誰に頼ることもなく、いつも一人で踏ん張って立っている。あの頃のあいつは、そんな女だった。
 それはきっと、長く生きちまった俺だけが知っていることなんだろう。


10.願うよ



 バイク置き場も作ってほしいという長年の要望が通り、今春からようやく、駐輪場の片隅にバイク用スペースができた。
 バイクは好きだ。風を切りながら走っている間は、いろいろなことを手放せる気がしたから。とはいえ、別段深刻な悩みを抱えているわけではない。だが時折、無性にすべてを忘れてしまいたくなる。
 例えば、雛鶴が結婚すると知った時。前世は前世、今世は今世だ。執着はしない。そうは思っていても、そのことを知った時には気が乱れた。
 そもそも出会った頃から、雛鶴には男がいた。前世の記憶もない。そんな雛鶴が手に入れた今の幸せに水を差すなんて、そんなダセェことはできないだろ。そう割り切ることにした、つもりだった。
 けれど頭と心は別の生き物らしく、「宇髄さん。私、結婚するんです」と照れくさそうに笑った雛鶴に、今すぐ組み敷いて無理やりその記憶をこじ開けてやろうかと、一瞬本気でそう思った。が、すぐにそんなダサい自分を嘲笑った。
 そうしてその足で何時間もバイクを走らせ、体の内側に巣喰ったどろどろの感情を、風に洗い落としてもらった。完璧にとまではいかないにしろ、幾分かはマシになった。そうやって、前世のこととは折り合いをつけながら、試し試しで生きてきたんだ。



「おわっ!」

 バイクの鍵を指に絡め、くるくると回しながら歩いていると、車の陰から不意に何かが出てきた。驚いた拍子に、回していた鍵が指先からすっ飛んでいき、その人物の足元に落ちる。

「煉獄……」

 車の背後から現れた煉獄は、いつもの覇気はどこへやらと思うほどに、呆然とした様子でその場に突っ立っていた。

「お前なに? どうしたよこんなとこで。隠れんぼでもしてんのか?」

 煉獄は、俺の言葉がまるで耳に入っていないようだった。瞬きを忘れたかのように目を見開き、何かを見つめている。その視線の先へ顔を向けると、遠くの方に、走り去っていく女子生徒の背中が見えた。あれは――だ。

「宇髄。俺は、視野が狭いのだろうか」
「……は? なんだ突然」

 の姿が完全に消えると、煉獄はようやくこちらへ体を向けた。
 溌剌という言葉は、こいつのためにあるようなもんだと思っていた。前世でも今世でも、煉獄は変わらない。いつだって弱音を吐かず、周りを鼓舞し、自らを奮い立たせ、そうやって力強くまっすぐに突き進んでいく男だった。それがどうした。こんな、「溌剌」とはかけ離れた声で、表情で。

「不死川がよそ見をした。俺はそれに構わず球を投げた。俺は勝負に集中していて気がつかなかったが、不死川は気づいていた。がグラウンドから走り去って行くことに」

 そう、淀みなく語った。
 不死川の敗因には気づいていた。止めどなく球を投げ合っていた中で、不意に不死川が視線を外した。その目は俺の肩越しを捉え、その次に俺を睨んだ。そうしている間に煉獄が繰り出した球を、不死川は受け止めることができず、勝敗が決まったのだ。
 球技大会が終わった途端、「あいつになんかしたのかァ」と詰め寄られたのには参った。少しつついてみただけだ。そう返そうものなら首を絞められそうな勢いだったので、「なんもしてねーよ」と言うと、苦々しくチッと舌打ちをされたっけ。

「不死川は周りをよく見ている。だが俺はどうだ。視野が狭い。見たいものだけしか見えていない」

 そう言って、煉獄は車に寄り掛かった。この持ち主が誰かなど、きっと知らないのだろう。

「なんかあったか?」

 腕を組む煉獄は、こちらへ視線を流したかと思えばすぐに戻し、そうして目を閉じた。

「私のことを見ていないと言われた」
「……なんだそりゃあ。見まくってるだろ、いつも。まあドッジの時は確かに、集中するとお前はこうだからアレだけど」

 こう、と言いながら両手をまっすぐに伸ばした俺を、いつの間にか目を開けていた煉獄は、静かに見つめていた。

「前世の私を見ている、と」

 ああ。それは随分と直球な言葉だな。相当腹を抉られたことだろう。
 そんなことを思いながら、口を固く結ぶ煉獄を見おろす。

「そうなのか? お前って、あいつとの思い出に固執してるだけなのかよ?」

 知らない。前世で煉獄とがどんな関係だったのか、充分には知らない。
 俺が知っていたのは、が剣士から隠に移ったやつだということと、そんながいる部隊を、煉獄が頻繁に任務へ帯同させていたということ。
 そして俺が見たのは、煉獄の葬儀で、折れた焔色の刀身を千寿郎へ手渡しているの姿。命日に、煉獄の墓前で手を合わせ続ける、姿。

「俺はただ、叶えられなかった思いを、果たしたいと願っている」

 ――それは、知ってる。強く想い合っていたのだろう。それだけは、よく分かっていた。痛々しいほどに。

「こっからじゃねえの?」

 煉獄はふと顔を上げ、俺の方へと目をやる。予想外の言葉だったのだろうか、口をわずかに開け放し、目を丸くしていた。

「今世ではまだ知り合ったばっかで、前世での印象の方が強いのは仕方ないだろ。こっから、今のあいつのことも知っていきゃいい。まだまだ巻き返せるぞ」

 眉をぴくりと動かしたと思えば、煉獄の口元にはうっすらと笑みが浮かんだ。何の笑いだ、それは。励ましの言葉に喜んでいるのか、巻き返すなんて難しいと諦めているのか。こいつはなかなか目の表情を変えないから、分かりづらい。
 分かりづれーよ、という意味も込めてその額を指で弾いてやると、煉獄は「む!」と声を漏らした。

「と言いたいところだが、一応ここ学校だからな煉獄。お前ら、教師と生徒な。加減はしろよ?」
「加減か。それは難しい問題だな!」
「おいおい」
「善処はする!」

 何にしたって、決して後ろを向いているわけではないんだな。そう思うと、ハッと笑いが込み上げた。そうだ、こいつはそういう男だ。いつだって、前だけを向いて踏ん張って立っていた。同じだ。も、そういう女だった。
 短く笑った俺を見上げて、煉獄は首を傾げる。

「君はなぜ俺に助言をくれる。前世のが不死川と――そういう関係だったことを知りながら」

 夫婦という言葉を避けたあたりに、葛藤が見え隠れしているように思えた。まだその事実を受け止めきれずにいるのかもしれない。まあ、無理もないだろ。
 不死川は煉獄がこの学園に赴任してきた時から、前世でのと自分の関係を煉獄に知らせるなと、事あるごとに言ってきた。知らせるも何も、あの頃の煉獄はのことをはっきりと思い出していないようだったし、そもそもと再会すらしていない。そんな状況で言うわけがないのに。どんだけ信用されてないんだよ、俺と冨岡は。まあ結果的に、冨岡のせいで、不死川が避けたかった事態になったわけだが。

「だって別に、今のあいつらが夫婦なわけでもなんでもないだろ。それに俺には、お前の切実な願いを否定することなんてできねーから」

 できるわけがない。はじめこそは、の存在に囚われる煉獄を内心憐んでいた。けれど、愛した女が今幸せに生きてるならそれでいいという俺の言葉に、「それは前世で思い残すことがなく共に過ごせたから言えること」と煉獄が返した時、ハッとした。そうか。俺は確かに、そうだ。最後の最期まで、嫁たちはそばにいてくれた。嫁とのことで言えば、思い残すことは何一つなかった。
 ――そうだよな、煉獄。だってお前は、よくやったよ。すべてを賭して闘った男の唯一の心残りが、だったんなら。あの頃の記憶とともに生まれ変わることができたんなら。そりゃあ、望むだろう。願うだろう。その気持ちは、誰にも否定できるものではない。

「……煉獄」
「なんだ!」
「あのよ。一応言っとくと、お前がさっきから寄っ掛かってるその車、不死川のだぞ」
「む!」
「下手に触って汚すとうるせぇぞ、あいつ」

 煉獄はくるりと振り返って車体をまじまじと見ると、
 
「なるほど! さすが不死川だ。よく手入れがされている。これを汚されるのは確かに我慢ならないだろうな!」

と、突き抜けるような声を上げた。
 なんだそれ、と吹き出すと、煉獄は「なぜ笑う?」と腕を組んだまま首を傾げる。

「お前ってほんと、気持ちいいやつだよなーって」
「そうか! 君も話していて気持ちのいい男だ!」
「おう、そらありがとよ」

 煉獄は口の端を上げて笑むと、まだ仕事が残っているからと言って、颯爽と去って行った。
 落ちたままだった鍵を拾い上げ、不死川の車を見やる。確かにきれいに整備されていて、持ち主の性格が表れているようだった。そこでふと、思う。
 ――心残りというのなら、不死川はどうだ。あいつもと過ごした期間は短かかった。痣の寿命を迎えるまでの数年のみだ。共に子の成長を見届け、歳を重ねていきたかったろう。けれど今は、自分の思いに蓋をして、前世からあいつを想い続けてきた煉獄や弟の邪魔をしないように、一歩下がっている。本心では、また共に生きたいはずなのに。

「なあ。そうだろ、不死川」

 そこで、じゃり、と小石が踏み締められる音がした。車から視線を外して目をやると、

「あ? なんでお前……」

 が、顔を強張らせてこちらを見ていた。スカートの裾をぎゅっと強く握り締めている。なんで戻って来た。そう問う前に、は不死川の車の後ろに回り込み、姿を消した。
 なんだ、と思って近づいてみると、は地面に這いつくばるようにして、車体の下に腕を伸ばしていた。

「手伝うか?」
「大丈夫、です……」
「けどお前、そんな体勢じゃパンツ見えるぞ」
「はっ、え!」

 慌てて上体を起こし、尻を押さえたは、恨めしそうな目で俺を見上げる。

「まあ任せろよ。こっちはお前より何倍も手足が長ぇんだっての」

 言いながらの隣にしゃがみ込み、車の下を覗く。そこにはスマホが転がっていた。どういう落とし方をしたら、あんなところまで飛ぶんだよ。そんなことを思いながら腕を伸ばし、スマホを掴む。

「おら、取れたぞ」

 なんの気なしにスマホへ目を落とすと、画面には『玄弥:帰れたか?』のメッセージ通知。

「ありがとうございました……!」

 奪うようにしてスマホを取ると、は画面を確認し、慌ててカバンに仕舞い込む。

「どいつもこいつも、なんでお前なのかねぇ」

 去ろうとしていたは、はたと動きを止めた。そうして、ぼやくように言った俺を見上げ、眉根を寄せる。
 には前世の記憶がないらしい。けれど分かる。こいつには思い出す気配がある、と。記憶の尾っぽは掴みかけているはずだ。それでも思い出すことを拒絶しているのはなぜか。何を恐れている? あの頃手にしたいと願ったものが、もう目の前にあるんだろ。

「宇髄先生は、私が憎いんですか?」

 予想もしていなかったその言葉に、思わず「はあ?」と声が漏れてしまった。

「なんだよ憎いって。なんでそう思う」
「先生の口調や目つきです。いつも、責められているような気持ちになります」

 ――憎い。そんなわけがない。ただ、もどかしいだけだ。
 だってお前、あんなに一人で踏ん張って生きたじゃねぇか。それは、長く生きちまった俺だけが知ってる。
 なのに何をまだ、踏ん張ろうとしてんだ。こんな平穏な世の中に生まれてきたんだから、次はラクに生きればいいだろ。そう思えて仕方がない。だから、もどかしい。

「お前さ。もうちょい力抜いて生きれば?」

 は俺の言葉に顔色を変えず、強い眼差しで射抜くように見上げてくる。
 ――ああ、本当に。あの頃と変わってねぇよ、お前は。
 あの頃のは、地面に踏ん張って立っているように見えた。不死川の葬儀でも、小さな子どもを二人抱えて、気丈に振る舞っていた。
 声を掛けると、「覚悟していたことですから」と返した。その口ぶりはまるで、己に言い聞かせるかのようだった。何か困ったことがあればいつでも頼れと言ったが、こいつが自ら助けを求めに来ることはなかった。震災で住む家を失くした時でさえ、息子が出兵した時でさえ。

「私の何を知ってるんですか。もしかして宇髄先生も、煉獄先生みたいに私のこと……前世の私のことしか見えて――」
「うるせぇ。お前はお前だ。魂は同じなんだよ」

 は一瞬、遠い目をした。

「魂……?」
「魂の記憶。お前にもあるはずだ。本当はもう、このあたりまで思い出してきてんだろ?」

 言いながらその白い喉元に指を当てると、は体をびくりと跳ねさせた。首を引っ込め、

「私は何も、憶えてません」

 そう言ったの声はかすれていた。そんなにもう一歩近寄り、その耳元に言葉を落とす。

「なあ。何を拒もうとしてんだ。お前は、何を恐れてる?」

 は逃げることも、体を跳ねさせることもなく、唇を結んだままで、地面に転がる石に焦点を当てていた。

「前世を知らない方がいいこともある。思い出したからって幸せになれるとは限らない。けどお前の場合、知らぬ存ぜぬのままじゃあ、自分も周りもつらいことの方が多いだろうよ」

 そうしてその肩に手を置き、
 
「ま、決めんのはお前だ」

 再びバイクの鍵を指に絡め、立ち尽くすに「じゃあな」と声を掛けた。
 しばらく歩いて振り向くと、はまだその場に突っ立っていた。その後ろ背に、あの頃を思う。
 「宇髄さんには根負けしました。何かあれば、そのときにはお力を貸してください」誰にも頼ろうとしなかったあいつは、互いに白髪がまじり、顔の皺が目立ってきた頃にようやく、そう言って朗らかに笑ってくれた。
 そうして俺は、「どうしてそうも私のことを気に掛けてくれるんです?」と問われて気づいたんだ。という一人の女を通して、先に逝った仲間たちを見ていたのだと。お前のためではない。全部、あいつらのためだ。包み隠すことなくそう言うと、は悲しむわけでも怒るわけでもなく、ただ、「宇髄さんにはあの人たちが、私の向こうに見えてるんですね」と、静かに涙を流したんだ。

「もう踏ん張んなよ」

 そう呟いたすぐ後だった。はゆっくりと歩きはじめ、夕陽が落ちる方へと向かっていく。俺はその背を見送ったのち、ヘルメットを被り、バイクに跨る。

 ――願うよ。自分ではない誰かのために命を賭けたあいつらが、そんなあいつらの思いを全身で抱えて気丈に生き抜こうとしたお前が、いつか心の底からの安らぎを掴めることを。ただ、願う。

 そうして俺はエンジンをふかし、が歩いて行った方とは逆の道へと、風を切りながら走りはじめた。






(2021.10.08)