実弥はすぐにまたあの藤の家へと立ち寄った。出迎えた夫人は、口では気の良いことを言いながらも、去り際に見せたその顔は翳り、実弥のことを全く歓迎していない様子だった。
 その後で挨拶に現れたのは、この家の長男だった。歳の頃は実弥と同じか少し上で、恰幅の良い男だった。「どうぞゆっくりとされてください」と告げると、母親と似た笑みを貼り付けてそそくさと消えて行った。

 ここは、材木商で財を成した一族らしい。先代が鬼狩りに命を救われ、藤の家紋を掲げるようになった。主人は病を患い、屋敷の奥座敷で寝たきり。今は長男が家業を継いでいる。
 前回この屋敷を訪れてから、実弥はこの家のことを周囲に聞いたのだった。しかし誰も、林の奥にある蔵のことは知らない様子だった。

 実弥は人目を避けるようにして裏手へ回り、あの林の道へ向かう。しかし柵の前には、使用人らしき男が立っていた。見張りのつもりなのだろうか。よほどあの蔵に近寄ってほしくない事情があるらしい。
 何もわざわざ道なんざ通って行く必要ねぇんだよ。実弥は心の内でそう吐き捨てながら、見張りの男に気づかれないよう、林の中へと立ち入った。

 蝉の鳴き声が降り注ぐ。日差しが遮断されているせいか、ここは幾分か涼しく感じた。枝葉をかき分けながら進むと、蔵の脇へ出た。格子窓から腕が伸びているのを見つけ、実弥はゆっくりと近づいて行く。
 風車は回っていない。風の少ない日だった。それでも不規則にゆるゆると力無く回っているのは、少女が自ら息を吹きかけているからだろう。

「おい」

 その声に、少女の腕はびくりと震えた。

「大丈夫だァ。何もしねぇよ」

 そうして実弥は窓の向こうを覗き込む。少女は風車を持つ腕を出したまま、その場で固まっているようだった。
 長い髪は結い上げられておらず、白い浴衣は体に合っていないのか、袖が随分と短かく、布は全体的にくたびれている。

「お前、ここで何してる?」

 少女は口を開く。しかし前と同じく、声が出てこない。

「こんなとこで、こんなボロい風車回して」

 そう言いながら、少女の持つ赤い風車に触れる。

「だ、だめ……!」

 振り絞るような声が上がり、実弥は目を見開く。

「壊れて、しまいます……これは――」
「なんだァお前。喋れるんじゃねェか」

 実弥のその言葉に、少女はぴたりと静止した。そうして自分の喉元に手を当て、
 
「……ほんと、だ」

と、か細く呟く。

「風柱さま!」

 耳を突くような金切り声に、実弥の眉間には深い皺が刻まれる。
 見ると、屋敷の夫人が取り乱した様子でこちらへ駆けて来るところだった。

「いけません。その女と関わってはなりません」

 実弥は格子窓へと視線を戻す。少女からは夫人の姿が見えないようだったが、声はしっかりと聞こえているのだろう。微かに口元を震わせている。

「お前、なんかしたのかァ」

 少女は一瞬、力強く実弥を見上げた。その目には、抵抗するような色が滲んでいた。

「わ、私、は……」
「黙りなさい」

 夫人は実弥を押し退けるようにして、格子窓の前へと立った。

「お前みたいな忌まわしい子、生かしてもらっているだけありがたいと思いなさい」

 少女の顔からは、力がふっと抜けたように見えた。そのまま視線を下げ、俯く。

「参りましょう、風柱さま。お食事の支度ができておりますから」

 少女はもう、何の声も発することはなかった。



 実弥は布団の上で胡座をかき、畳の一点を見つめながら、先ほどのことを思い返していた。
 夫人に言葉を吐き捨てられたときに見せた少女のあの顔を、知っている。あれは、全てを諦めたときの顔だ。そうだと分かったから、何も言うことができなかった。 
 じきに夜が来る。日中でも薄暗いあの蔵の周りは、夜の闇に包まれたとき、どうなるのだろう。蔵の中に灯りはあるのだろうか。なぜあの少女は、あんな場所で。
 実弥は立ち上がり、素早く隊服に着替えると、屋敷を飛び出した。

 どうも気に掛かって仕方なかったのだ。
 急く気持ちを押さえつけるように早足で家の裏手へと回る。昼間は見張りが立っていたが、今は誰の姿もない。しかし林の小道を封じていた柵が、脇に寄せられていた。なぜ、と思いつつも実弥は開け放たれた道を進んでいく。

 実弥が蔵へとたどり着いたそのとき、中から提灯を待った若い男が出てきた。それは、この家の長男だった。
 分厚い扉が閉まっていくその隙間から、提灯のあかりで、蔵の中がぼんやりと照らし出された。そこに見えたのは、白く細い足が、だらりと伸びている様――。
 男は実弥の姿に気づくと、顔を強張らせる。驚きで声を失っている男に、実弥は低く唸るように言う。

「……テメェは、何をした?」






(2021.05.30)