あれからは仕事を見つけ、一日おきに働きに出るようになった。
勤め先は乾物屋で、実弥がよく行く菓子屋の隣にあった。は物覚えも良く働き者、加えて忙しくとも穏やかな笑みを絶やさないので、店主である老夫婦や常連客にもかわいがられた。
朝は実弥を出迎えると、程なくして家を出る。そうして陽が落ちる前には家に帰り、出立する実弥を送り出す。そんな日々が続いていた。
は、実弥の様子が以前と少し変わったように感じていた。避けられているわけではない。いつも店の余り物を両手いっぱいに持たされて「ただいま戻りました」と帰って来るを、実弥は呆れ笑いを滲ませながら「おう」と出迎える。
けれど、ふと視線を感じて見やると、ぱっと顔を背けられる。こちらから話しかけると、一瞬、身構えるように表情を強張らせる。
何かしてしまっただろうか、とは気を揉んでいた。
――思えば、不死川さんの様子が変わったのは京橋へ行った日からだ。
「ここで過ごしたことがあるのかもしれない」と言ったのが、何かまずかったのだろうか。京橋で見た景色は、確かに懐かしかった。けれど、思い出せない。あの日以前、自分がどこでどう暮らしていたか、思い出すことができない。
あの、雨の日に起きたこと。遠いあの日。母との――。それ以前の記憶を手繰ろうとすると、決まって頭がひどく痛むのだった。
雲が厚い夜だった。は自分の悲鳴で飛び起きた。
目を開けてすぐは、誰が叫んだのだろうかと辺りを見渡したが、蚊帳の周りにはもちろん誰もいない。屋敷の中も静まりかえり、一人きりであることを感じ取ると、ああ今のは自分の声だったのだ、と口元を覆う。
夢に、あの屋敷の長男が出てきたのだ。蔵に閉じ込められるようになった日に、言われたこと。
『仕方ないんだから。あんな体になった親父はもう、母さんの虐めから守ってくれないよ。代わりに僕が守ってあげる。だから君は今日からこの蔵で暮らすんだ。僕だけが会いに来てあげるから。ずっとずっと僕が、かわいそうな君をかわいがってあげるからね』
は自らの体を抱え込むようにして身を小さくし、耳を塞いだ。
闇が恐ろしい。長く暮らした蔵での日々が思い返され、あの男の声が蘇り、肌が粟立つ。ここにいることが知られて、連れ戻されるかもしれない。そんな思いが駆け巡り、一人きりになると外の物音にも敏感になってしまう。
けれどここへ来て日が経つにつれ、きっともう大丈夫だと思えるようになっていた。広い屋敷で一人眠る夜にも、だいぶ慣れてきた。それでもやはり、闇が深くなる厚い雲の夜には、こうして悪夢を見ることが多かったのだ。
「やだ、いやだ……」
あの男に触れられた肌には、目に見えない何かが蠢いているようだった。胸元を掻きむしると、ぴりっと痛みが走る。指先には血が付いていた。それでも構わず、触れられてしまったところに爪を立てていると、喉の奥が詰まってゆくのを感じた。苦しい、苦しい。
ふと、鏡台の上に置いていた風車に目を留めた。蚊帳から這い出て、風車を掴む。そうして、ふうっと息を吹きかける。くるくると回り始めた風車に、の呼吸も整っていくのだった。
――不死川さんは、分かってくれてた。
この風車がどれほど大切で、支えとなっているのかを。庭先でアジを焼いていたとき、不意に上がった不死川さんの大きな声に、あの屋敷で夫人に罵られた日々を思い出してしまった。過去の記憶に震えるばかりで何もできなくなったところに、風車を持って来てくれたのだ。
――優しい人。いつも、手を差し伸べてくれる人。
「はやく、帰ってきて……不死川さん……」
風車を片手に、膝を抱えたまま頭を垂れた。その腕を、ざらりと生ぬるい感触が襲う。「ひっ」と短い悲鳴とともに顔を上げると、
「……え?」
そこには、白い犬が座っていた。舌を出して、を真正面から見つめている。困惑し、「犬? えっ?」と繰り返すに、犬はワンッと吠えた。どこかから迷い込み、中庭からそのままの部屋へと上がってきた様子だった。
風車を嗅ぎ始めたので、「あっ、これはだめ」と腕を高く上げると、犬は遊んでもらっていると思ったのか、尻尾をぶんぶんと振った。のし掛かってくる犬にたじろぎ、後ろに倒れ込んだの顔を、その舌が容赦なく舐め回す。
「わ、わわわっ」
瞼も鼻も唇も、顔中をひとしきり舐め終わると、犬はまた短く吠えた。呆気にとられていただったが、それまで肌に蠢いていた感触が、全て拭い去られたように思えた。唾液まみれになってしまった頬を拭ながら、どこからともなく現れたその犬に、観念したように笑いかけるのだった。
「あっ! だめ!」
格子戸を開けた瞬間、実弥の視界には白い物体が飛び込んで来た。それは腰元にぶつかり、実弥は後ろによろけるも、戸を支えになんとか持ち堪えた。どういう訳か、白い犬が尻尾を振りながらこちらを見上げているのだった。
「おかえりなさい、不死川さん」
「……なんだァこの犬は」
「なにやら迷い込んで来られまして……ほらほら、こっちへおいで」
それでも犬は実弥の足元から離れようとしない。物欲しげな目で見つめている。
実弥はその犬に見覚えがあった。近所の神社によくいる野良犬だ。通りかかった際に握り飯をやったことがある。以来、実弥の匂いを察知してなのか、神社の辺りを通るといつも姿を見せるのだった。
「お前、こんなとこまで追って来やがったのかァ?」
「飼い主さんをご存じなんですか?」
「いや。こいつは野良だ」
実弥は家の中へと入る。それに続いて犬も入ろうとしたが、
「また握り飯持ってってやるから」
と、格子戸を閉めようとした。
「野良……」
しかし、の呟く声と悲しげな犬の目に、実弥の手はぴたりと止まる。
「ずいぶん痩せているなあとは思ったんです。食べるものに、困っているのでしょうか。帰る家もなくて、雨風が強い日は、どうしているのでしょう……」
実弥はその言葉にぐぐっと拳を握る。そうして小さく舌を打つと、唸るような声で、
「ったく……今日だけだからなァ」
と、格子戸を勢いよく開く。犬は嬉しそうに吠え、のもとへと駆け寄った。も腕を広げて迎え入れ、その頭や胴を撫で回すのだった。
今日は仕事が休みだというが、庭先で犬を洗っている。その様子を、実弥は縁側から遠巻きに見ていた。
犬が身を大きく振るったので、の顔や体に水が掛かる。「わあ!」と声を上げて笑うに、犬も尻尾を振りながら、その頬を舐める。
「ちょっ、わ、だめ! やだ、くすぐ、ったい……!」
その勢いに押され、は尻餅をつく。
「もう」とくすくす笑いながら身を起こすと、縁側の実弥に気づき、照れくさそうに唇を結んだ。
実弥が出立するのに合わせて、犬も元いた場所へ戻してくる。そういう話になっていたので、陽が傾くごとにの表情には影が落ちるのだった。赤く染まっていく空を見上げながら「夜が来なければいいのに」と呟いたの言葉を、実弥は聞き漏らさなかった。
夏の陽は長い。それでもやはり、今日も夜は来た。実弥が草履に足を通している傍らで、は今生の別れかのように犬を抱き締めていた。
「食べ物に困ったらいつでもおいでね。暑さに参ったときも、雨風が強い日も。いい、ですよね?」
こちらを見上げ、懇願するような目で「ね」と言うに、実弥は深く細い息を吐く。
「飼うかァ」
「――えっ?」
実弥は膝を折り、犬の顎下を撫でる。途端に犬は、心地よさそうに目を細めた。
「どのみち、こいつは毎日来るだろうからなァ。この家には甘やかしてくれる人間がいるって知っちまったからよォ。その代わり、厳しく躾けるから覚悟しとけェ」
そう言って隣を見やると、そこではが震える唇をきゅっと結んで、眉を垂らしていた。
「おい。嬉しいのか何なのか分かんねぇ顔すんなァ」
「嬉しいです、とても!」
は犬の胴に抱きつき、
「おうちができてよかったぁ」
ぶんぶんと振られる尻尾に頬を打たれながら、「よかった」と繰り返すのだった。
翌朝、実弥が家へ帰ると、いつも出迎えるの姿がなかった。何かあったのか、と早足での部屋へと向かう。「開けるぞ」と断ってから障子を開くと、蚊帳の中にはと、ぴったりと寄り添って眠る犬の姿があった。
その寝姿に、実弥の力はふっと抜ける。蚊帳のそばで腰を下ろし、すうすうと微かに寝息を立てるの顔を少しの間眺める。
「……」
犬の耳がぴくりと動いたと思えば、その丸い瞳はぱっちりと開き、実弥の姿に尻尾を振りはじめた。
まずい、と立ち上がって部屋を出ようとすると、犬が吠えた。ばかやろう、と心の内で舌を打ったが、もう遅かった。がもぞもぞと動き、ゆっくりと身を起こす。
「不死川さん?」
目を擦り、ぼうっとこちらを見る。次第にその瞼はしっかりと開いていき、
「ああっ、え、もう朝ですか? わ、私、寝坊を――」
「いい。まだ寝てろォ」
慌てふためきながら髪を撫でつけ、襟元を直す。傍らで舌を出しながら尻尾を振る犬の存在に気づくと、ふっと頬を緩める。
「朝まで一度も目が覚めなかったんです。こんなの、本当に久しぶりで。この子が……一緒に寝てくれたからかな」
実弥はその言葉に、わずかに目を見開く。
一人の夜が恐ろしい。はそう話していた。大丈夫と言い張っていたが、やはり眠れぬ夜は続いていたのか。目の下の隈は、おそらく心配されまいと、化粧でごまかしていたのだろう。
「……無理すんなって言ってんだろうがァ」
実弥の言葉に、は首を傾げた。しかしすぐにその意味するところを察したようで、
「もう大丈夫です。この子がいれば、夜もへっちゃらです」
と、へらりと笑った。
実弥はその笑みに吸い寄せられるように、再び蚊帳のそばまで来ると、腰を下ろして胡坐をかく。手を差し出すと、犬は蚊帳の内側から手を重ね合わせようと体を傾ける。
「招き猫みてぇだな」
「はい。かわいいです」
が蚊帳を少し上げると、犬はそれをくぐり抜け、実弥の手に顔をすり寄せる。
「この子、白くてきれいな毛並みですよね。なんだか不死川さんの髪色と似てます」
言いながら、も蚊帳をくぐって外へ出る。
「そうだ。名前、どうしましょう」
「犬でいいんじゃねぇかァ?」
信じられない、というふうに首を横に振ったは、顎に手を当てて犬をまじまじと見つめる。
「毛の色と不死川さんの下のお名前を掛け合わせて……しろみ?」
今度は実弥が、嘘だろ、という目でを見る。
「そんなん、卵じゃねえかよ」
「しろみくん」
実弥の言葉に構わず、は手を叩きながら「しろみくーん」と再度声を掛ける。すると犬は短く吠え、尻尾を勢いよく振った。はぱあっと目を輝かせ、
「不死川さん! 気に入ったみたいです!」
その無邪気な顔に、実弥もふっと笑う。そうして犬を撫でながら、
「ひでぇ名前付けられたもんだなァおい」
と、穏やかに言った。
実弥がふと視線を感じて目をやると、がこちらをじっと見つめていた。
「良かった。いつもの不死川さんです」
安堵したように言ったに、実弥は「何のことだよ」と語尾を上げる。しかしは「なんにも」と首を振り、
「朝ごはんにしましょう。しろみくんもね」
と、朗らかな笑みを見せるのだった。
(2021.07.17)
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