――あんたが鬼を逃してなければ。

 実弥は身を跳ねるようにして起き上がった。障子の隙間から差し込む陽光に目を細めつつ、布団から抜け出る。

 寝覚の悪い夢を見た。実弥は顔を顰めながら、台所へ入る。そうして水がめから掬った水を、喉を鳴らして飲む。
 格子窓から外を見ると、そこではが洗濯物を干しているところだった。頼りなさげな背中が右に左に動き、いっぱいに伸ばした腕で、物干し竿へ衣類を引っ掛けている。
 実弥はその背を見ながら、ふと思い出す。蝶屋敷でしのぶが話していた。は実弥のことを「なぜだか懐かしい」と言っていた、と。
 それは、実弥も同じだった。けれど記憶の中のあの娘が、であるはずがない。あってほしくない。なぜだかそう念じてやまない自分がいた。

 動き回るの後ろ姿を目に映しながら、実弥は呟く。

「誰なんだ、お前は」

 そうして、先ほど見た夢を思い返す。あの娘の母親が、血を吐きながら恨めしそうな目で見上げてきて言ったのだ。あんたが、鬼を逃していなければ――。

「……何なんだよ」

 わからなかった。今もどこかで生きているはずのあの母親が、どうしてあんな姿で、そんな言葉を。
 けれど先ほどの夢を突き詰めて考えようとすると、頭蓋の内側がぐわんと揺れる気がした。
 実弥は流し台に腕を突き、もう一方の手で頭を抱える。そうしながら外へ目を向けると、腕を伸ばしていたの背中が、ふらついていた。


 の身体が地につく寸前のところで、実弥の腕がその背を抱き留めた。

「無理してんじゃねェ」

 まだ陽光に慣れていないのか、厳しい日差しに目を細めるは、力なく「すみません」と笑う。

「お前、なんだァその隈」

 は実弥の言葉で、「えっ」と目の下に手を当てる。

「寝れてねェのか」

 朝、座卓を挟んで話した時には気づかなかった。うっすらとではあるが、の目の下には隈ができているのだった。

「いえいえ、そんなことは……なんで、でしょうねえ」

 実弥は、自らの腕の中で誤魔化すようにして笑うをじっと見下ろす。そうして、「お前」と声を落とす。

「無理して笑うな」

 瞬間に、の顔から表情が消えた。空虚を見るかのような、霞みががかった瞳。
 実弥は、もぞりと動いたの身体を離す。そうしては、着物が汚れるのも厭わず、その場に正座する。実弥もしゃがみ込んだまま、その様子をただ見つめる。
 腿の上に手を置いて地面の一点を目に映しながら、は小さく口を開くのだった。

「……一人の夜が、おそろしくて。本当はずっと」

 なかなか寝付けないのです。そう続けたに、実弥は唇を噛む。
 だから、言ったじゃねェか。夜の間一人になるぞと忠告はした。それでも構わないと言ったのは、お前だろうが。
 実弥は湧き上がってくる言葉を胸の内で殺しながら、舌を打った。その音に、は顔を上げる。

「こんなこと言ったら、不死川さん、私をしのぶさんのお屋敷へ戻すでしょう?」

 その声は震えていた。
 そうしては力なく視線を下げ、再び地面を見つめるのだった。
 蝉の鳴く声だけが聞こえる。少しの間を置き、実弥が静かに訊く。

「なんでこの家にいることにこだわる」

 見上げたの瞳。そこに実弥は、かすかな光を見た気がした。

「ご恩返しが、したいのです」

 返ってきた言葉に、目が見開く。
 そんな実弥をまっすぐに見上げながら、は続ける。

「不死川さんは、私に手を差し伸べてくださいました。だから今度は私が、不死川さんの力になれたら、と。おそばにいることで、こんな私にでもできることが何か見つかるかもしれない、と、思って……」

 実弥の反応を見るのが怖いのか、は言い終えると俯いた。黙り込む実弥も、地面へと視線を下げる。
 実弥はてっきり、は自分の姿と重ね合わせているとばかり思っていた。だからこそ「恩返しがしたいからそばにいる」という、ただただまっすぐな思いに、どう返事をしたら良いのか分からなかったのだ。
 つむじが焼けるように熱い。実弥は空を見上げる。雲一つない夏空だ。
 おもむろに立ち上がると、物干し竿の傍らに置かれた籠から、まだ干されていない手拭いを取り出す。そうして、地面に座り込むの頭上でそれを広げた。

「え、えっ?」

 実弥の立つ位置からの表情は隠れて見えなかったが、突然落ちてきた影に、手拭いの下で慌てふためているのが声だけでも分かった。

「ぶっ倒れんぞ。こんな真っ昼間の日差し浴びっぱなしじゃよォ」

 実弥はパッと手を離す。すると濡れた手拭いが頭に覆い被さり、は「ひゃっ」と声を上げる。

「あっ、でもひんやりして気持ちいいです」

 手拭いを頬に当てながら、ふふっと笑う。そんなの隣にしゃがみ込み、その顔を覗き込みながら実弥は言う。

「この家にいることは、別にいい」
「……ありがとう、ございます」
「が、夜の間だけでも胡蝶の屋敷にいろォ」

 は眉根を寄せ、力強い眼差しを実弥に向けた。

「いや、です。そしたら朝、不死川さんをお出迎えできません」
「ンなこと――」
「お出迎えは、今の私にできることの一つなのです」

 そこでは、少し視線を下げる。

「それに私、好きなんです。おかえりなさいの言葉に……不死川さんが、おう、と返してくださる時の顔が」

 実弥はそんなから目を離す。突然何を言い出すんだと思いつつも、後ろ首を掻く。どんな顔をしているのかなんて、自分では分からなかった。

「けどよ――」
「だい、じょうぶです! 夜は明けますし、そのうち、慣れます」

 はあ、とため息を吐き、実弥は天を仰ぐ。
 
「結構曲げねえよなァ、お前って」

 顔を天に向けたまま横目で見やると、は首を傾げていた。頑固者だという自覚は一つもないらしい。

「家中の明かり、つけたままにしとけェ。あとなんか、金魚でも飼うか」

 実弥の言葉に、は手拭いで口元を押さえながら、声を漏らして笑った。

「……ありがとうございます。でも、大丈夫です」

 実弥が口にした「金魚」がよほどおもしろかったのか、なかなか笑い止まない。そんなの頭に、実弥はトンと拳を乗せる。

「バカにしてんじゃねぇぞォ」
「してないですよ。金魚、かわいらしいですよね」
「おいテメェ」

 はついに顔を覆い隠しながら笑う。唇を尖らせていた実弥だが、笑いで震えるの姿に、ふっと頬を緩めるのだった。
 ひとしきり笑い終えた後で、は「そういえば」と切り出す。

「先ほど、ときわ屋さんへ行ってみたのですが、なにやらすでに人が見つかったようで」
「そうかァ」
「でも、他のお店を紹介していただきまして。銀座にある餡パン屋さん、だとかで……。さっそく明日、伺ってみます」

 実弥は目を細める。
 銀座。実弥の生まれ故郷、京橋区にある街だ。

「……一人で行けんのか。結構あるぞ、銀座まで」
「そうなのですか?」
「明日のいつだァ」
「あ、えっと、お昼に」
「お前一人じゃァ一生たどり着けねェ」

 おもむろに立ち上がった実弥を、は目で追う。

「俺も行く」

 そう言ったときの実弥の表情に、は眉根を寄せた。口を開きかけたが、実弥の「早くこれ干して中入るぞォ」という言葉で、唇を結んだ。
 そうして立ち上がると、物干し竿の前で浴衣を広げる実弥の横に並び、

「ありがとうございます、不死川さん」

 「おう」と短く返した実弥に、やわらかく微笑むのだった。






(2021.06.20)