不死川さんの隣で歩いていきたい。その言葉通り、が実弥のそばを離れることはなかった。それは鬼がいなくなった世でも変わらなかった。
 変化があったことといえば一つ。二人が夫婦になったことだけだ。痣の寿命を知ったところで、の気持ちが揺らぐことは一切なかった。それどころか、ならば尚更そばにいたい、と言い放った。私は私の責任のもとに生きていくから妙な気は遣わないでください、と。

 ――不死川さんはどうしたいんですか? 痣の寿命というものが果たして本当にあるとして、それまであなたはどう生きたいんですか。

「実弥さん?」

 嘘偽りなど通じないようなあの眼差しを思い返していると、ぼんやりとした声が実弥の背をつついた。は布団の中でもぞもぞと身を動かしながら、胡坐をかく実弥を上目で見上げている。

「起こしちまったか」
「勝手に目が覚めたんです。それより、何を思い出してたんですか?」

 ん、と首をかすかに傾げる実弥に、

「笑ってましたよね、実弥さん。にまにまーって」

 こんなふうに、と頬をだらしなく緩めて見せるに、実弥は「別に」とはぐらかす。

「なんですか? あっ、もしかして……やらしいことだったりして」

 ぎゅっと布団を掻き抱いたに、実弥は「違ェ」と呆れたように笑う。

「とんでもねェ女と一緒になっちまったと思ってなァ」

 ごろりと横になった実弥は、「なんですかそれ」とむくれるの頬を指で突く。沈み込んでいく肌に、先ほどまで触れていた彼女の胸の感触を思い起こし、とっさに手を離した。

「実弥さん、顔が赤い。今度は何を思い出したんです?」

 布団の中から腕を抜き出し、実弥の頬へと手をあてがう。その腕は座敷ランプに照らされて、橙色に輝いていた。
 今夜、初めて肌を重ねた。ささやかな祝言を挙げて、前の屋敷よりも小さな家へと越した。すべてが落ち着き、新しい家の匂いにも慣れたころに、がぽつりとこぼしたのだ。実弥さんは私を抱かないのですか、と。私の過去のことで何か気を遣っているのではないか。そう声を落として、膝の上で不安げに手を揉み合わせるに、実弥は息を漏らした。夫婦になった後もしばらく手を出さなかったのは、確かにの過去のこともある。肌に触れることで、蔵の中で受けた忌まわしい仕打ちを呼び覚ましてしまうのではないか。けれどそれだけではない。ただ単に、自信がなかったのだ。経験がないがゆえに、彼女を傷つけてしまうことにならないだろうかと。
 ――だって、抑えが効かなくなったらどうする。あんな細っこい体、すぐに壊れちまうだろ。
 そうやって様々なことを考えてがんじがらめになっていた。そんな実弥の体に手を伸ばしたのは、だった。私は大丈夫です。抱いてください。まっすぐに言った彼女に、実弥は観念したように笑うのだった。

「体、平気かァ」
「はい。でもちょっと、腰が……」

 気恥ずかしそうに笑った。そんな彼女の言葉を受けて、実弥は布団の中に手を差し込む。そうしてその腰を撫でれば、は驚きとくすぐったさに声を漏らした。事が終わってから、まだ互いに肌着も身につけていない状態だった。の体にはまだ湿っぽい熱が残っている。それを味わうように手のひらで撫で続けていると、

「なんだか甘いものが食べたいですね」

 と、はぽつりと言った。


 桜の塩漬けが乗ったあの餡パンが食べたい。そんなの願いを受け、翌朝には二人して身支度を整え、家を出た。その際に庭から駆け出してきた飼い犬、しろみに飛びつかれ、実弥は「おい」と声を荒げた。洗い立ての着物が台無しじゃねェか、とこぼすも、しろみはお構いなしに尻尾を振って二人の周りを駆けまわる。「一緒に行きたいんだね」と微笑みかけたは、しろみもおいで、とその首輪にささっと紐を通した。連れ立って歩いて行く妻と犬の後ろ背を、実弥は待て待てと小走りで追いかけるのだった。
 銀座の餡パン屋で、はとても二人では食べきれないほどのパンを買った。街の至るところから漂う食べ物の匂いにキョロキョロと首を回すしろみを片手で引きながら、「そんなに食いきれねぇだろォ」と実弥が言えば、

「竈門くんたちにあげるんですよ。そろそろ炭を持って来てくれるころなので」

 と、目を細めた。
 蝶屋敷で静養しているときに親交を深めたのか、実弥が目を覚ましたときには、と竈門炭治郎の妹との関係がすでに出来上がっていた。にはどこか人懐っこさがある。そこから炭治郎、その連れの我妻善逸、嘴平伊之助らと打ち解けるのも時間はかからなかったようだった。彼らは祝言にも来た。気恥ずかしさのあまり不機嫌そうに眉間に皺を寄せている実弥に、竈門兄妹は「不死川さん! 笑って笑って!」と一つの悪意もない笑顔を向けていたし、その横で善逸は「こんな淑やかな人があんな狂犬みたいな男の奥さんになるなんて俺は信じない」とぶつぶつと文句を垂れ流し、伊之助は無我夢中で飯を頬張っていた。そんな四人の姿にが楽しげに笑っているのを見て、実弥もフッと表情をゆるめたのだった。

「あ、あとは冨岡さんと、宇髄さんご一家にも」

 足りますかね、と少し不安げに買った餡パンを見おろすに「冨岡にはいらねェだろ」と返せば、彼女は首をふるふると振った。

「甘いものもお好きみたいですよ。祝言のとき、おはぎを五つも食べていらっしゃったので」

 はあ、そうかよ。実弥が息を漏らすように言えば、はくすくすと笑った。いつもそうだ。仲が良いですよねと言われれば、良くねぇよと返す。口ではそんなことを言いつつも、実弥と義勇が互いを信頼していて、気に掛け合っているということを、は感じ取っていたのだ。


 京橋川に架かる橋へと差し掛かったとき、はふと思い出したように言った。

「宇髄さんのおうち、今度お子さんが生まれるみたいですよ」
「……へェ」
「なんだか私までそわそわしちゃって。お手伝いに行こうかなあ」
「必要ねぇだろ。あっちには嫁が三人もいんだから、一人が身重でも他の二人でどうにかできるんじゃねぇかァ?」
「それが、お三方ともご懐妊なんですって」

 ぎょっと目を見開く実弥のその反応が予想通りだったのか、は笑い声を漏らした。しかし不意に立ち止まると、橋の向こうを見やる。そんなに合わせて、実弥としろみも足を止めた。

「きれい」

 川岸に植る何本もの桜木は、風に揺れるたびに花びらを舞わせている。荷舟が行き交う川の水面には、舞い落ちた桜が花筏を作っていた。

「こうやって……命は繋がれていくんですね」

 そのとき、つよい風が吹いた。桜木から放たれた花びらが、まろやかな青空を背にちらちらと煌めく。実弥としろみの頭に花が乗っているのを見て、は笑った。

「白い毛に桜色がよく映えますね」
「笑ってねえで取れェ」

 はい、と背伸びしたに、実弥は少し膝を折って高さを合わせた。再び風が吹く。目の前を横切っていく花びらを食べようとしているのか、しろみが宙を噛んでいる。がきんっという歯を閉じ合わせる音に気を取られていた実弥だが、の頭にも花びらが乗っていることに気づくと、「お前も人のこと笑えねェぞ」とその髪に手を伸ばした。ひと摘みした花びらは柔くひんやりとしていた。擦り合わせてみると、指のすべり方がの肌へ触れたときのそれと似ている気がして、昨夜の事に意識が向いてしまう。

「あ、また何か思い出してますね?」

 ハッと我に返った実弥は、その拍子に花びらを指から離してしまった。花はひらひらと身を翻しながら、の帯留めに落ちる。いざなわれるように指を伸ばした実弥は、花びらではなく帯留めに触れ、そのままの腹へと手のひらを当てた。

「いつか、ここに――」

 そこで言葉を切った実弥は、ぎゅっと唇を噛む。離れようとした実弥の手を再び腹へと押さえるようにして、はやわらかな手のひらを重ねた。

「たくさん愛します」

 ゆらぎのない声だった。
 実弥は手の甲にやさしい熱を感じながら、京橋川と、今立つこの橋に目をやる。懐かしい声が耳に蘇るようだった。実弥、にいちゃん、ジャリガキ。

「ああ。そうだなァ」

 昇っていった命が、遺してくれたもの。それをいつか、俺も――。



 緊張した面持ちで縁側に座る実弥としろみは、明けていく空をただ見上げていた。はいつか言った。東雲の空を見ると実弥さんの瞳を思い出します、と。夜に朝が混じりはじめたその一瞬に見せる、紫がかった色。それが瞳の色と少し似ているらしい。俺の目はそんな立派なもんじゃねぇよ、と返せば、私にはそう見えます、と譲らなかった。
 頑固な女だ、本当に。そんなことを思い返しながら、ふっと笑いが漏れる。それにつられたのか、しろみも舌を出して実弥を見上げた。

「ったく、お前はよォ。嫁さん貰ったら少しは間抜けなその面もシャキッとするかと思ったが、全然変わらねぇなァ」

 桜の木に新緑が芽吹く頃、しろみには妻ができた。しろみ同様に、ふらりと不死川家へ迷い込んできた犬だった。はじめは二匹も飼えないと言っていた実弥だが、迷い犬に入れ込むしろみと、その様子を愛でるの姿に根負けするかたちで家へと迎え入れたのだった。

「不死川さん!」
「しろみ!」

 二つの声が同時に上がった。実弥は廊下の右側へ、しろみは左側へとそれぞれ顔を向ける。障子の間から顔を出した禰豆子は「不死川さん」ともう一度呼びかけ、しろみの視線の先では伊之助が「しろみ! こっち来い!」と声を張った。
 生まれる。
 その言葉に、実弥としろみは立ち上がった。そして互いに振り返って目を合わせる。

「気張れよ、父ちゃん」

 ワンッと威勢よく返ってきた鳴き声が「お前もな」と言っているように聴こえ、実弥は片方の口角を上げた。
 廊下の向こうから、東雲の空を割かんばかりの産声が聞こえた。実弥は大きく息を吸い、深く吐いた。そうして、一歩また一歩と進んでいく。あの障子の向こうで待つ、まだ見ぬ形見に出逢うために。




(夢本『いつかの形見』収録作)

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