09.見てるもの



 一人、また一人と減っていくコートの中で、は今にも泣き出しそうな顔をして、必死にボールを避けていた。
 「さんボール取って! こっちに回して!」味方が外野からそう声を掛けるも、は「無理だよ」と言わんばかりに首をぶんぶんと横に振る。
 球技大会の締め括りはチーム対抗のドッジボール。そのことを知ったとき、は球技大会なんてなくなれば良いのにと心の底からそう思った。小学生の頃、クラスで一番運動神経の良い男子のボールを反射的に取ってしまい、その拍子に思いきり突き指をした。今でも利き手の人差し指が少し左に曲がっているのは、そのせいだ。あの時のことがトラウマになり、向かってくるボールを見ると怖くてたまらないのだった。
 ただ、反射神経が良いのか、それとも絶対に当たりたくないという強い思いからなのか、ボールを避けることには長けていた。だからこうして、最後の最後まで生き残ってしまうのだ。

「もうやだ……」

 そう呟いたとき、緩やかなボールがの手前で小さくバウンドし、ころころと転がってきた。ハッと顔を上げると、相手コートにいる玄弥が心配そうな表情を浮かべ、こちらを見ていた。声こそ出さないが、その唇は「取れ」と言っている。

「おい元太! なんだぁそのヌルい球は! お前さっきから手加減してんじゃねぇぞ!」
「うっせぇ黙れ! してねーよ手加減なんて! あと俺は玄弥だこのドングリ野郎!」
「あァん? 誰がドングリだこのニワトリ野郎が!」

 上着を脱ぎ捨てた嘴平伊之助が玄弥の胸ぐらに掴みかかる。そんな二人の間に割って入ったのは、審判の炭治郎だった。ピピーッと笛を鳴らし、全体に向けて「タイム!」と呼び掛けたあと、「二人とも落ち着け」となだめる。
 は地面に転がったボールを手に取り、辺りを見渡す。コート内に残っているのは、いつの間にか自分一人だけになっていた。

「再開します! さん、いけそう?」

 がこくりと頷くと、炭治郎は優しげに微笑み、そうして笛を吹く。
 しかし、はボールを持ったまま微動だにしない。外野からいくつもの腕が伸びている。あの手に届かなかったら、投げた途端に嘴平くんがボールを取ったら……。そんなことばかりが頭を駆けめぐり、体が強張ってしまったのだ。
 早く早くと急かす声の中で、炭治郎だけが「さん」と穏やかに呼び掛けた。

「カード使う?」
「……え?」
「先生投下カード」

 はその言葉に、訳も分からず頷いた。なんだっけ、そのカード。これから始まるドッジボールへの恐怖心から、事前に行われた大会のルール説明は話半分にしか聞いていなかったのだ。
 炭治郎はマイクを手に取ると、グラウンドを見渡しながら、抑揚をつけずに言う。

「林檎チーム、先生投下カードを使用します。担当の先生は今すぐAコートまでお越しください。繰り返します」

 その隙にとばかりに、味方チームの男子が「さんこっち!」と、内野ギリギリのラインまで踏み込み、手を伸ばす。は言われるがまま、この距離なら届くかも、とボールを投げた。しかし、いびつな円を描いたそのボールは、大きく跳び上がった伊之助に呆気なく取られてしまう。
 ――あ、死ぬ。
 向かってくるボールがスローモーションのように見える。目を閉じ、痛みを覚悟した、その時だった。

「待たせたな!」

 ふわりと風に乗って届いた香り。目を開けると、そこでは赤い毛先が揺れていた。

「――煉獄、先生……」

 杏寿郎は振り返る。その手には、伊之助の投げたボールがしっかりと掴まれていた。

「助けを呼んだのは君だな?」

 は何も言わずにただ杏寿郎を見上げる。

「俺が来たからにはもう安心だ!」

 力強くまっすぐなその眼差しと声に、は唇を結んだ。
 社会科準備室でのあの一件から今日まで、は杏寿郎を避け続けていた。なのに今はその存在に、心の底から安堵してしまっている。もう安心だ。その言葉が身体中を駆けめぐり、恐怖や緊張を打ち消していくのを感じた。
 杏寿郎は前を向き直り、肩をぐっと後ろへ引く。

「いくぞ!」

 そうして放たれたボールは、回転を繰り返しながら空を割き、伊之助の腹に当たる。「速すぎて見えねぇ!」とうめく伊之助に構わず、彼の腹筋に弾かれ返ってきたボールを掴むと、また投げる。今度は玄弥の脇腹に当たった。
 そうやって次々に相手をなぎ倒していく中で、杏寿郎は不意に振り返ると、呆然と立ち尽くしているへ微笑みかけた。

「君は俺の後ろへ。大丈夫だ、必ず守る」

 その言葉に、は素直に頷いた。そうして杏寿郎の背後に身を隠す。
 ――なんだろう、この感じ。懐かしい、感じ。
 絶望が希望へと変わっていくこの状況を、知っている。この背中に何度も救われてきた。そんな気がして、ならなかった。

「ここで檸檬チームも先生投下カードを使用します。担当の先生は――」
「おい玄弥ァ! 煉獄ごときにへばってんじゃねェぞォ!」

 炭治郎のアナウンスを遮るようにしてコートへ入ってきた実弥は、腕まくりをしながら杏寿郎へ鋭い目を向ける。普段より荒々しいその様子にも構わず、杏寿郎は口角をきゅっと上げた。

「不死川! 手加減は無用だ! 全力でかかってこい!」

 そうして杏寿郎が投げたボールは、破裂音のような音とともに実弥の掌へと収まる。

「上等じゃねえか。やり合おうぜェ……どっちかが――死ぬまでなァ!」

 投げられたボールは空気をえぐるように回転しながら、杏寿郎の腹へと喰い込む。杏寿郎はボールの回転を抑え込むようにして掴むと、

「さすがは不死川だ! 球が鉛のように感じる! 去年よりもさらに精度を上げてきたようだな!」

と、大きく腕を振りかぶる。
 一方は、目前で繰り広げられる熾烈な戦いに身動きが取れずにいた。すると、

「おーい。地味に突っ立ってねえで、お前も早くコートから出ろー」

 コートの外で、宇髄が「来い来い」と手招きしていた。ふと見渡せば、敵も味方も皆コートから出て、杏寿郎と実弥の一騎打ちを唖然とした様子で眺めているのだった。

「で、でもまだ試合が……」
「流れ球に当たって死んじまうぞー」

 飄々とした調子で言うと、ガムをぷくっと膨らませる。そんな宇髄の脇をすり抜けるようにして、玄弥がの元へと駆け寄ってくる。そうして腕を引き、

「危ねぇから! 早くこっち!」

 土煙が立ちはじめたコートから出ると、玄弥は実弥を見やり「完全に変なスイッチ入ってんな、兄貴」と苦笑した。

「いやぁ、やっぱ煉獄と不死川の戦いは派手だよな。これを見ないことには夏始まんねーんだわ」

 ボールが尋常ではないスピードで右へ左へと行き交うので、目で追っていた生徒たちの何人かは「もう目が……」とその場にへたり込む。
 片手団扇で愉快そうに試合を眺める宇髄に、は尋ねた。

「毎年こうなんですか?」
「おう。まあ今年は、いつもよりちょい激しめだがな」

 含みを持たせるような口ぶりだった。は首を傾げ、言葉の先を読もうと宇髄の横顔をうかがう。

「なんすかそれ。兄貴と煉獄先生、ケンカでもしてんですか?」

 口を開いたのは玄弥だった。は玄弥を見やり、そうしてまた宇髄の方へと顔を向ける。

「どうだろうなぁ。お前なんか知ってる?」
「えっ、私……?」
「そ、お前。サン」

 視線を下げたに、宇髄は横目をやる。

「……知らないです」

 形の良いその目は、彼女の口元に力が込められたのを見逃さなかった。

「あっそ」

 そうして視線を外し、宇髄は再びコートへと目を向けるのだった。
 は内心、ひやりとしていた。宇髄が何かを言わんとしているように見えたからだ。
 ――もしかして、社会科準備室でのことを……?

? 大丈夫かよ」
「……うん、なんで? 全然平気だけど」
「けどなんかお前――」

 そう言いながら玄弥が腕を伸ばす。は、玄弥に触れられそうになった手を、まるで隠すかのように引っ込めた。勢いよく避けられた玄弥は、一瞬何が起きたか分からない様子で、目を見開いている。

「あ……ごめん」

 指先がかすかに震えていることを、は自覚していた。
 社会科準備室での一件を、宇髄は知っているのかもしれない。全てを知らなかったとしても、鎌をかけようとしているのかもしれない。そう思うと、体が震えてしまった。だから玄弥に触れられ、なぜ震えているのかと問われるのは避けたかった。宇髄にこの動揺を知られるのが、嫌だったから。

「彼女に拒まれたら傷ついちまうよなあ」

 膨らんだガムの風船が弾ける。宇髄は玄弥に「な」と視線を送ったのち、を見おろす。

「なに。こいつになんか後ろめたいことでもあんの?」
「――っ!」

 にやりと上がった宇髄の口角に、は眉根を寄せ、唇を噛んだ。赤く染まりゆく頬を覆い隠すようにしながら、じり、と後退りをする。

?」
「ごめん大丈夫。……トイレ行ってくるね」

 駆け出したは、杏寿郎や実弥に声援を送る生徒たちの間を縫うように進む。
 「勝者は」という炭治郎のアナウンスが、沸き起こった歓声と拍手にかき消される。それでもは立ち止まらず、振り返ることもなかった。






 足音が近づいてくる。は廊下の角から顔を覗かせ、階段を上ってくる足音の主を待ち構えた。
 しかしいざその姿が現れると、再び角に隠れ、目をぎゅっとつむる。細く長い息を吐き、鼓舞するかのように胸を叩く。そうして瞼を押し上げ、「よし」と呟くと、ようやく一歩を踏み出した。
 ところが、ぱたぱたと響きはじめたいくつもの足音に動きが止まる。振り返ると、そこには女子生徒の群れがこちらへ向かって走ってきていて、は目をぎょっと見開いた。しかもよく見ると、我先にとばかりに押し合っている。
 踏み潰される。とっさに廊下の隅へ身を寄せると、彼女たちはの鼻先を風のように通り過ぎ、そのまま社会科準備室へと入って行った。

「煉獄先生おつかれさま!」
「優勝おめでと! すごいカッコ良かったー!」
「先生これ、さつまいもの蒸しパンです!」

 次々に上がる黄色い声。あの部屋があんなにも賑やかなのは、見たことがない。はそんなことを思いながら、

「……勝ったんだ」

 そう独りごちた。
 結局あのまま、グラウンドには戻らなかった。閉会式にも出ず、放課後を迎えるまでトイレで過ごしたのだった。
 ――不死川先生、ものすごく悔しがってそう。今ごろ先生のところにも、こんな感じで女子が押しかけてるのかな。
 女子生徒に囲まれて置物のようになっている実弥を想像し、の頬はふっと緩んだ。
 そうして、「帰ろ」と、社会科準備室に背を向けるのだった。




「そう、ただの腹痛。帰って薬飲んだら治ると思う。うん、帰れる。大丈夫だよ、ありがと」

 肩と耳の間に挟んだスマートフォンへそう返しながら、下駄箱からローファーを取り出す。

「うん。玄弥もね。じゃあまた明日。うん、バイバイ」

 そう言って電話を切ると、脱いだ上靴を下駄箱に入れ、ローファーに片足を差し込む。
 体調が悪いからと言って、部活を休んだのだ。球技大会の途中で姿を消したのことを、玄弥はひどく心配していた。が、「腹痛で」と言うと、それ以上深く聞いてくることはなかった。きっと生理だと思っているんだろうなと、玄弥が「そっか」と言った時の少し動揺した声色からそう察した。


 ――煉獄先生に、聞けなかったな。
 昇降口を出ると、は夕焼け空を見上げてため息をつく。あのことを宇髄先生に話したのかどうか、問いただそうと思っていたのだ。けれど、本当に聞きたいのは、そこではない。

「君!」

 空を見上げていた視線を、そのまま声の方へと向ける。校舎三階、社会科準備室の窓から、杏寿郎がこちらに身を乗り出していた。
 その奥から女子生徒たちの「なに? 誰?」というざわめきが聞こえてきたため、はとっさにカバンで顔を隠した。

「少しそこで待っていてくれないか!」

 そんな大声で言われても、とは眉根を寄せる。ここに突っ立って好奇と嫉妬の視線を受け続けるのは耐えられない。カバンを盾のようにして女子生徒たちの視線を跳ね返しながら、は横歩きで昇降口へと戻るのだった。
 足音が近づいてくる。それが誰の音なのか、耳がもう覚えていた。階段の残り数段を飛び降りるようにして着地すると、杏寿郎はそのまま減速することなくへと一直線に向かってくる。

「すまない。追われている」
「えっ、わ……っ!」

 口早に言った杏寿郎はの手を取ると、昇降口から飛び出す。は風を切る音に紛れて、「煉獄先生!」と呼ぶ女子生徒たちの声を聞いた気がした。


 教職員の駐車場まで来ると、杏寿郎は車体の後ろに回りながら「隠れろ」と言った。しゃがみ込む杏寿郎に手を引かれるように、もまたその場に身をかがめた。

「あの……」

 途端に「シッ」と人差し指を唇に押し当てられ、は目を丸くする。

「静かに」

 砂利を踏み鳴らすいくつもの足音が、目の前を通り過ぎていく。
 杏寿郎は意識を車の向こう側に集中させているようで、の唇に指を当てていることを自覚していない様子だった。
 しかしその手首を握られたことで、よくやく気がついたかのようにの方へと視線を向けた。は、杏寿郎の手を自分の顔から引き離しているところだった。杏寿郎の赤い瞳と視線がかち合うと、すぐさまその手を離す。そうして、

「いつもああやって追われてるんですか?」

と、取り繕うように尋ねた。

「いつもではないが、今日のように学校行事で目立ってしまうと決まってこうなる。差し入れやねぎらいの言葉を貰えるのはありがたいことだがな! 業務に差し支えるので、ある程度のところで巻くようにしている」

 まっすぐに視線を向ける杏寿郎とは対照的に、「そうですか」と返したは俯き加減で、目を左右に泳がせている。

「……勝ったんですね、ドッジボール」

 の問いに、杏寿郎からの返事はなかった。不思議に思ったが顔を上げると、そこでは杏寿郎が、なんとも言えない表情で口角を上げていた。そこにどんな感情が潜んでいるのか考える間もなく、は再び顔を伏せる。
 ――距離が、近すぎる。
 それでも、まだ近くに先ほどの女子生徒たちがいるのではないかと思うと、車の陰から出るわけにもいかず、杏寿郎と向かい合ったまましゃがみ込み続けるしかなかった。

「何の用だったんだ?」
「……え?」
「廊下から、君の声が聞こえた気がした。来ていたのだろう」

 が驚いたのは、社会科準備室の前まで来ていたのを杏寿郎が察していたこと、ではない。「何の用」という言葉が出てきたことに対して、思わず顔を上げてしまったのだ。
 ――あの日キスをしたのを、忘れてしまったのだろうか。思えば煉獄先生は、翌日もいつも通りに声を掛けてきた。

「その……」

 結局先生にとっては、キスなんて、なんともないことだったんだろうか――。
 は心の奥底から湧いてきたその感情が、怒りではなく、別のものであることを察した。
 虚しさだ。それを悟られないために、杏寿郎の顔をぎっと強く見上げたつもりだが、瞳が力なく揺れているのを自分でも分かっていた。

「宇髄先生に話したんですか?」
「話したとは」
「この間の、ことです……!」

 杏寿郎が答える間もなく、は声を絞り出すようにして続ける。

「どういうつもりなんですか? あんな、あんなこと、して……」
「嫌だったか」
「――っ、そんなの!」

 一瞬、杏寿郎を見上げるの眉根はぎゅっと寄った。しかしすぐ、ハッとしたように目を丸くし、唇を噛み締めた。
 そう訊かれて初めて気づいたのだ。嫌では、なかったことに。

「……初めて、だったので……」

 消え入るように言うと、は、胸元に引き寄せた膝へと顔を突っ伏した。
 ――おかしい。相手は出会って間もない人で、先生で、私には玄弥だっているのに。煉獄先生にキスをされたことが、嫌じゃなかったなんて。
 むしろあの時、胸の奥底がさわさわと優しく撫でられたような感覚になった。あれは、あの感覚はなんだったんだろう。とても懐かしくて、恋しくて、かなしい。

「宇髄にも誰にも話していない。そのつもりもない」

 顔を伏せたままのに、杏寿郎は続ける。

「手荒な真似をしたこと、謝る。申し訳なかった」

 そこでふと顔を上げたは、力なく笑った。

「……謝るんですね。なかったことにしてくれ、ということですか?」
「そういうわけでは――」
「大丈夫ですよ。今ならまだ忘れられます」

「私も誰にも言いませんので、安心してください」


 聞く耳を持たず口早に言うの手を、杏寿郎が包み込むようにして握った。

「なかったことになんて、するわけがないだろう」
「……だって、先生が謝るから――馬鹿みたいじゃないですか、私だけあのキスのこと、ずっと考えてて……」
「俺も同じだ。理性を抑えきれなかったことは恥じたが、後悔はしていない」

 まっすぐに言う杏寿郎に、は小さな息を吐いた。そうして唇の震えを抑え込むように、ぎゅっと結ぶ。

「もう君から俺に近づくことなどないと覚悟していた。だから今日、君が助けを求めてくれて、たまらなく嬉しかった」
「……あれはただ、カードの意味を知らなくて。煉獄先生が担当だっていうことも」
「細かいことはどうだっていい」

 手を握る力がぐっと強くなった。杏寿郎は目をわずかに細め、を見つめる。

「どれほど君を待ち焦がれていたことか」

 それは、優しく沈み込むような声だった。
 は結んでいた唇を解き、杏寿郎の赤い瞳を見上げる。

「教えてください、先生。どうして私にこだわるんですか。……煉獄先生にとって私って、なんですか?」

 杏寿郎もまた、の淡い黒褐色の瞳を見つめた。

「添い遂げたかった女性だ」

 それは杏寿郎にとって、嘘偽りのない言葉だった。
 しかしは張り詰めていたものが解けたかのように、その顔からふっと力が抜けた。

「――前世で、ですよね」

 そうして納得したような笑みをうっすらと浮かべると、杏寿郎の手をほどき、立ち上がる。
 
「煉獄先生って、いつもどこを見てるかよく分からないと思ってました。私を見ているようで、見ていない。……その理由が、やっと分かりました」

 気丈なその口ぶりも、最後の方は次第に震えはじめていた。はスカートの裾をぎゅっと握る。そうして、未だにしゃがみ込んだまま、目を大きく開いてこちらを見上げている杏寿郎へ言うのだった。

「先生はずっと、前世の私を見ていたんですね」

 それだけを告げると、はその場から逃げるように去る。
 もうこれ以上言葉を紡ぐことはできなかったのだ。それは、砂利を踏みしめる誰かの足音が近づいて来たせいではない。込み上げてくる感情が、言葉となってこぼれ落ちてしまいそうだったから。
 だってこんなにも虚しくて、悲しいなんて。――きっと私は、おかしいんだ。






(2021.10.02)