第一話 視える


 もう何度も、こんな目は潰してしまおうと思った。でもそのたびに、まだ見たいものがあると気づいて思い止まることができた。春の花、夏の雲、秋の紅葉、冬の雪。あと一回、最後に一回と思ううちに月日が経ち、もうじき十七の歳を迎えようとしている。

 物心ついた頃から、死んだ人の姿が視えていた。幼少期はまだ、生きているか死んでいるか、その境が分からなかった。宙に向かって話す私を、母は気味悪がった。
 初めてできた友達も、この世の人ではなかった。川のほとりで出会って、石投げをして遊んだ。女の子は私が投げるのを見て楽しむだけで、自分は石を掴もうとはしなかった。掴まなかったのではなく掴めなかったのだと気づいたのは、もっと後のことだった。
 朝から晩まで河原で遊ぶ日が続くうちに、女の子が川の中へ入ろうと誘った。導かれるままに進み、腰のあたりまで水に浸かったとき、襟をぐっと引かれた。父だった。女の子は消えていた。

 私はその日から、家の中で過ごすことが増えた。正確に言うと、外へ出るのを禁じられていた。
 それでも話はどこかから漏れるもので、私のことを聞きつけた人々が、死んだ家族や恋人と話をさせてほしいと言って、一人、また一人とやって来た。はじめは門前払いをしていた両親も、そのうちこれは金になると思ったのか、私のいる奥座敷へと人を通すようになった。
 故人の話をしていると、彼らは吸い寄せられるようにして姿を現した。私を介して対話をすると、相談に来た人々は涙を流して喜び、亡くなった人々も穏やかな顔をして消えていった。視えることが人の役に立つと知ったとき、私の心にほのかに光が宿った。

 けれどその光も長くは続かなかった。
 家は目に見えて裕福になっていき、あんなに私から距離を置いていた母も、今では猫撫で声で機嫌をうかがってくるようになった。私のために女中も雇われた。外には出られるようになったけれど、いつも女中がそばに付いていて、私が逃げ出さないよう見張れと両親に言われているんだろうなと察した。
 家に来る人々の大半が、故人への後悔と自責の念を抱えている。そんな思いを真正面から受け止め続けるほど、胸に鉛が積み重なっていく。そのうち私は、喜怒哀楽というものを忘れてしまった。

 成仏した人は現れない。それでも何とかして会わせてほしいと泣き縋られ、挙げ句の果てにはインチキだと罵られた。故人の言葉をありのままに伝えて激昂され、殴られたこともあった。普通の感覚でいられるわけがない。そんな日々だった。
 いつだって私は、生者と死者の間に立っている。立たされている。もうじき十七。学校へも通えなかった。読み書きすら満足にできない。ずっとこうして、生きていくんだろうか。

 桜舞う中、女学生たちが談笑しながら歩く姿を横目に、もうやめたい、と思った。その瞬間、私は駆け出していた。

 ――もうやめにしよう。もうこの目は潰そう。視えなくなれば、私もきっと普通の人になれる。

 人ごみを気にせずにひた走った。だって通り過ぎる人のほとんどが、もうこの世のものではないから。肩がぶつかろうと何の感覚もない。彼らの体をすり抜けていくだけだ。

 走りながら振り向くと、女中が追いかけてくるのが見えた。それに唇を噛んだとき。頭に鈍い痛みが走り、体が反転した。生きている人に、ぶつかってしまったようだった。
 地面に倒れる寸前のところで抱き止められ、見上げると、大きな目がこちらを覗き込んでいた。

「君、そんなに慌ててどうした!」

 焔色の髪に赤い瞳の男性は、瞬き一つせずに私を見ている。死の色に慣れてしまったこの目には、男性の持つ生命力にあふれんばかりの色たちが、まぶしすぎた。
 
「助けてください」

 声を振り絞ると、口内に鉄の味が広がった。ぶつかった拍子に唇が切れたのだろうか。
 男性は振り返り、こちらに走ってくる女中を目にすると、再び私へと視線を落とした。そうして何も言わずに私を抱え上げると、そのまま駆け出した。

「どこまで行けば、君の気が休まるだろうか」

 ものすごい速さで景色が流れていく。それに目を見張っていると、男性はそう言った。

「気が休まる場所なんてありません――この目がある限りは」




 たどり着いたのは、野原だった。春の陽を浴びて、芽吹いたばかりの草や葉が青々と輝いている。

「知らなかった」

 口を突いて出た言葉に、男性はかすかに首を傾げている。

「こんなにいろんな緑色があるなんて、知りませんでした」

 一口に緑といっても、こんなにもそれぞれ濃淡が異なるのか。あれは家の庭にもある緑、あっちの木の葉は知らない緑。花もある。地面の草には所々に白詰草が混じり、向こうの方には散り際の桜や咲いたばかりのツツジも見える。雲ひとつない空には、ぴちちと鳴きながらスズメが飛んでいる。

「そうか、それは良かった!」

 男性を見上げると、赤い毛先が風に乗って、ふわりと揺れていた。
 ――命だ。ここは命にあふれてる。

「俺は煉獄杏寿郎だ。君の名前は?」
「……言えば、家が分かってしまいますよね」
「家へ帰すために訊いているのではない。そもそも、そのつもりならここまで一緒に逃げては来なかった!」

 煉獄と名乗る男性は高らかに笑った。声は大きいけれど、不思議と耳に心地良い声色の人だと思った。

です。
か! 良い名前だ」
「……どこにでもあるような名前ですよ」

 煉獄さんには聞こえなかったようだ。彼はどこからともなく小さな風呂敷包を取り出し、木の下に腰を下ろすと、「君も」と手招きした。

「腹は減っていないか?」
「え? ……いいえ」
「そうか! じゃあ一つあげよう!」

 また聞こえなかったんだろうかと思いつつ煉獄さんのもとへ近寄ると、彼は地面をぽんぽんと叩き、「ここへ座るといい」と言った。
 包みを開ける煉獄さんの隣におずおずと座り、何をくれるんだろうと横目で覗くと、そこには大きなおむすびが三つ並んでいた。

「鮭、昆布、さつまいも。この中で苦手なものはないか?」
「えっと、いいえ」
「そうか! では三つの中で好きなものは?」
「特にありません」
「なるほど! では俺が一番好きなものをあげよう」

 そう言って、煉獄さんは一つのおむすびを取ると、私へ差し出した。それは、さつまいもがごろごろと入ったおむすびだった。
 勧められるまま受け取ると、煉獄さんは私の手に収まったおむすびをじっと見つめてくる。

「あの、これが一番好きなんですよね?」
「うむ! 好きだ!」
「じゃあ……半分こ、しませんか?」

 煉獄さんはハッとしたように顔を上げ、

「遠慮をさせて申し訳ない! ありがたい申し出だが、それは君が食べるといい。弟の千寿郎が作るさつまいもご飯は絶品なんだ」
「そうなんですね。でも、私には少し大きくて。半分がちょうど良さそうなんです」

 そう言いながら、おむすびを半分に割った。転がり落ちてきそうなさつまいもの甘煮に気を配りながら、片方を煉獄さんに差し出す。

「そうか。それなら――」

 煉獄さんがおむすびに手を伸ばした時、さつまいもが一欠片、こぼれ落ちそうになった。あっと声を上げる間に、指先に柔らかな感触が広がる。身を乗り出した煉獄さんが、おむすびごと私の指を口に含んでいたのだ。

「すまない!」

 煉獄さんは慌てた様子で体勢を戻すと、風呂敷で私の指をごしごしと拭った。口の中のおむすびを咀嚼せず飲み込んだようで、咳をしている。

「芋を無駄にするまいと、つい食い意地を張ってしまった! 不快な思いをさせて申し訳ない!」
「気にしないでください。それよりも、煉獄さんはお茶を飲んだ方が」
「それが飲み水を切らしていて――」

 そこで煉獄さんは盛大にむせた。
 ――どうしよう、誰かに助けを。
 そう思い辺りを見渡すと、少し離れたところに、茣蓙を引いて花見をする人々の姿を見つけた。

「あの人たちにお茶をもらってきます! すぐに戻りますから」

 そう告げて走ると、茣蓙の人々はこちらを見て手招きした。おいでお嬢さん、一緒に花見をしよう。そんな声が頭の中に入ってくる。
 ――ああ、ばか。だめだ。
 立ち止まり、目を細めて彼らを見ると、顔に生気がないことに気づく。その姿形もおぼろげで、うっすらと霞がかかっているようだ。
 振り返ると、煉獄さんは目を丸くしていた。誰もいない方向を目指して走って行った私を、きっと気味悪く思っているのだろう。
 私は目を覆って、その場にうずくまった。
 ――生と死の間に、立っている。空はこんなにも澄んで、緑は青々と輝き、命の声で、色であふれているのに。私は、あっちにもこっちにも行けずに境界線の上で立ち尽くしているだけ。きっと、それだけの人生。

 ふと気配を感じた。見上げると、煉獄さんが眉根をかすかに寄せて立っていた。

「視えるんです。亡くなった人の姿が」

 力なく笑う私の前にしゃがみ込み、目線の高さを合わせると、煉獄さんは静かに言った。

「目を閉じろ」
「……え?」

 その言葉に困惑しつつ、力強い眼差しに根負けするかたちで、私は目を閉じた。

「開けて」
「……はい」
「何が見える?」

 煉獄さんの背後には、まだこちらに向かって手招きする人々の姿が見えた。
 目を左右に泳がせながら言葉に詰まっていると、煉獄さんはぐっと顔を寄せてきた。そうして額がくっ付かんばかりの距離まで近づくと、

「もう一度。目を閉じて」

 言われるまま、再び目を閉じる。
 煉獄さんから放たれる体温だろうか。肌は接していないのに、なぜだか、じんわりと温かな空気を感じた。そのぬくもりで、胸の奥底に積み重なっていた鉛が溶けていく。そんな不思議な感覚だった。

「開けて」

 ゆっくりと瞼を押し上げていく。少しずつ差し込んでくる陽の光がまぶしい。

「何が見える」

 それは、これまで耳にしてきた中で一番、やさしい声だった。

「――煉獄さん」

 私の言葉に、煉獄さんは眉を下げ、目を細めて笑った。
 きらめく光の中には、煉獄さんしか見えなかった。いや、見えないようにしてくれた。

 ああ。私にはまだ見ていたいものがある。この目は、潰せない。