱の中で、ぱちぱちと爆ぜる音が体の内側から聴こえてくるような、そんな気がしていた。





 瞼を押し上げた杏寿郎は、壁の時計を見上げる。それと同時にチャイムが鳴った。
 束の間、眠ってしまったようだ。電気を点けようと窓から離れた時、ふとあの言葉が耳に蘇った。
 ――ただ、一緒に生きただけ。
 それは「愛してた」という返事よりも、もっと重みのあるものに感じた。
 できることならば、一緒に生きたいと願った。父や母のように、夫婦となり、子を成して。けれどそれは叶わなかった。あの雨の日、神社の軒下で口づけを交わしたのが、彼女との最後だった。あの後の任務で、炎柱としての煉獄杏寿郎は死んだ。
 不死川は言っていた。一人になった俺を気遣ってそばにいてくれた、と。それを聞いた時、彼女らしいと思った。弱りゆくものを無視できない。見落とすことがない。躊躇することなく、手を差し伸べるのだ。
 そんな彼女は、鬼がいなくなった世で、平穏に、安らかに生きてほしい。そう願ったはずなのに。この胸の中で渦巻くものは、なんなのだろう。

「煉獄先生?」

 いつの間にかドアが開き、首をかすかに傾けたが立っていた。部屋は暗いままだ。それでも、迷うことなく入って来た。
 そういう人だ、彼女は。理解していたはずなのに、誰にでも分け隔てのないその慈悲深さが、今は少し憎くもある。どうにも飼い慣らすことのできない感情が、蛇のようにとぐろを巻き、首をもたげはじめていた――。

 杏寿郎はを部屋へと引き入れると、ドアを閉め、内鍵をかけた。ドアが閉まる時、は小さく声を漏らした。しかし杏寿郎はそれに構わず、手近にあった合戦図屏風をドアに貼り付け、小窓を塞いだ。
 そうしてを見おろすと、彼女の表情に戸惑いの色が滲んでいるのが分かった。杏寿郎がその頬を両手で支えるようにして挟むと、は「え?」と息をこぼす。

「あ、っ、やめ……」

 ぐっと近づいた杏寿郎の顔から逃れるように、は頭を左に振った。しかし、頬に当てられる手によって、すぐに正面へと戻される。
 まっすぐに見つめてくる赤い瞳。はぎゅっと目をつむった。



 縋るような声だった。思わず目を開けると、視界は再び暗転した。
 唇に広がるやわらかな感触と、ぬくもり。
 それが何か分かると、は杏寿郎の胸板を叩き、力の限り押し退けた。

「君が幸せに生きたなら、それでいい。そう思っていたはずなのに……その事実を知った途端にこんな劣情が湧く俺は、みっともない男だ」

 雨が窓を打つ音が激しさを増す。薄暗い部屋の中で、杏寿郎は腕を組み、右手で頭を抱えるようにしていた。
 それ以上何も話さなくなった杏寿郎に背を向けると、は内鍵を開け、逃げるようにその場を去った。

 しばらく走った。そうして足を止めたのは、先ほどまで実弥と話していた、あの踊り場だった。
 ――まさか煉獄先生が、あんなことをするなんて。なんで、どうして。
 は手の甲を唇に押し当て、その隙間から声を漏らした。

「……初めて……だったのに」






(2021.09.18)