日傘を畳んで餡パン屋に入っていくを、実弥は少し離れた場所から見送った。
 往来の激しい通りを避けるように、細い路地へと入る。そうして建物に背を預けると、天を仰ぎ、ふうっと息をつくのだった。
 知っている店だった。当時は餡パンなど買う金もなかったが、この辺りを通ったとき、弟や妹たちが物欲しそうに眺めていたのを覚えている。
 どうにかして買ってやれてたらよかった。いつもこうだ。あの頃を思い返すと、後悔ばかりが押し寄せる。
 ――やっぱり来るべきじゃなかった。

 物音で視線を下げると、三毛猫が物陰からこちらをじっと伺っていた。

「どうしたァ。なんも持ってねえぞォ」

 しばらく見合ったのち、猫はふいと視線を逸らした。そうして実弥の足元を通り過ぎ、表通りへと消えていった。
 実弥も通りの方へ顔を向ける。夏の日差しが建物の窓に反射して眩しい。目を細めながら往来を見ていると、過ぎゆく人波の中で一人佇み、辺りをきょろきょろと見ているの姿があった。
 探されている。どこかむず痒い気持ちになりながらも、実弥は大通りへと一歩踏み出すのだった。


「不死川さん」

 ふらりと現れた実弥の姿に、は安堵したように微笑んだ。
 
「お待たせしました」
「やけに早かったなァ。どうだった」
「とてもいいお店でした。けれど、やはり銀座は遠いですね。家のことをする時間も、ろくに取れなくなりそうなので、なので……」
「で?」
「やめて、おきます。連れて来ていただいたのに、すみません。……でも、あの! 近場で何か仕事がないか、探してみます!」

 実弥はまっすぐに見上げてくるから顔を背けようとしたが、その手にある風呂敷包みに目を留めた。視線に気づいたが「あっ、これは」と口元を緩める。

「餡パンをいただいたのです。こしあん、つぶあん、どちらがお好きですか?」
「……別に」
「でも不死川さんは、あんこがお好きですよね?」
「――はァ?」
「えっ、違いました? 台所に麻袋いっぱいの小豆があったので、てっきり」

 実弥は後ろ頭に手を当て、うつむき加減で息を吐く。その様子に、は「あの」とまごついている。

「どっちでも」
「え?」
「つぶでも、こしでも。どっちも食える」

 実弥はちらりと上目での反応を伺う。彼女は唇を結び、目を細めて笑んでいた。
 では、とは風呂敷の結び目に手をかける。

「桜の塩漬けが乗った餡パンをどうぞ! こしあんだそうですが、絶品だと」
「おいおい。今食うのかよ?」

 はハッとした様子で実弥を見上げ、

「い、いけませんね。こんな往来で立ち食いなんて」

と、ほどきかけた結び目を慌てて直す。

「家に帰ったら、お茶と一緒にゆっくりいただきましょう」

 行ってみよう。あの橋に。
 にこにこと微笑むを見ながら、そう思った。
 ――違っていたなら、それでいい。



 京橋川に架かる橋まで来ると、は「ここ……」と呟いた。
 欄干に手をかけ、橋の向こうに広がる景色に目を見開く。そんなの反応を確かめるように、実弥はただ黙ってその横顔を見つめる。

「この景色、見たことがあります」

 橋の下の川では、荷舟が行き交っている。
 たくさんの大根が舟に積まれたその様は、まるで白い花が一面に咲いているように見えた。

 ――さねちゃんの髪も、白い綿毛みたい。

 そんな声が、聞こえる。

「京橋。俺はここの生まれだ」

 静かに言う実弥を見やり、そうなんですね、と頷いたは囁くように尋ねる。

「あそこに、青物屋さんはありますか?」

 が指す河岸には、問屋が軒を連ねている。

「……あァ」

 は小さく息を漏らした。しかし不意にこめかみを押さえ、痛みに堪えるように瞼を閉じる。

「大丈夫か」
「あ、はい……昔のことを思い出そうとすると、いつもこうで。頭が痛くなって……」

 は辺りを見渡し、そうしてまた橋の向こうを見た。

「私、小さい頃の記憶があいまいで。でもすごく、思うんです。私は……ここで過ごしたことがあるのかもしれない、と」

 そんなの言葉に、実弥は拳を握った。

 ――やっぱり、お前だったのか。





 水運の便に恵まれた京橋には、野菜や竹を積んだ舟が引っ切りなしに行き交う。そんな忙しない街だったから、十一の子どもでも雇ってくれる店はたくさんあった。
 夕陽が沈みかけたころ、荷揚げの仕事を終えた実弥はふらつきながら歩いていた。昨夜から何も食べておらず、空腹で倒れそうだった。
 橋を渡る途中で目眩がしてうずくまっていると、不意に「大丈夫?」と声を掛けられた。ハッと顔を上げると、そこでは小さな少女が目を丸々とさせて実弥を見ていた。
 少女は手にみたらし団子を持っている。実弥の顔をまじまじと覗き込むので、着物に団子が付いてしまっていることに気づかない。

「どうしたのー? 具合が悪いの?」
「団子が……」
「ん?」
「着物に」

 あっと声を上げ、慌てふためく少女。団子をぶんぶん振るので、みたらしのタレが実弥の頬にも飛ぶ。

「あ! タレついちゃってるよぉ!」
「いや、いい。大丈夫だから」

 実弥の腹が鳴る。ひどく大きな音だった。
 気恥ずかしい思いで唇を噛んでいる実弥に、少女は、にこーっと笑う。
 そうして実弥に団子を持たせると、

「食べて!」
「でもこれは……」

 少女は実弥の言葉を遮るように手を伸ばし、実弥の頬についたタレを指で絡め取ると、ぺろりと舐めた。「私はこれで」と屈託ない笑みを浮かべた少女に、呆然とする実弥。
 しかしハッと我に返ると、自分の水筒を少女の口に突っ込み、

「口ゆすげ! 汚いだろ!」

 少女は首を横に振りながらむせる。それでも実弥はその口に水を含ませようと必死だった。

「汚くないよぉ」
「汚ねぇんだ! 俺風呂にも全然……おい! 飲むな! 吐け!」

 水を飲み込んだ少女に声を荒げていると、実弥の腹が再び、ぐぅと鳴った。
 恥ずかしさと情けなさに赤面していると、少女は問答無用で実弥の口に団子を突っ込んできたのだった。目を見開いた実弥だったが、口の中に広がる甘じょっぱい砂糖醤油のタレに、もう我慢ができなくなった。
 そうして串を掴み、団子を食む。もっちりとした感触を噛み締めるようにしていると、少女はにこにこと笑みながら首を傾げた。

「おいしい?」
「……うまい」
「でしょー」

 見るからに健やかで、幸福そうなその姿。

「私はっていうの。あなたは?」

 実弥は、ころころと表情を変えるその少女から、目を離せなかった。
 
「……実弥」
「さねみ。さねちゃん」
「は?」
「さねちゃんは何してたの?」

 唐突に付けられた呼称に戸惑いつつ、実弥は「別に」と口ごもる。

「私はね、お迎えに行くの」

 欄干に近づき、河岸の方を指しながら、は声を弾ませる。

「私のお母さんね、あのへんでお仕事してるの。だからいつもこうやって、お迎えに行ってるんだよ」

 実弥もの隣に並び、岸を見やる。

「白いお花が咲いたみたいだなって、いつも思うんだぁ」

 荷揚げされていく大根を眺めながらそう言ったのち、は実弥の方へと顔を向けた。

「さねちゃんの髪も、白い綿毛みたい」

 そうして小さな手が伸び、実弥の頭に触れた。

「ほわほわー」

 がしがしと遠慮なく撫でられても、実弥は拒まなかった。それはが、とても楽しそうに笑っていたからだ。

ー!」

 その声に、はぴたりと手を止めた。そうして目を輝かせると、

「お母さん!」

 橋の向こうから、女性が大きく手を振りながらこちらへ駆けてくる。も走り出し、母娘は抱き合った。
 実弥はそれを少し離れた場所から見ていた。がこちらを指して母親に何かを話している様子だったが、実弥は頭を少し下げると、踵を返して橋を渡っていくのだった。


 また朝が来た。酒に酔い、金はねぇのかと家中を物色する父親を止めようとすると、力一杯に殴られた。母がなけなしの金を渡すと、父親は出て行った。傷の手当てをしながら、ごめんね、と母は言った。涙こそ見せなかったが、その声は泣いているようだった。
 そうだ、母ちゃんは泣かない。つらいはずなのに。きっと、弱さを見せないようにしているんだ。もっと何かできることはないのだろうか。母や兄弟たちに。どうしたら、どうすれば。

 殴られた頬の痛みに耐えながら、仕事へ向かうために橋を渡っていると、目眩がした。
 欄干にもたれるようにしていると、不意に「あ!」という声が飛んできた。見ると、橋の袂に、こちらへ手を振る女性がいた。の母親だった。

「おーいジャリガキ、こっちにおいで」

 それは、あたたかい声だった。
 手招きをするの母から咄嗟に視線を逸らすと、

「おい! 無視するなー!」

 口の悪い女だと思った。それでも屈託のない笑顔を浮かべているので、なぜだか吸い寄せられるように足が動いた。
 実弥が近くまで来ると、の母は「来た来た」と笑みを含みながら言う。

「こないだはありがとね。かわいいだろ、うちの娘」
「……口わっる」
「えっ、が?」
「違う。あんたが」
「あたしかい? 男だらけの河岸で働いてるからかなあ」

 ははは、と笑ったのち、実弥の頬に目を留めたの母は、腰をかがめる。

「どうしたんだい。ぼろぼろじゃないか」
「……別に」

 そっぽを向いた実弥の頬に、何かが触れた。実弥が視線をやると、の母が殴られて痣になっていた頬を包むように、手のひらを当てていたのだった。
 母のやわらかな手とはまた違う感触だった。少しかたく、ごわごわとした手。けれどそこに宿る熱は、母と同じだった。

「あんたも戦ってんだね」

 実弥は目を丸くしたのち、ぎゅっと唇を噛み締めた。涙が出そうになったのだ。
 大人は誰も手を貸してくれないと思っていた。けれど同じ目線に立って、手を添えてくれる人がここにいた。そのことが信じられないような、でも安心したような、そんな感情が混じり合って溢れ出しそうになったのだ。
 ぐっと拳を握り締めていると、腹からこみ上げるものを感じた。まずい、と思って力を込めるも、止めることはもうできなかった。ぐぅ、と鳴ってしまった腹を抱き抱える実弥に、の母は笑った。

「これ食べな」

 差し出されたのは、青菜のおにぎりだった。実弥はそれを受け取ると、夢中で口に入れた。米が喉を通っていくと、ついに、堪えきれなかった涙が溢れ出した。

「うまい……弟や妹たちに、母ちゃんにも食わせて……腹一杯、食わせてやりたい……」

 泣きながら食べる実弥を、の母はしゃがみ込んだまま、正面からじっと見つめていた。

「家族思いの兄ちゃんだね」

 そうして実弥の頭に手を乗せ、

「折れるなよ、ジャリガキ。今はどんなに打ち負かされたって。歯を喰いしばって立ち上がり続けた奴が、いつかきっと勝つんだよ」

 実弥はの母を見る。そこにあるのは、まっすぐで、力強い目だった。

「うん。うん、俺、折れない。母ちゃんがいつもそうしてくれるように、俺も母ちゃんを、みんなを守るんだ」

 がしがしと撫でられると、実弥の頭も前後に揺れた。の母は頭を撫で続けながら、目を細めて笑んでいた。

「あんたの母ちゃんは幸せもんだねえ」


 それからの母とは、頻繁に会うようになった。仕事場が近いこともあって、仕事前や合間に橋で落ち合っては、いろいろな話をした。食べ物も分けてくれた。
 ある日、の母は唐突に自身の過去の話をした。女中として奉公していた先の主人との間にできたのが、だった。主人の妻に妊娠が知られて追い出され、京橋区の大根河岸近くの青物屋で働きながら女一人で育てている。
 あの子は宝物。とても、とてもかわいい。最後にはそう言って、

「あんたもそう思うだろ?」

と笑った。


 笑って、いたのに――。



「不死川さん? 大丈夫ですか? 人混みに酔いましたか?」

 拳を握り締めたまま俯き、微動だにしない実弥。はそんな実弥の顔を覗き込みながら、眉を下げる。

「お前の、母親――」
「え?」

 実弥は力なく首を振った。
 は実弥の手首をそっと掴み、

「不死川さん、おうちに帰りましょう。お茶を淹れて、餡パンを食べて、ゆっくりしましょう」

 そう言うと、実弥の腕を引きながら橋を渡り始める。
 の背中を見ながら、実弥は唇を結ぶ。
 ――いつも幸せそうに寄り添っていた。それなのに、なんでこいつは一人でいる? あの母親は今、どこに行ったんだ。訊くのが、怖い。
 突然、頭痛がした。刺すような痛みだ。まるで記憶の蓋が開いてしまうことを拒んでいるかのような。






(2021.07.04)