「……不死川さん」

 警官に連れて行かれる男を見送り、は実弥の横顔を恐る恐るうかがう。拘束を解かれてもなお、腕や体は痛んだ。
 空は白みはじめていた。小鳥や蝉の鳴く声が、林の方から響いてくる。ここはこんなにも命にあふれた場所だったのかと、は空を仰ぐ。

「これでもう、囚われるもんはねえな」
「……え?」
「お前は自由だ。好きに生きろォ」

 そう告げて、一人歩いてゆく実弥。

「――って……待って、ください……!」

 それでも実弥は立ち止まらない。は駆け出し、その背を追う。

「行く場所がねェなら、胡蝶の屋敷で世話になれ」

 しかし足がもつれ、転んでしまった。実弥は足を止めて振り返ると、地面に倒れるを見下ろす。

「帰りたいです。不死川さんがいる家に」

 は実弥を見上げ、涙をこぼしながらも力強くそう言うのだった。

「あなたは何も悪くない」

 その言葉に、実弥は目を見開く。

「家族を突然奪われたのは、私だけじゃない」

 ひとりになんて、なりたくなかった。自分がひとりになってしまうなんて、あの頃は思ってもみなかった。でもそれはきっと――

「不死川さんだって、そうでしょう? ひとりになんて、なりたくなかったはずです」

 実弥は唇を結び、ただを見下ろしていた。

「あの夜……私とお母さんを助けてくださって、ありがとうございました」

 その一言に、実弥は眉間に深く皺を刻み、堰を切ったかのように声を上げた。
 
「ふざけたこと言ってんじゃねェ! 何が助けただ? 全然……全然、守れてなんかねえだろォ!」

 ――あの時、ああしていればという後悔がいくつもある。鬼殺隊に入ってからも、手からこぼれ落ちていった命がいくつもある。俺は守れてなんていない。
 本当に人を守ることができるのがどういう手なのか、知っている。母の手がそうだった。ぬくもりに溢れ、その手に包まれれば、幸福な日々はきっと揺るがないと信じられた。の母も、そういう手をしていた。
 最期まで、娘を守って。救いを求めた先で、娘がどんな悲惨な目に遭うかまでは考えていなかったのだろう。信じて、いたのだろう。かつて愛した男を。

「全部ひとりで……背負い込もうと、しないでください」

 地面に膝をついたままのが伸ばした手が、実弥の腕に触れた。広がったぬくもりに、鼻がひくりと鳴りそうになる。
 ――ああこいつも、そういう手をしてる。
 実弥はすぐ、その手を払いのけた。

「慰めなんて求めてねェ。憎しみだけで生きてきたんだ、ここまで。お前だって俺を憎んでいいんだ」
「憎みません。不死川さんを憎む必要なんて、全くないから」
「でも俺は――俺が憎い」

 実弥は自分の手のひらを見下ろし、ぽつりと吐いた。

「俺は人間らしい生き方なんて、もう諦めてんだよ」

 ――鬼になった母を手にかけてから、この身を生かしているのは鬼への憎しみだけ。非力な自分への、憎しみだけ。そうやって生きてきたんだ。

「私もそうです。諦めようと思った」

 声を震わせるの瞳は、次第に輪郭がおぼろげになってゆく。

「でも、不死川さんが手を差し伸べてくれた。あなたと会えて、まだこの人生に見切りをつけるのは早いと思えたんです」

 ついにの目から、涙が一つ、また一つとこぼれ落ちた。

「不死川さんにもまだ、諦めてほしくないです」

 実弥は眉根を寄せ、何かを堪えるように唇を噛んだ。そうして、二人は束の間見合った。
 しかし駆け寄って来たしろみがの頬を舐め回しはじめると、視線は逸らされてしまう。

「ちょ、ちょっと待って、まだ不死川さんと話を……」
「おいこら落ち着けェ」

 胴を持ち上げられたしろみは、すかさず間近にある実弥の顔も舐めはじめる。まるで、久しぶりに主人が二人揃ったことを全身で喜んでいるかのようだった。
 その様子を目に映しながら、は呟くように言った。

「……私、これからも不死川さんとしろみと一緒に、暮らしたいです」

 犬を制していた実弥の動きがぴたりと止まる。

「おそばに、置いてくださいませんか?」

 言った後で、は次第に視線を下げていく。犬を地面に下ろすと、実弥は息を漏らすように言った。

「守ってやれねェかもしれない。俺はいつもそうだ」

 はその言葉に顔を上げ、首を横に振る。

「守ってほしいなんて思わないです。不死川さんの手に身を委ねてしまおうなんて、思っていないです」

 実弥を強く見上げるその目には、もう涙は浮かんでいなかった。

「私は、私の責任のもとに生きていきます。だから私がどうなろうと不死川さんが罪を感じる必要はないんです。そんな勝手なこと、しないでください。……ただ、望むことは一つだけ」

 はそこで言葉を切り、目を閉じた。
 ――あの日々を、思う。
 夏の陽を浴びながら、庭先でアジを焼いた。洗濯をした。犬と戯れた。決して思い出は多くない。けれどそのどれもが、眩しい輝きを放っていた。きっとこの先どう生きていこうとも、消えることはない。そう思えた。

「私は不死川さんの隣で、歩いていきたいです」

 は実弥をまっすぐに見上げた。

「……俺が誰だか承知して言ってんのか」
「はい」
「険しい道になるぞ。お前の細っこい足じゃァ立ってられねェかもしれない」
「では鍛えます。不死川さんのような立派なふくらはぎに、きっとなります」

 実弥は呆れたように息を吐くと、膝を折ってと目線の高さを合わせる。そして、

「俺を目指すのはやめとけェ」

と、の額を小突いた。するとが「ひゃっ」と間の抜けた声を漏らすので、実弥は口元を緩ませた。
 は実弥が微笑んだのを見ると、安堵したように、目を細めて笑った。

「大丈夫です。心配無用です。だって私は今、こうしてここにいます。不死川さんがそばに居れば、何度だって立ち上がれます」

 そう言って笑うの顔に、実弥の耳には懐かしい声が蘇る。

 ――今はどんなに打ち負かされたって。歯を喰いしばって立ち上がり続けたやつが、いつかきっと勝つんだよ。

「……帰るぞ」

 そう言って差し出された手に、は眉を垂らし、唇を噛み締めて実弥を見上げた。

「はい」

 たくさんの命が、この手によって救われてきた。
 実弥の手をぎゅっと掴んで立ち上がったは、ふと、「蔵の裏に」という父の言葉を思い出す。そうして振り返ってみると、崩れ落ちた蔵の向こうに、小さな墓石があるのが見えた。
 の視線をたどるように、実弥もそちらへと目を向ける。

「あの、すみません」
「なんだァ? 行きたいなら行けェ」
「……不死川さんも、一緒に来ていただけませんか?」

 ため息を吐きつつも先を行く実弥。その袖を掴んだまま、は墓石へと近づく。
 そうして側まで来ると、は息を漏らした。荒れ果てているが、それは確かに、母の名が刻まれた墓だった。
 ――父は弔ってくれたのだ。この屋敷の片隅で、きっと病で伏せるまで、妻や息子、家の誰にも知られないよう弔い続けてくれていた。

 手を合わせるの隣で、実弥は墓から目を逸らし、俯いていた。そんな実弥に気づき、は静かに口を開く。

「……前にもお話しした通り、私には、母の記憶があまりありません。けど、思うんです。母は、不死川さんを責めたりしないと」

 実弥は、なおも唇をかたく結んでいた。は言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。
 
「あの時、母が不死川さんに何かを言わんとしていたなら、それは恨み言なんかではなく、きっと他のことです。私に生きてと言ったように、何かを望む言葉だったはずです」

 風が吹いた。崩れ落ちた蔵の塵が舞い、は顔を覆い、実弥は目を細めた。

 ――ねえ、ジャリガキ。

 風に乗って声が聴こえた。そんな気がして、実弥はあたりを見渡す。誰もいない。ふと視線を下げると、こちらを見上げるがいた。まっすぐな目だった。どんなに絶望を重ねても消えない光が、そこには宿っているように思えた。

「やっぱお前は、あの母親の娘、なんだな」

 実弥はの隣にしゃがみ込み、墓石に向かって手を合わせる。
 その横顔に、は静かに言った。

「母の話、もっと聞かせてほしいです。私、分からなくて。母が私を本当に愛していたのかも……」
「なに馬鹿なこと言ってやがんだァ。そんなの決まってんだろ。お前は――」

 その時。じじじ、という音とともに、実弥の頭に蝉が落ちてきた。「あァ?」と声を漏らす実弥に、は咄嗟に「動かないでください」と言う。
 そうして手を伸ばし、実弥の白い髪に着地した蝉をやさしく摘み上げる。その途端、蝉は息を吹き返したように羽を動かし、飛び去っていくのだった。
 実弥はその様子を目で追ったが、はじっと実弥の頭を見つめていた。そしてゆっくり、その頭に手を下ろし、遠慮がちに撫でる。実弥は拒まなかった。
 白い綿毛のような、やわらかな髪。

「――さね、ちゃん」

 こみ上げるように言った。
 押し寄せてくるのは、母の記憶。笑った顔、怒った顔、悲しげな顔。たくさんの言葉とぬくもりを、惜しげもなく与えてくれた。
 孤独が縁取られるように際立っていくことを恐れて、これまでずっと蓋をしていた、あの日々の記憶。私は確かに、愛されていた。

「お母さん、お母さん……」

 愛された記憶があるから、だから、孤独があんなにもつらかったんだ――。
 は声を漏らしながら泣いた。肩を震わせ一人涙を流すを、実弥は抱き寄せた。
 抱き締め方を知っているのは、誰かに抱き締められたことがあるから。実弥はその昔、の母に優しく抱き締められた。母に、抱き締めてもらった。

「もう奪わせねェ。もう、大丈夫だ」

 全身から溶け込んでくるぬくもりに、ああ、とは思った。
 誰かに愛されたことがあるから、孤独がつらいことを、知っている。知っているから、孤独を抱えて立ち止まる人に、手を差し伸べることができる。
 この人は、そんな人だ――。

「好きです。不死川さん。とても、とても」

 泣きじゃくりながら「好き」と繰り返すは、実弥の背に腕を回し、その胸に顔を押しつけた。
 実弥はそんなの頭を撫でながら、諦めに似た笑みを浮かべて言うのだった。

「お前は曲げねェ女だからなァ」

 








 真夏とはいえ、陽も傾くと涼を含んだ風がうなじを撫でるように吹く。縁日で遊び疲れた幼い男児は、父の背で健やかな寝息を立てていた。
 そこへ、ひときわ強い風が吹く。すると父の腰に差されていた風車が勢いよく回りはじめ、その羽は男児の短い足をはたはたと叩く。子は「んん」と小さく身を揺らしたかと思えば、次の瞬間には、ぱっちりと目を覚ました。

「とうちゃん」
「おう、起きたかァ」
「もうおうち着く?」
「ああ。ほら、もう見えてるだろ」
「おれ、走りたい!」

 父の背から下りた息子は、田舎道を駆ける。ぐるりと囲む山々の向こうには、赤い夕陽が沈んでいく。
 息子は不意に立ち止まると、振り返って声を上げた。

「とうちゃん! ぐるぐるちょうだい!」
「ちょうだいじゃねェだろォ。自分で取りに来い」

 走る時に首を横に振る癖がある。そうやって力の限り駆けて来た息子に、仕方ねぇなというふうな笑みをこぼすと、父は腰に差していた風車を手渡す。その右手の指は、二本欠損している。息子はそんな父の手を握り、

「ありがと」

 小さな歯を見せて笑うと、再び家の方へと駆けていった。
 漂ってくる、だしと醤油の香り。目を閉じると瞼に浮かぶ、夕方の裏長屋、母や兄弟たちの姿。

「かあちゃん見てー! ぐるぐる!」

 息子の声に、瞼を押し上げる。家の前で出迎えた腹の丸い女性は、風車を見せる子どもの頭を撫で、

「本当だ。いい風が吹いてるね」
 
と、笑んだ。
 また風が吹いた。今度はやさしく、あたたかな風だった。

 ――ねえ、ジャリガキ。

 声が、聴こえる。

 ――頼んだよ、この子のこと。あたしの、宝物なんだ。

 風に乗って聴こえた声。あたりを見渡すが、誰もいない。
 ふと視線を前に戻すと、そこには、こちらに微笑みかけると、紅葉のような小さな手を振る息子がいた。

「おかえりなさい、実弥さん」

 誰しもが、誰かの形見だ。だから繋いでいく。いつかの、誰かのために。

「ただいま」

 奪わせない、もう。






 - 完 -




(2021.09.08)