家へ帰ると、そこはしんと静まり返っていて、何の気配もしなかった。の名前を呼んでも返事はない。探し回っていると、庭で犬が死んでいるのを見つけた。刀で斬られたのか、白い胴からは鮮血がどくどくと溢れている。
 いない。が、いない。あの屋敷の長男に連れ去られてしまった。早く連れ戻さなければ。また酷い仕打ちを受ける前に。奪われてしまう前に。早く、を――。

「――……!」

 飛び起きた実弥は、周囲に目を走らせる。自室の蚊帳の中だった。全身ぐっしょりと汗をかいており、浴衣が背に張り付いている。
 蚊帳から出ると、迷うことなく台所へと向かう。格子窓の外から聞こえてくる笑い声。実弥は、勝手口から外へと急くように出る。
 そうして、庭先で犬と遊ぶの姿に目を留めた。は、実弥の姿に気づくと口角を上げる。

「おはようございます、不死川さん」

 に続いて、犬がワン、と吠える。実弥はその光景に、胸を撫でおろすように息を吐いた。
 ぱたぱたと駆け寄ってきたは、

「すごい汗です」

と、汗ばむ実弥の姿に目を丸くする。
 
「お風呂に入った方が……あっ、お湯がもう冷めてると思うので焚いてきます。少しお待ち――」

 行こうとしたの手首を、実弥が掴んだ。

「いい。井戸で水浴びりゃ十分だ」

 は呆気に取られた様子で実弥を見上げたのち、ぎゅっと掴まれたままの手首へと視線を落とす。
 少しの間、まるで刻が止まったかのように静止する二人。そうして蝉がひときわ大きく鳴き始めたとき、実弥は我に返ったように、慌てて手を離した。

「悪ィ。痛かったか?」
「い、いえ……平気、です」

 互いに目を合わせなかったが、の頬はみるみるうちに紅潮し、実弥も耳を赤く染めていく。そんな二人の間に座り、ハッハッと舌を出して様子をうかがっている犬。
 実弥はそんな犬へと目をやり、早口で言った。

「水やるからお前も来い」

 言い終わる前から歩き始めた実弥の後を、犬は尻尾をぶんぶんと振りながらついて行くのだった。
 はその場に佇み、しばらく自分の手首を見つめていた。そうして、指先でなぞるように肌へと触れ、そこに残るぬくもりが消えてしまわないように、手の平でそっと包む。

「……あったかい」

 そう、ぽつりと呟いた。


 よほど喉が乾いていたのか、柄杓を差し出すと、犬は鼻先が溺れるのではないかと思うほどの勢いで水を飲みはじめた。そんな様子に、ふっと淡く笑んだ実弥。
 少し離れた勝手口の方へと視線を送る。そこではが、手首を押さえて佇んでいた。
 その姿から目を離し、夢中で水を飲んでいる犬の頭を撫でる。

「おい、しろみ」

 犬は顔を上げ、首をくいっと傾げる。

「お前は下手におっ死ぬんじゃねえぞォ。必ず生きてあいつの傍にいろ。分かったなァ?」

 すると犬は実弥にのし掛かり、その口元や鼻先を舐める。油断していた実弥は束の間なされるがままだったが、すぐに「やめろ」と声を上げ、犬を引き離そうとする。が、何かを言わんとしているのか、犬は舐めるのをやめない。
 風に乗って届いた控えめな笑い声に目を向けると、相変わらず勝手口の前に立つが、こちらを見ながら笑っていた。
 チッと舌を打った実弥だが、その頬はかすかに緩んでいた。




 買い物に出たが帰ってこない。
 今日は非番だと話すと、「じゃあ一緒に夕飯を食べられるんですね」と笑っていた。「早く帰ってきます」と。
 実弥は縁側に立ち、沈みゆく太陽を睨むようにしながらの帰りを待った。乾物屋で働くようになり知り合いが増えたは、街で会ったなになにさんとつい話し込んでしまって、と帰りが遅くなることがあった。
 今日もきっとそうだろう。実弥はそう思おうとしたが、あの夢がどうしても頭にこびり付いて離れない。がいなくなる、夢。

「……何やってんだ」

 白い筋が走った。雨だ。遠くの方で雷鳴が轟く。庭先にいた犬が跳ねるように走ってきて、縁側へ登る。
 雨はまずい。なぜだかそう思った。

「留守番してろォ」

 犬にそう告げると、実弥は着流し姿のまま下駄に足を入れ、傘を手に外へ飛び出した。



 遅くなってしまった。せっかく夕飯を共にできる日なのに。
 は食材が入った風呂敷を抱えながら小走りで駆けていた。乾物屋の常連客と出くわし、誘われるがままに茶屋で団子をご馳走になった。長年連れ添った夫を最近亡くしたというその常連客は、話し相手がいなくて寂しいのよ、と悲しげに笑った。そう言われると話を切り上げることなどできず、結局こんな時間になってしまったのだった。
 は走る足を止めた。傍らには、神社へと続く階段。それを見上げながら、この先の神社で野良犬として生きていたしろみを思った。そうして、先ほどの常連客の姿を思い返す。
 ――ずっと一緒に生きてきた人を亡くして、一人きりになってしまうというのは、どんな気持ちなんだろう。誰かと生きたから、愛されたから、孤独は深くなる。

 手の甲にぽつりと落ちてきた水滴。夜の色が滲みはじめた空を見上げると、ひとつ、ふたつと数えるうちに、無数の雨粒が降り注いできた。にわか雨だ。
 一瞬で強まった雨脚に、は階段を駆け上がる。そうして人気のない神社の軒下へと逃げ込んだ。

「ああ、どうしよう」

 早く帰りたい日に限って、なかなかうまくいかない。
 降り止む気配のない雨に唇を噛む。空はすっかり夜に染まり、木々に覆われる境内にも闇が落ちる。
 は風呂敷を抱きしめ、その場にうずくまる。体が震える。
 にわか雨が降る夜は、あの晩のことを思い出してしまうのだ。屋敷の蔵に閉じ込められていたあの日々よりも、もっとずっと昔の記憶。

「……おかあ、さん――」

 昔のことなんて記憶がおぼろげなのに。それでもあの晩のことは、あの晩起きたことだけは唯一、鮮明に覚えている。



 跳ね上がる泥で裾が汚れるのにも構わず、実弥は町中を探し回った。
 ――、どこだ。
 雨が降る夜は、頭がひどく痛む。記憶の蓋がぐらぐらと音を立てて、溢れ出ようとする何かを押さえ込もうとしているのを感じる。
 実弥は神社へと続く階段の下で、ぴたりと足を止めた。そうして、ずらりと並ぶ灯籠を見上げると、何かを察知したように階段を駆け上っていくのだった。




 膝を抱えて体を震わせるは、ゆっくりと顔を上げる。

「不死川さん」

 その声はかすれていた。実弥はの横で膝を折り、

「大丈夫か。なんかあったのか」

と、眉間に皺を寄せる。はふるふると首を横に振った。

「ただ――昔のことを、思い出してしまって……」

 実弥は震えるその背に腕を回そうとしたが、ためらうように手を引っ込める。

「あの日も、にわか雨が降っていて……」
「……あの日?」

 は実弥を見上げる。その瞳はかすかに揺れていた。

「お母さんが、死んだ日」

 雨脚がさら強まる。ざあざあという音だけが境内に響く。
 の言葉がゆっくりと頭蓋の内にこだましていくと、実弥の瞳孔は開いた。

「――死ん、だ……?」



 七つの頃でした。
 あれは縁日の帰り道。買ってもらった風車を片手に母と歩いていたら、にわか雨が降ってきて。雨宿りをしようと軒下を求めて走っていると、突然現れた鬼に襲われました。
 母は私を庇って、背中をざっくりと切られてしまって。鬼が私へ向けて手を振り上げたとき、刃物を両手いっぱいに携えた少年が鬼を捕らえて、引きずって行きました。
 母は血を流しながらも、私の手を引いて、あの屋敷へ向かいました。母がかつて奉公していた材木商の屋敷。私の父が住む、屋敷。
 ようやくたどり着いたときには、母は蒼白な顔をしていて、息も絶え絶えな状態でした。
 藤の家紋が掲げられた重厚な門。それが微かに開き、中から顔を出した年配の女性に、母は「奥様」と言いました。あの屋敷の夫人です。

「私はもう死にます。この子を、どうか、お願いします」

 すがるような声でした。母は地面に膝をつき、額を泥水に押し当てて、「どうか」と頭を下げ続けました。
 閉まりかけた門に手を伸ばした母に、「汚い」と、夫人は吐き捨てました。「女狐には似合いの最期ですね」と言う夫人は、冷たく笑っていました。母の打ちのめされた横顔を覚えています。
 門が閉まる重たい音。雨が打ちつける中、血が地面に染みていく。
 そんな中で、母は私を抱き締めました。どこにそんな力が残っていたのか、とても強く、強く。

「生きて。、生きて」

 涙を流し続ける私の頬を拭って、本当にやさしく、あたたかく笑いました。そうして母は、息絶えてしまった。



「これが私の……母との最初で最後の記憶です」

 あの日以前のことを思い出そうとすると頭が痛むんです。そう言って、は諦めに似た笑みを浮かべた。
 雨はすっかり弱まっていた。実弥は立ち上がる。そうして傘を広げると、

「帰るぞ」

とだけ言った。顔を背け、目を合わせようとしない。

「……はい」

 も立ち上がり、実弥の傘の下へと遠慮がちに入る。そうして二人は無言のまま、神社を後にするのだった。






(2021.08.08)