それは遠い記憶の中。 空は目が冴えるほどに青く、緑の芝生は太陽に輝いていた。
その情景の中でおぼろげに映る少年の姿に目を細めた。
少年は私に向かって何か言うと、背を向けて走りだす。
 ―――待って、名前を教えて。
小さくなっていく背中に、私は言った。少年は振り向かない。
ただ、空の青と地の緑の境界線へ向かって走っていく。



1.彼女の開花



 新学期の日、いつものように新入生歓迎の宴が大広間で行われていた。 一年生の組み分け儀式もすっかり終わり、ホグワーツの生徒たちの目の前には金の皿に乗った様々な料理が置かれる。 夏休みの間に起こった出来事を報告しあう生徒たちの喋り声で、大広間は随分と賑やかであった。

「ああ、やっぱりこのローストビーフは美味しいなあ」
「ロン、食べ過ぎてお腹を壊さないでよ。私達には一年生を案内するという大切な役目が……」

 ローストビーフにがっつくロンにハーマイオニーが厳しく注意をしていた時。 フォークやスプーンが皿に当たる音や生徒の話し声で溢れかえる大広間に、ガシャン、という大きな音が響いた。 とたんに静まり返った大広間に、今度は女の子の「す、すいません」という慌てふためく声が響く。 生徒たちは身を乗り出して何が起こったか確認し始める。
 今年で五年生になったハリーも例外ではなく、通路へ顔を出した。 どうやらかぼちゃジュースのたっぷり入った容器を落としてしまったらしい。 そこら中にかぼちゃ色した液体が飛び散り、容器のガラスの破片がきらきら光っていた。 うずくまる女の子のローブからしてグリフィンドール生だということは分かったが、ハリーが顔を確かめようとしても女の子は俯いているので分からない。 女の子が片付けようと慌ててガラスに手を触れようとしたとき、すーっとガラス片が集まり、元の容器に戻った。 今度は生徒たちの注目が教職員テーブルへと移る。
 半月型の眼鏡のダンブルドア校長が再び杖を振ると、かぼちゃジュースは綺麗に拭い取られた。 眼鏡の奥の瞳を微笑ませた校長に、女の子はようやく顔を上げた。 その瞬間に、大広間に今度は囁くような声が噴出すように響き始める。
 ハリーも驚いたようにして、ロンとハーマイオニーを見た。 ロンはぼけっと女の子を見ている。ハーマイオニーは何故だか得意気に笑んでいる。 ハリーの正面に座っていたフレッドが言ったことと、ハリーが言わんとしていることはまるで同じだった。

「あの子は誰?」

 再び席についた女の子を、大広間にいるほとんどの生徒が見入った。
 黒い瞳は無駄に大きくは無く、ほどよい大きさなのだが、どこが人を魅了するような綺麗な目をしていた。 白い顔に、濡れた鳥の羽のような黒色の髪をふわりと緩く巻いているのがよく似合った。 一言で言うと、とても

「可愛い……」

 フレッド、ジョージ、ロンの三人が声を合わせて言った。 おそらく男子生徒の大半がそう呟いただろう。 それほど彼女は魅力的だったし、戸惑ったように辺りを見回すその姿も逆にそれを引き立たせていた。

「あの子は転校生なの?」

 ハリーがハーマイオニーに尋ねた。 転校生だとすればさっき紹介があったはずだ。 そもそもホグワーツは転校生というものを認めているのだろうか。
 色んな疑問が渦巻くハリーの頭の中に、ハーマイオニーの声がすっと入ってきた。

「いいえ、あの子は私たちと同じ五年生よ。知らなかったの?」

 ロンは激しく首を横に振った。 ハーマイオニーはまた得意そうに笑うと、かぼちゃジュースを一口飲んだ。

「あの子の名前は、よ」

 ハーマイオニーのテーブルの周りにいた生徒達は「……」と呟いた。 ハリーとロンは顔を見合わせると、首を横に振った。

「居たっけ?」
「ええ。ずっと居たわ」

 ぴしゃりと答えるハーマイオニーの口元がひくりと上がったのは気のせいではないだろう。 ハリーはもう一度まじまじとテーブルの端の方に座るの顔を見た。

「君、ハーマイオニー。あの子と友達なのか?」
「ええ、良き友達よ」
「じ、じゃあ―――

 ロンはぽっと耳を赤く染めた。 そうして言葉を続けようとしたが、フレッドがロンに肘を思い切りぶつけて言った。

「彼女をこの席に呼んでくれよ!」

 フレッドは自分の隣の席を指差しながら言った。 ジョージもウンウンと頷く。 ハーマイオニーは「それはどうかしら」と言うと、マッシュポテトを皿に取りながら首を傾げた。

「もうすでに、あちらで人気者になってしまったみたいだし」

 確かに、の周りに座っていた生徒は彼女にしきりに話しかけている。 隣のテーブルのスリザリン生までも、身を乗り出しての気をひこうとしていた。 ウィーズリーの双子はちぇっと不貞腐れたように言った。
 は突然浴びた脚光に今だに戸惑っているらしく、ぺこぺこと頭を小さく下げている。

「あれは日本人特有の行動ね」
「え、彼女は日本人なの?」
「あら、見て分からない?」

 一体ハーマイオニーはいつと仲良くなったのだろう。 そう聞こうとしたが、ハリーの目はふとマルフォイに向いた。 マルフォイはの方を目を細めて見ていた。 いつものマルフォイは、誰かが注目を浴びていると冷ややかな目を向けて隣にいる生徒にひそひそと悪口を言っているのだが、その時の目は違ったし、誰と話すことも無くじっと見つめていた。
おかしいな、とハリーが思ったとき、目の前の料理がぱっと消えて間を置かずにデザートが現れた。






 ハリーが談話室に戻ると、そこにはフレッドとジョージ、そしてが居た。 ちらほらと談話室に残る生徒たちは、双子を恐れてか会話の輪の中には入っていなかったが、ひっそりと耳を傾けていた。 フレッドはハリーを見つけると、陽気に手招きをした。

「今、姫の身の上話を聞いてるんだ」
「姫?」

 ハリーがそう聞くと「ああ!」と双子は声を揃えていった。

「もちろん、のことさ」
「今日から僕らは姫と呼ぶことにしたんだ」

 自信満々にそう言う二人に、は苦笑いした。

 それからハリーは本人ではなく、フレッドとジョージから自身の家族構成やら何やらを聞かされた。 両親は日本人で、マグルの父親と魔女の母親の間に生まれた一人娘。 趣味は読書と日本舞踊(「それは何?」とハリーが聞くと「日本のダンスのようなものだよ」とジョージが答えた。)
 「それから―――」とフレッドが続けようとすると、リー・ジョーダンが男子寮の扉から顔を出して「フレッド、ジョージ。例の試作品のことで話があるんだけど」と呼んだ。

「ああ、オーケー。じゃ、僕らはもう行くよ」
「ハリー、抜け駆けは禁止だぞ」

 二人は散々そう警告めいたことを言いながら、男子寮へと消えていった。
 残されたハリーとの間には暫く沈黙が流れた。 すぐ傍の暖炉がぱちぱちと暖かい音をたてながら燃えている。

「あの……僕はハリー・ポッター」
「え、あ、もちろん知ってるよ」

 苦し紛れに出た言葉に、はうっすらと笑みながら答えた。 ハリーは今まで彼女を知らなくても、彼女は自分を知っていたのか。それも「もちろん」だなんて。 そう思うと嬉しさ半分、申し訳ないという思いが起こった。
 しかし次に出た言葉にハリーは驚いた。

「ヴォルデモートが敗れた男の子」

 さも当たり前かのようにさらりとの口から出たヴォルデモートの名前に、ハリーは目を丸くする。

「君、今ヴォルデモートって言った?」
「え?あ、わ、私ったら何かいけないことでも言っちゃった?」

 おどおどとする彼女にハリーは思わず噴出した。 もしかすると知らないのかもしれない。魔法界のほとんどの人々が「例のあの人」と呼ぶことを。 念のためにそのことを聞いてみた。 するとは、ううん、と言って首を振った。

「知ってるよ。でも、それって逆に怖くなるだけじゃないかなあって思って」

 ハリーは一年生の頃にダンブルドアから同じようなことを言われたのを思い出した。 名前を伏せると恐怖が増すだけだ、と。
 ハリーは再び笑いながら言った。

「僕たち、良い友達になれそうだね」

 そうするとはとても嬉しそうに笑って、何度も何度も頷いた。 ハリーはそれを見ると、じゃあ、と言ってソファから立ち上がった。

「先に行くね。君は?」
「あ、私はハーマイオニーを待ってるから……」

 そう言って手を振り、ハリーは男子寮への階段を上っていく。
 ―――あんなに可愛くてあれほど個性的な女の子の存在に、どうして今まで気が付かなかったのか。
 そう考えながら。






「あら、?」

 ハーマイオニーとロンが監督生の役目を終えて談話室へ戻ったとき、は暖炉前のソファに腰掛けていた。 「あ、おかえりなさい」と閉じかけていた瞼を開くと、微笑んでそう言った。 ロンは顔をほんのりと赤らめる。

「や、やあ。初めまして。僕はロン・ウィーズリー」
「ロンったら。さっきも言ったでしょう?は転校生じゃないのよ」

 ハーマイオニーはロンを少し肘で小突くと、まだ何か言いたげなのを無視して男子寮へ行くように顎を階段の方向へと示した。 「じゃあ、また明日ね」ロンはそう言ってにひらひらと手を振った。 ハーマイオニーはロンの姿が消えるまでその背中を見送ると、ふうっと一息ついての隣に腰を下ろした。 クルックシャンクスがごろごろと喉を鳴らしてハーマイオニーの膝に飛び乗る。

「私、ハーマイオニーにお礼が言いたくて」
「それはまた、どうして?」
「え、だって……」


 はハーマイオニーに撫でられるクルックシャンクスを見ながら言う。

「こうなれたのも、ハーマイオニーのアドバイスがあったから……」
「あら、それは私のお陰でもなんでもないわ」

 ハーマイオニーは得意そうに笑むと、の目をしっかりと見た。 不思議そうに首を傾げるを、クルックシャンクスまでもが見物している。

「あなたの魅力が開花される時が来ただけ。全部あなた自身の力よ」

 そんなことない、とは言ったがハーマイオニーは聞き流した。 クルックシャンクスはぴょん、との膝の上へと移動した。

「でもまだ慣れないでしょう?」
「全く慣れないよ。こんなに人の視線を浴びたのは生まれて初めてだから」

 ハーマイオニーは笑った。 もクルックシャンクスを手の甲でゆっくりと撫でながら笑った。



 二人が出会ったのは先学期の終わりごろだった。
 ハーマイオニーは図書館から借りた数冊の本を腕に抱えて、グリフィンドールの談話室へと急いでいた。 廊下を曲がったとき、ものすごい勢いで人とぶつかった。 ハーマイオニーは本をぶちまけたが、それ以上に相手の持っていた物が散乱する様はひどかった。 鞄の中に入っていたものが全て出てしまい、インク壺から中の黒い液体が血のように飛び散っていた。 ハーマイオニーが謝ると「ご、ごめんなさい!」とかなり慌てた声が返ってきた。 見るとその女の子は床に這いつくばって散乱した物をぐしゃぐしゃに鞄の中に入れていた。 ハーマイオニーも手伝おうと一歩踏み出すと、パキっという音が靴の下で鳴った。 不思議に思って足を上げてみると、そこには無残な姿の眼鏡があった。

「まあ、私ったら何てことを!これはあなたの眼鏡?」

 膝をついてレンズの割れてしまった黒ぶちの眼鏡を手にとり、女の子に尋ねた。 女の子は顔をあげて、顔面の半分まで覆う前髪を掻き分けてハーマイオニーの手にある眼鏡を目を細めて見た。 「ひっ」と小さな叫び声をあげる女の子に、ハーマイオニーはなぜか目を奪われた。

「そ、そうです私の眼鏡……ああ、どうしよう。これがないと私……」
「いえ、いえ。大丈夫」

 ハーマイオニーが女の子の目をじっと見ながら杖を取り出して、レパロ、と呪文を唱えると、眼鏡はたちまち元の姿に戻った。

「ああ、ありがとうございます!」

 感動したような声をあげ、眼鏡を受け取ろうと手を伸ばした女の子にハーマイオニーは聞いた。

「あなた、名前は?」
「あ、私はです」
「何年生?」
「よ、四年生です」

 ローブを確認すると、どうやらという少女もグリフィンドールらしい。それも自分と同学年だ。 ハーマイオニーから眼鏡を受け取ると、はそれを掛けた。 そしてバサバサとまるでカーテンのように前髪で目を遮断した。

「失礼だけど、あなたは転校生?」
「い、いいえ。私ずっと、一年生からずっと居ます」
―――そうなの?私ったら!……本当に、ごめんなさい」

 それに申し訳なさそうに謝るハーマイオニーには、

「いいんです。私、存在感全く無くて……私のこと覚えてくださってる先生もあまり居ません」

と、少し寂しげに言った。少なくとも寮監のマクゴナガル先生は覚えているだろう、とハーマイオニーは思った。
 次にハーマイオニーは大胆な行動をとった。 さっとの前髪を掻き分けたのだ。彼女はまた小さな悲鳴をあげた。

「あ、あの……グレンジャーさん?」

 自分の名前を知っていることに少し驚いたが(同時に自分が彼女の名前すらも知らなかったことに罪悪感を覚えた。)ハーマイオニーはが掛けたばかりの眼鏡を外した。 はというと、今までこんなに自分の顔を見た人はいない、というような顔をしている。

「あなたの目、とても綺麗よ」

 その言葉がの目前を甘く眩ませた。 一瞬、青い空と緑の芝生が目の前に広がった。
 ―――きみ、目が綺麗なんだね。
 少年の懐かしい声が耳に聞こえる気がした。 しかし頬を触れる感触が昔の記憶に埋もれるを現実に引き戻した。

「肌もつやつやだし、髪もまっすぐに芯が通ってる」


 ハーマイオニーはいまや片手で頬を、もう片方で髪を触ってぶつぶつと呟いていた。 戸惑うに、暫くしてパチンと手を叩き合わせたハーマイオニーは興奮したように言う。

「あなた、イメージチェンジすべきだわ!うん。きっと素敵になる!」

 それから二人は密かに友情を育んでいく。 夏休みには互いに電子メールで連絡を取り合ったりした。(ふくろう便だとの居る日本とハーマイオニーの居るイギリスでは遠すぎるため手紙を受け取るのが遅くなってしまう。)
 その中でハーマイオニーは髪型はこうした方がいい、とか眼鏡はやめてコンタクトレンズにしなさい、などに教えた。 そうしてこの夏の間に、は見違えるほど素敵な女の子になったのだった。



「私、きっと見つけるからね」

 暖炉の火を見つめながら、が言った。 クルックシャンクスはまだ彼女の膝の上を占拠している。 ハーマイオニーはにっこりとして頷いた。

「忘れられない男の子、でしょう?」
「うん、そう」

 の声に力が込められていた。 ハーマイオニーはクルックシャンクスの首元を撫でながら、

「きっと見つかるわ。だってその子が褒めてくれたあなたの目、今は前髪のカーテンに邪魔されていないもの」

 ―――見つけ出してくれる、なんて期待しない。そんなのって、まるでおとぎの国のお姫さまと王子さまみたいでしょ?それに、あの子が私の目なんて覚えてくれてると思う?だから、姫でもなんでもない私は、自分で見つけてみせるからね。

 そう言ったときのの凛とした顔が、ハーマイオニーは忘れられなかった。






(2007.8.9)