最終話 照らす光に


 いつもそばに居てくれる人だった。けれど、いつか遠くに行ってしまう人でもあると、幼い頃からそう思っていた。


 千寿郎は、毎朝の掃き掃除を欠かさなかった。特に門の前は念入りに掃いた。
 鬼殺隊の柱となった兄は、実家を離れて暮らすようになった。たまに里帰りする兄を迎える日の朝が、千寿郎は何よりも楽しみだった。朝日がいつもよりきらめいて見え、頬をくすぐる澄んだ風がいとおしく思えた。
 家に入る兄の足を、何かに阻んでほしくない。だから木の葉一枚も残さぬよう、念入りに掃除をするのだった。

「おい千寿郎。誰のために掃除をしているんだ。杏寿郎はもう、帰ってこないんだぞ」

 父にそう言われても聞かなかった。千寿郎は箒を持ち、今朝も外へ出る。染みついた習慣が抜けないだけなのか、それとも、そうすることで自分を保とうとしているのか。
 ――兄上はもう、帰ってこない。それは知っている。けれどまだ、分かりたくはない。



 門の外へ出ると、塀に寄り掛かるようなかたちで、一人の女性が立っていた。

「どうかなさいましたか?」

 体調不良だろうかと思い千寿郎が声を掛けると、女性はゆっくりと振り向き、「ああ」と微かに声を漏らした。そうして、千寿郎の顔をじっと見つめる。

「あの……?」

 戸惑う千寿郎に、女性はふと我に返ったようにして、

「はじめまして、千寿郎さん」
「――え?」
「私、と申します。……煉獄杏寿郎さんに、救っていただいた者です」



 と名乗る女性は、しばらくの間、仏壇に手を合わせていた。千寿郎がお茶の準備をしていると、振り返って「ありがとうございます」と頭を下げた。
 千寿郎が仏壇へ目をやると、そこには弁当箱が五つ重ねられていた。その視線に気づいたのか、は言った。

「幕の内弁当です。煉獄――杏寿郎さん、これが好きだとおっしゃっていたので。数が多くてすみません」
「いえ、兄は大食いでしたので。ありがとうございます」

 少しの間、沈黙が流れた。
 千寿郎は少し遠慮がちに「あの」と切り出す。

「失礼ですが、どうして僕の名前を?」
「ああ、えっと……」
「兄とはどういったご関係でしょうか? 救ってもらった、とは」

 うつむき加減のは、矢継ぎ早に尋ねる千寿郎を上目で見やる。

「杏寿郎さんは、私にとって大切な……大切な人です。自暴自棄になっていたころに出会って、いろんなことを教えてくださいました。千寿郎さんのお話も、そのときに」
「――そうでしたか」
「千寿郎さん、あの……」

 そこでは言葉を止め、膝の上で重ねた手を強く握りしめた。

「信じていただけるか分かりませんが――私、視えるんです」
「視える?」
「亡くなった方の姿が視えるんです」

 千寿郎は目を細めた。

「ここへは、杏寿郎さんが連れて来てくださいました」

 そう言いながら部屋の隅へと視線を流す。千寿郎は、腿の上に置いた手をぐっと握る。

「何か気配を感じませんでしたか? きっと杏寿郎さんは、亡くなってからも千寿郎さんの傍にいたと思うんです。特に夜の間は――」
「すみません、信じられません。そういう妙な商売でしたらお引き取りください」

 はうつむき、「すみません」とか細い声を漏らす。
 ――感じられていたら、こんなに悲しみに暮れることもなかった。
 千寿郎はそう思った。そのとき、あたたかい風が吹き込んだ。不思議に思ってあたりを見渡す。障子は開いていないのに、なぜ風が吹いたのか。
 千寿郎は、その風のぬくもりに覚えがあった。兄が亡くなってから今日までずっと、夜になると、よく兄に稽古をつけてもらった庭先に佇んで月を睨んでいた。
 ――どうして夜が来るんだろう。兄上を飲み込んでしまったんだろう。誰よりも強く優しい兄上が、なぜこんなにも早く逝かなければならなかったんだろう。
 唇を噛み過ぎて血が出たとき、涙も一緒に転び落ちた。
 そのときに吹きつけた強くあたたかな風が、今この部屋に舞い込んだ風と似ていた。

 ふと我に返ると、が立ち上がり、襖に手をかけているところだった。

「帰ります。気を悪くさせてしまい、本当にごめんなさい」

 そう言いつつも、は襖の前から動かなかった。ぼそぼそと何かをつぶやいている。それはまるで、誰かと話しているかのようだった。
 は振り返り、千寿郎を見据えて静かに口を開く。

「羽衣を、一緒に観に行けなくてすまない」

 千寿郎は目を見開く。

「なぜそれを……?」

 兄が話していた。生前、母はよく父と能を観に行ったらしい。特に母は『羽衣』を気に入っていた、と。
 兄は言った。「いつか一緒に観に行こう、約束だ」と。それは、兄と自分だけが知っていることだった。

「――兄は今、そこにいるんですか?」

 千寿郎はの隣を指す。その指は、かすかに震えていた。

「僕には何も、見えません」
「……それが普通です」

 は開けかけていた襖を閉める。

「杏寿郎さんはここにいます。今は、まだ」

 そうして踵を返すと、千寿郎へと近寄り、向かい合うようなかたちで座った。

「千寿郎さんにお願いがあります。私に、読み書きを指南していただけませんか?」

 強い眼差しだった。その目は、その言葉は、千寿郎に兄の姿を思い浮かばせた。

「――あなただったんですね。兄が言っていた人は」

 「千寿郎に会ってもらいたい人がいる。今度連れてくるから、読み書きを教えてやってほしい」と、兄はそう言った。
 なぜ兄上が教えて差し上げないのですかと問うと、「千寿郎の方が適任だからだ。剣術なら俺が教えると言ったが、それはちょっと、と断られてしまった」と言って笑うのだった。
 「千寿郎さん」と、が身を少し屈めて、顔を覗き込んでくる。その仕草がまた兄を彷彿とさせ、もしかすると兄上はこの方に乗り移っているのだろうか、と頭の片隅でそんなことを思った。

「今ならまだ、千寿郎さんの声は杏寿郎さんに聞こえています。杏寿郎さんの言葉も、千寿郎さんへ伝えることができます。何か、ありますか?」

 千寿郎は、最後のその言葉が自分一人に向けられたものではないと察した。その証拠に、は千寿郎の隣を見つめている。
 ――ああ、兄上は今、ここにいるのか。

「言葉に、なりません……」

 千寿郎が絞り出すような声で言うと、は小さくうなずいた。

「あの、今ならまだということは、兄はこれからどこかへ行ってしまうのでしょうか?」
「……成仏した人は、姿を見せません。けれどこの世に心残りがあると、魂がさまようんです」

 は膝の上に置いた手を、どこか落ち着かない様子で揉み合わせている。

「杏寿郎さんの願いは、千寿郎さんと私を引き合わせることでした。それが今こうして叶ったので、もうじき杏寿郎さんも――」

 そこで言葉を止め、は畳の一点に視線を当てたまま、瞬きを忘れたように固まってしまった。

さん?」

 千寿郎がその顔を覗き込むようにして声を掛けると、はようやく瞬きをした。
 そうして、千寿郎の赤い瞳から逃れるように視線を流し、唇をきゅっと結ぶ。

「――私は、意地の悪い女です。杏寿郎さんをこの世に縛りつけてしまった。願いが叶えばすぐにでも杏寿郎さんの魂が天に昇ってしまう、姿が消えてしまうと思って……」

 眉根を寄せ、強く唇を噛んでいる。千寿郎はその姿に、夜空を睨んでいた自分を重ねた。

「煉獄さんがいなくなったら私、どうやって生きていったらいいのか分からなくて」

 ――ああこの方は今、あの日の自分と同じなんだ。
 兄は穏やかな顔で、眠るようにして棺に横たわっていた。すべてのことから解き放たれたんだろうと思った。
 出棺前に花を添えたそのとき、兄の頬に指が触れた。あんなにあったかい人だったのに、もうこんなにも冷たい。途端に、これまでの記憶が蘇った。あの日あのときの兄の言葉、笑顔、ぬくもり。全てが失われてしまった。そう思うと、喉の奥底から声が漏れ、涙があふれ出して止まらなかった。

「そのお気持ちは、分かります」

 亡き人の姿が見えるのは、つらいことだろう。そこに肉体はなく、魂だけが存在している。
 ――この方は、兄上の魂がさまよわないように、思い残すことがもうないように、天へと見送ろうとしてくれている。
 いつだって、見送る側は悲しいものだ。里帰りした兄が出立するとき、また会えるという保証もない中で見送らなくてはいけないつらさを、千寿郎は知っていた。まだ一緒にいてほしいという思いが湧き起こることを、痛いほど知っていた。
 ――それでもこの方は来てくれた。別れを分かっていて、決死の覚悟で会いに来てくれた。兄の望みを叶えるために。

「煉獄さんが照らしてくれてたんです。でも今はもう、夜が落ちてきたみたいに真っ暗で、何も見えない」

 落ちてくる。夜が落ちてくる。
 けれど、その闇の中で道を照らしてくれた光が確かにあったことは、忘れない。忘れてはいけない。

「兄はなんと言っていますか?」

 は力なく首を横に振り、そうして頭を垂れた。
 千寿郎は膝を進め、に近寄る。そうして、震えるの手に、そっと自分の手を重ね合わせた。

「兄はまぶしかった。いつだって周りを明るく照らしてくれました。その光のおかげで見つけられたものが、きっとさんにもありましたよね」

 は顔を上げ、こくりとうなずいた。

「兄上、まだ聞こえていますか?」

 千寿郎はの手を握ったまま、部屋を見渡しながら言う。
 の視線が、斜め上に向かう。杏寿郎は二人を見下ろすようなかたちで、すぐそこに立っている様子だった。
 その視線の先を追って、千寿郎は言う。

「僕は兄上の死を、受け入れます。――今はまだ見つけられていませんが、自分の心がおもむく道を行きます。この煉獄家は、僕が守ります。兄上の教えを胸に、後世まで、必ず。だから安心してください。また、会いましょう」

 それは、力強い眼差しだった。
 不意にが、ふっと声を漏らして微笑んだ。

「また会おう、と。それはそれは大きな声で」
「兄らしいです」

 ――誰かの夜を照らす光になりたい。兄がそうしたように、いつか、僕も。
 突然ぎゅっと強く握りしめられた手へと視線を落としたのち、千寿郎はへ目をやる。

さん?」
「……煉獄さんが」

 の目は、宙を捉えたまま離れない。

「煉獄さんが消えていく」

 今にも泣き出しそうな表情で、追いすがるように手を伸ばす。
 そんなの手を、千寿郎が掴んだ。

さん、目を閉じてください」

 は視線を外し、千寿郎を見る。

「気持ちが落ち着くまじないです。兄がよくやってくれました」

 少しためらうに、千寿郎は続ける。

「次に瞼を開けたときには、世界は変わっています。そこに兄はいないかもしれない。それでも、生きていかなきゃいけない。前を向いて生きていきましょう。兄もきっと、そう願っているはずです」

 それは自らに言い聞かせるようでもあった。
 はもう一度、宙へと視線をやる。

「煉獄さん、また会いましょう」

 そうして震える唇を噛みしめ、目をつむった。
 千寿郎とは、互いの両手を握ったまま向かい合う。

「目を開けてください」

 その声に、はゆっくりと瞼を押し上げた。

「何が見えますか?」

 それはやさしい、やさしい声だった。

「――千寿郎さん」

 千寿郎は生来の垂れた眉をさらに下げ、目を細めて笑った。も、顔をくしゃりとさせて笑った。そうして二人は手を取り合ったまま、声を上げながら泣いた。





 また、春が来た。
 あたたかな陽を浴び、新たな命が芽吹き始める季節。花は甘い香りを風に託し、木々は青々と輝き、ぴちちと鳴きながら鳥は飛ぶ。

「おはようございます! 千寿郎です!」

 突き抜けるような声が響くと、戸はすぐに開いた。

「おはよう、千寿郎くん」

 中から出てきたはそう言って微笑んだ。振り返り、「陽が落ちる前には帰るね」と家の中へ声を掛け、戸を締める。
 歩き始めたに千寿郎が駆け寄り、右手に握られた花を指しながら首を傾げる。

「きれいですね。なんの花ですか?」
「芍薬の花。母が育ててるの。ちょっと拝借してきた」
「こんなに持ってきてしまって大丈夫なんですか?」
「煉獄さんが見事だって褒めてくれたから、母が張り切っちゃって、今や庭に咲き乱れてるの。母も、今日が煉獄さんの月命日だって知ってるから、許してくれるはず」

 穏やかなその横顔に、千寿郎も「そうですか」と笑む。
 千寿郎が大事そうに持つ風呂敷包みを見やると、今後はが首を傾げた。

「千寿郎くんは? 何を持ってきたの?」
「さつまいもご飯です!」
「なるほど。喜ぶだろうね」
「はい、わっしょいが止まらないでしょうね」

 間違いないね、と笑いながら大通りへ出ると、千寿郎は「あ、そうだ!」との袖をつんと引いた。
 そうして立ち止まったに、千寿郎は懐から取り出した紙を広げる。

さんからもらったこの手紙ですけど、墓の字、間違えてましたよ。これは暮です。あとここも……」
「ねえ千寿郎先生、ご指南は後でお願いします。往来で紙なんて広げてたら危な――」

 の言葉が終わる前に、きゃっきゃと声を上げながら駆けてきた子どもたちがぶつかった。あっ、と声を上げる中、千寿郎の抱えていた風呂敷包みが宙を舞う。
 そこへ、どこからともなく走ってきた犬が高く飛び、風呂敷を咥えた。そうして千寿郎の前に置くと、尻尾を数回振り、そのまま人波の中へと消えていった。

「すごい……なんでしょう、あの犬は」

 呆気にとられる千寿郎の隣で、は口元に手を当て、ふふっと笑った。

「どこかの食いしん坊さんの使い、かもね」

 千寿郎はそんなの言葉に少し考えを巡らせたのち、ああっと声を上げる。そしてと顔を見合わせ、

「そうかもしれないですね」

と、笑った。

 あたたかな風が吹く。二人はその風に背を押されるように、一歩を踏み出すのだった。



 - 完 -


(2021.05.01-05.05)