「不死川くん」という言葉に、は手を止めた。
 体調を確認したいので検診に来てください、というしのぶからの便りを受け蝶屋敷を訪れていた。診察を終え、アオイ特製の茶碗蒸しに舌鼓を打ったのち、きよたちの仕事を手伝っていた。
 廊下の窓拭きを任され、夏の日差しを浴びる庭木に目を細めながら、右へ左へ大きく手を振ってガラス窓を磨き上げる。ふうっと一息ついたそのとき、「不死川くん」というしのぶの声が聴こえてきたのだった。
 廊下の角から覗くと、早足で歩く男性の姿があった。診察室から顔を出し、その背中に「次の検診もちゃんと来てくださいね」と声を掛けるしのぶ。男性は振り向くことなく、そのまま廊下の角を曲がって行った。
 気配に気づいたしのぶがこちらへ顔を向け、「さん」とわずかに目を丸くする。

「まだいらしたんですね」
「あ、はい。きよちゃんたちのお手伝いをして行こうかと……」
「それはありがとうございます。でも早く帰らないと、不死川さんが心配しますよ」

 そこでは視線を下げ、誤魔化すように笑った。
 実弥は近頃、家を空けることが多かった。担当警備地区が増えて忙しくなったと言い、任地近くにある藤の屋敷に泊まることも珍しくなかった。昼過ぎに帰宅して仮眠を取り、食事もそこそこに、またすぐ家を出る。顔を突き合わせて会話することも、ほとんどない。そんな日々が続いていたのだった。
 が顔を上げると、しのぶは変わらず診察室から半身を出したまま、柔和な表情でこちらを見つめていた。

「あの、しのぶさん。さっきの方は……?」

 の問いに、しのぶはひと呼吸置いた。そうして、ゆっくりと口を開く。

「不死川さんの、弟さんです」
「……弟?」

 弟。兄弟が、いたんだ――。
 は咄嗟に、庭先でアジを焼いた日のことを思い起こした。淡く穏やかな笑みを浮かべながら、彼が口にした名前。

「もしかして、玄弥さんですか?」

 しのぶは彼女特有の少し困ったような笑みで、かすかに頷くのだった。




「玄弥さん」

 ようやく追いついたその背に声を掛ければ、ぎろりと鋭い眼差しが返ってきたので、は肩を竦めてしまう。
 
「誰だお前」
「あの私、不死川さんのお屋敷でその、女中として働いている者でして……」

 正確には女中ではない。けれど自分と実弥との関係性を表す言葉が見つからず、咄嗟に口を突いて出たのが「女中」だった。

「兄貴の?」

 面食らったように眉間をぴくりと動かした玄弥は、わずかに間を置いたのち、「そうか」と言った。
 ――不死川さんにとって、大事なひと。
 は、背の高い玄弥を見上げながら唇を結んだ。
 実弥が「玄弥」と口にしたとき、とても優しげな顔をしていたのをは知っている。けれど自ら弟の話をしたことはなかった。家族の話も。「兄貴」と言った玄弥の表情には、どこか陰りも見える。きっと誰にも立ち入ることなどできない何かが、兄弟の間にあるのだろう。
 ああ、不用意に話しかけるものではなかったのかもしれない。は視線を下げた。
 沈黙が流れる中、遠くの方からきよたちの笑い声が聴こえてくる。外からは蝉の鳴き声も。はふと、玄弥の手に目を留めた。当初は固く握りしめられていた拳の力が緩んだ気がして、意を決したように玄弥を見上げる。のその勢いに、玄弥は少したじろぐように背を後ろへ逸らした。

「あ、あの! よろしければ、その……」
「なんだよ」
「不死川さんに! 似た毛色なんです!」
「――は?」
「やんちゃで食欲旺盛で、ちょっとまだ躾が行き届いていませんが、とても、とてもかわいいので……不死川さんも、かわいがっていらっしゃるので……!」
「おい待て待て。なんの話だ?」

 その言葉で、前のめり気味だったはハッと我に返ったように静止した。恥ずかしさに耳を染めながら、「すみません」と頭を下げる。

「……犬がいるんです。だからその、見に来ませんか?」

 目を見開いた玄弥だったが、震える唇を懸命に噛みしめながら見上げてくるの姿に、ゆっくりと伏し目がちになっていく。

「聞いたことねぇよ。主人に断りもなしで人を招く女中なんて」
「えっ、あ……」
「クビになっちまうぞ」

 出過ぎた真似をしてしまった。立ち入るべきではないと分かっているはずなのに、見て見ぬ振りをすることができないのは、なぜだろう。
 どうしたっての瞼に浮かぶのは、あの日あのとき、弟の名を口にして笑む実弥の姿だった。
 
「名前は?」

 頭を垂れていたは、不意にそう尋ねられ、勢いよく顔を上げる。

「あっ、です」
「……いや、犬の」

 途端に、は言葉にならない声を上げる。そんな姿に、玄弥は力が抜けたように頬を緩めたが、恥ずかしさに顔を覆い隠しているは気づかない。

「しろみです……」
「しろみ? そんなん、卵じゃねぇか」

 顔から手を離したは、目を丸くして玄弥を見上げる。そうして突然、まるで安堵したかのように息を漏らして笑った。

「なんだ?」
「不死川さんと同じこと言ってるなあって」

 笑い止むと、「すみません」と目尻にうっすら滲んでしまった涙を拭う。
 そんなを見おろし、玄弥はどこか遠慮がちに訊いた。

「兄貴、元気か?」
「はい。……と言いたいところなのですが、近頃は特にお忙しそうでして。どことなく元気もなさそうで」
「そうか」
「どうしたらいいでしょう?」

 まっすぐに見上げてくるに「俺に訊かれても……」と視線を泳がせる玄弥だったが、はたと目の動きを止め、呟いた。

「おはぎ」
「え?」
「……兄貴の好物なんだ。昔みんなで暮らしてた頃に、母ちゃんがよく作ってくれて」

 ああ、とは息を漏らした。

「作り方教えてやるよ。母ちゃんのおはぎは日本一うまかったんだ」

 そう言って穏やかに笑む玄弥の横顔が、実弥と重なって見えたから。




 任務が忙しいからとを避けるようになって、もう何日が過ぎただろう。
 あの母親は死んでいた。その事実を知ったとき、視界が大きく揺れた。頭痛がした。自分の中で何かが起きようとしている。本能的に察したのだ。向き合う覚悟がまだできていないと。だから、距離を置いた――。

 夏の終わりを惜しむように、蝉がじりじりと鳴く。
 入道雲を見上げ、大きく息を吐いてから家の門をくぐると、あの香りが実弥の鼻腔をくすぐった。途端に実弥は玄関口まで駆け、草履を脱ぎ捨てて台所へ向かう。

「あ、お、おかえりなさい」

 振り返ったは久々に見た実弥の姿に驚きつつも、ふわりと笑んだ。

「この匂い……」
「はい。おはぎです」

 重箱にきちんと詰まれたおはぎ。それを実弥の方へと差し出すの顔には、所々にあんこが付いていた。

「あんこまみれじゃねェか。そんな飛び散るもんでもねぇだろォ」

 堪らずといった様子で、実弥は息を漏らすように笑った。慌てて顔を拭いたは、気恥ずかしそうに唇を結んだ。

「……よろしければ、召し上がってみてください」

 が濡れた手拭いを渡すと、実弥はそれを受け取り、手を拭う。そうしておはぎを一つ摘み上げ、ひと口頬張る。途端に瞬きを忘れたようにして、

「この味――なんでお前が?」

 あんこはとびきり甘い方がおいしいから。母はそう言って、砂糖をうんと入れて小豆を煮た。子どもたちが喉を詰まらせたらいけないと、餅米と米を混ぜて歯切れを良くしていた。
 母の想いが詰まったあの味が、今ここにある。

「その、教えていただきました。……玄弥さんに」

 どこか不安げな色をにじませた目で見上げる。実弥は視線を逸らし、

「……会ったのか」
「はい、先日蝶屋敷で……たまたま」

 あいつも知ってたのか、作り方。
 実弥は残りを口に入れ、ゆっくりと食み、そして飲み込む。身を乗り出してその反応を伺っているに言葉を掛けようと口を開いたときだった。
 
 ――人殺し!

 玄弥の声が耳に響く。それとは別に、物言いたげなあの人のあの目が、頭蓋の奥底から蘇ってくる。
 ――そうだ。記憶に蓋をしていたんだ。
 本当は知っていた。憶えていた。忘れたことにしようとしていた。あのとき、夜道で襲われたのがとその母親だということを。あの夜、自分がしたことを――。
 不意にふらついた実弥は、戸棚に体をぶつけてしまう。は「不死川さん」とその背中を支えたが、実弥の体に触れた途端、眉根に皺を刻む。

「すごく熱いです。はやく着替えて、布団に……」
「いい」

 実弥はの手から離れ、勝手口から庭へと出る。その気配に気づいた犬がすかさず駆け寄って来て、ふらふらと歩く実弥に飛びついた。

「しろみ、だめ!」

 その力を受け止めることができず、押し倒されるような形で地面に背中をついた実弥。は空気を割くように声を上げると、犬の胴体を持ち、実弥の体から引き離す。
 出会ってから今まで、これほどまでに弱った実弥の姿は見たことがなかった。は眉を震わせ、「大丈夫ですか」とか細い声で問う。
 実弥の口がわずかに開くが、声は聞こえてこない。は地面に膝をつき、実弥に顔を寄せる。

「――から……」

 かすかに漏れ聞こえた声に首を傾げる。心配そうに眉を下げて、俯く実弥を覗き込んだ。しかし実弥が振り絞った言葉に、その顔から色を消す。

「俺があの鬼を捕り逃したから、お前の母親は死んだ」




 ――鬼になった母を手にかけてから、毎夜の如く鬼を探しては捕らえ、朝陽を浴びせて灼き殺す日々だった。
 あの夜も、町外れで捕らえた鬼を林に連れて行って、木に巻き付けていた。気づかなかった。鎖が脆くなっていたことに。鬼が大きく身を揺らすと、鎖が外れてしまった。弱気な鬼だった。人を食うことよりも我が身を守ることを優先させるような鬼だった。
 一目散に逃げ出した鬼を追っていたとき、突然雷鳴が轟き、雨が降りはじめた。そのせいで、血の匂いに酔わせて誘き寄せることもできない。視界が遮られる。足元がぬかるみ走りづらい。
 目の前に母娘の姿が見えた。娘に向けて、邪魔だと言わんばかりに鬼が腕を振る。母親が覆い被さり、その背中が切り裂かれる。血飛沫が上がった。鬼が再び手を振り上げたとき、間一髪でその腕を切り落とすことができた。
 そこでやっと気づいた。口から血を吐きながらこちらを見上げているのが、の母親であるということに。そんな母の姿に立ち尽くしているのが、であるということに。
 鋭い爪で背中を深く切りつけられたの母を見て、きっと死ぬ、そう思った。その目が何かを訴えかけていたが、懸命に何かを口にしようとしていたが、顔を背けた。
 死ぬ。死んでしまう。死を目の当たりにしてしまう。また、奪われる。大切にしたいものは全て、鬼によって奪われる。
 そうして鬼を引きずり、二人を残してその場を去った――。



 そこまで話すと、実弥は瞼を閉じる。の顔を見ることができなかった。
 ――救えなかった。守れなかった。目を逸らした。耳を塞いだ。何かを言おうとしていたのに。人殺し。またそう言われるんじゃないか、と。お前が鬼を逃してなければと、責められるんじゃないかと。
 あの場に留まれば救えたのか? いや違う。鬼を引き離さなければ、みな死んでいた。何が最善だったかなんて、分からない。でも一つ確かに言えるのは、

「お前が一人になっちまったのは、俺のせいなんだよ」

 それがたとえ鬼殺隊に入る前の出来事であったとしても、赦されていいはずがない。






(2021.08.22)