数日後。蝶屋敷に立ち寄った実弥を、しのぶが診察室へと呼んだ。
 の怪我は治ったのでもう退院できる。自分としてはこのまま蝶屋敷にいてもらって構わないが、が実弥と居ることを望んでいる。
 しのぶは簡潔にそう告げると、実弥の反応を伺うように口をつぐむのだった。

「――はァ? 野郎一人の家に女を住まわせるって、そんなこと……お前が許せねェはずだろ」
「本来ならば、そうです。けれど……もう何年もずっと自由を奪われ、蔵に閉じ込められていたんです。そんな彼女に芽生えた意思を尊重したい。私はそう思っただけです」

 つらくはないですか。はそう訊いた。同情しているのだろうかと思ったが、今考えれば、実弥が「全然」と返したときの彼女の顔には、憐れみではなく、深い悲しみが滲んでいるように見えた。
 おそらく、自身の姿を重ね合わせていたのだろう。自分が一人でいることで、これからもの気を病ませてしまうなら――。
 実弥は舌を打ち、

「勝手にしろォ」

 そっぽを向きながらそう答えた。

「手を出さないと約束できますか」

 静かに問うたしのぶに、実弥は顔をしかめる。

「出すわけねェだろ。俺は女なんざ求めちゃいねえ。そんな暇あんなら一匹でも多く鬼を滅殺する」
「不死川さんの事情なんてどうだって構わないんです。それに、そういう意味ではありません」

 きっぱりと言われ、面食らったように目を丸くする実弥。それに構わず、しのぶは続ける。

さんは、身も心も深く傷つけられています。本人が明るく振る舞っているのはきっと、その傷を直視しないため。つらい記憶に、蓋をしているのだと思います」

 記憶に蓋を。その言葉に、実弥の眉はぴくりと動く。

「だから不死川さん、下手に開けようとしたら……不死川さん?」

 ――雨の、音。
 実弥は片耳に手を当て、窓の方へと目をやる。降り注ぐ陽光を浴びて、地面が白く光っている。そこに雨のかけらなど一つもない。
 実弥は拳で自らの頭をごん、と叩く。

「しねェよ」

 おもむろに立ち上がった実弥を、しのぶの目が追う。

「お前のそういうところ、姉貴にそっくりだなァ」

 両眉を上げた彼女に、実弥は淡く笑った。そうして踵を返すと、戸口へと向かう。

「支度ができたら鴉を飛ばせェ」

 引き手に触れた実弥を、「さんが」という声が立ち止まらせる。

「なぜだか懐かしい、と。そうおっしゃっていました。お二人は、昔からの知り合いなんですか?」

 呼吸が一瞬、止まった。
 しかしすぐに息を吐くと、実弥は振り返ることなく戸を開く。

「いいや。初めて会った」

 そうして廊下へ出ると、両手をポケットに突っ込んだまま、俯き気味に立ち去っていった。
 その背中を見送ったしのぶは、窓の外を見やり、ぼそりと呟く。

「嘘ではないようですね、どちらも」




さん、またいつでも来てくださいね、約束ですからね」

 目に涙を浮かべた少女三人が、の腰にしがみ付いている。蝶屋敷に到着したばかりの実弥がその様を少し離れたところから見ていると、

「あっ、不死川さん」

 実弥に気づいたが、頭をぺこりと下げた。その声で、彼女の腰にぴたりと付く三人の目が一斉に実弥を捉える。

「なんだよお前ら。人攫いを見るみてェな目しやがって」

 実弥が近寄ると、少女たちは息を呑んだ。しかし、きよが意を決したように口を開く。

さんは! 茶碗蒸しがお好きです!」
「……はァ?」
「けれど猫舌でいらっしゃるので、少し冷ましてからでないと食べられません!」
「き、きよちゃん……」

 がきよをなだめるように、その肩に手を置く。きよはを見上げ、

「きよはさんに、たくさんたくさん幸せになってほしいんです!」

とまっすぐに言うと、涙をぽろぽろと流した。は唇をきゅっと結び、腰をかがめてきよを抱き締める。
 それは、ごく自然で、とてもやさしい所作だった。まるで今まで、彼女自身も誰かにそうされてきたかのような――。

「まるで嫁入りですねぇ」

 びくりと肩を上げた実弥に、「油断してました?」としのぶが微笑む。

「お前、気配消して近寄んじゃ――」
「え? 柱ともあろう方が何をおっしゃるんですか」
「……何が嫁入りだァ」

 くすりと笑ったしのぶは、「さん」と声を掛ける。

「外は日差しが強いので、これを」

 そう言って、へ洋傘を差し出した。それは、白の布地に小花の刺繍とレースが施された日傘だった。

「私からのささやかな贈り物です。けれど、決して無理はしないように」

 は傘を受け取ると、「しのぶさん」と声を漏らす。

「ありがとうございます」

 深々と頭を下げたの肩は、小刻みに震えていた。そうして顔を上げたときにはもう、その目は涙に濡れていた。そんな彼女に「さぁん」と少女たちが抱きつく。

「あーもうこれじゃあ埒が明かねェ。おい、行くのか残んのかはっきりしろォ」
「行きますよ! 行くに決まってるじゃないですか!」
「お前にゃ聞いてねェんだよ!」
「わーんしのぶ様ぁ! 風柱様はやっぱり怖いですー!」

 きよを筆頭に泣き喚く少女たちと苛立ちを隠しきれない実弥を、しのぶは「ふふ」と口元に手を当てながら愉快そうに眺めている。

「行き、ます。行きたいです」

 その声に、みなが静まり返った。はその反応に戸惑ったようで、「あ、あの……」と傘の柄を両手で握り締め、俯き加減で声を振り絞る。

「やはり……ご迷惑でしょうか?」

 きよ、なほ、すみ、しのぶの視線が実弥に突き刺さる。実弥は首の後ろを擦ると、

「何を今さら」

 そう言ってずかずかとの側に寄ると、すぐ脇に置いてあった二つの風呂敷を持ち上げた。そのうちの一つには、結び目のすぐ下に赤い風車が挿し込まれている。

「ここへ来た時は風車一つだったってのに。いつの間にこんな荷物増えてんだァ」

 実弥はそのまま廊下を進む。が、不意に立ち止まって後ろを向く。と少女三人は呆気に取られた様子で佇み、しのぶは少し距離を置いたところでクスクスと笑っていた。

「おら、なに突っ立てんだ。行くぞォ」

 口早に言った実弥に、はハッと我に返ったようにして、「はい!」と声を上げた。



 はおそるおそる、一歩踏み出す。
 日差しが、つむじから身体の中へと突き抜けるようだった。しのぶから贈られた日傘を広げる。まるで、青空の下で白い花が咲いたようだった。
 降り注ぐ蝉時雨、頬をくすぐるあたたかな風、歩くごとに足の下で鳴る砂や小石。
 は振り返り、蝶屋敷に向かって頭を下げた。そして顔を上げると、大きく息を吸い、深く吐く。息をするたび生まれ変われるような、そんな気がした。
 そうして傘の柄をぎゅっと握ると、少し先を行く実弥のもとへと駆ける。

「不死川さん」
「なんだァ」
「いい、お天気ですね」
「……ああ、そうだな」

 入道雲が広がる夏空の下、白い傘はくるりと回ると、弾むようにして一本道を進んでゆく。






(2021.06.07)