名前を呼んで



 自分の名が呼ばれたように思えて、ドラコは後ろを振り向いた。
 しかしそこには互いの肩に頭を垂れて踊るカップルしかおらず、思わず目を細める。ちょっと、と不機嫌そうな声で言うパーキンソンが強引に顔を向き直させたので、ドラコは一気に冷めてしまい、踊る足を止めた。どこへ行くの?と悲痛な声を上げたパーキンソンを無視し、ゆったりとした音楽で踊る何組ものカップルたちを押し退けて、大広間の隅に空いている席を見つけ、力なく座り込んだ。乾いた喉を潤そうと手を伸ばしたゴブレットをダームストラングの男子生徒が横取りにしたので、眉根を寄せて胸の内で舌打ちをした。そして、その男がそのままレイブンクローの女を口説いている様子を横目にし、ため息をつきながら思った。
 ほとほと呆れる、馬鹿じゃないのか。三大魔法学校対抗試合にダンスパーティがあるなんて本当にふざけてる。空いたゴブレットを見つけて水を注ぎながら、この品の無い音楽にも浮かれた男女にも、大概嫌気がさしていた。

 幻聴だったのだろうか。水をまた一口飲み、考える。干上がりそうになっていた喉が落ち着いたからなのか、やっと周囲に人が居なくなったからなのか、ドラコはようやくそのことについて冷静に考えることが出来るようになっていた。消え入るような小さな声だったけれど、それを聴いた自分は確かに、懐かしい、と思ったのだ。水をまた口に含む。自分をドラコ、とファーストネームで呼ぶ女なんて、そう居ない。
「ドラコ」
 はっと顔を上げてその声がした方へすぐに目をやったが、途端にドラコは顔を顰めて再び俯いた。人波を乱暴に掻き分けてこちらに向かって来るのはパーキンソンで、そういえばあいつもファーストネームで呼んでいたっけ、と落胆した。
「私、さっき聞いちゃった」
 隣に勢いよく座ったパーキンソンが興奮したようにそう言い、先を話したそうに目を輝かせていたので、何をだ、とドラコはとりあえず訊く。
「来年、が結婚するらしいの!」
 パーキンソンの声が存外大きいので顔を歪めたドラコだったが、少しの間を置いて言葉を呑み込むと、表情を変えた。
って、か?」
「そうよ、スリザリンの七年生の。あなたも知ってるでしょう?」
 知っているどころじゃない、と口を突いて出そうになったが、それを無理やりに押し込めた。そして顔を覗き込んでくるパーキンソンに頷くと、
「そうか」
と、平静を装った。パーキンソンはドラコの反応が面白くないとでも思ったのか、話を続ける。
「相手はレイブンクローのウィルバーって男らしいわ。私知らなかったけど、のお父様、昨年亡くなられたんでしょう?それでお家の財政が傾いちゃって、あの男に嫁ぐことになったんだって。そりゃ家だもの、お母様も貧しさに慣れなかったんでしょうね。それにもあの美貌でしょう?向こうの家ともすんなり話が進んだらしいわよ。なんでも彼の家は名家らしくって、ああ、あなたの家ほどじゃないだろうけど。曽祖父が――」
「もういい」
 あっちに行ってろ、と言う風にドラコが手を払ったのでパーキンソンは機嫌を損ねたらしく、ふんっと鼻を鳴らして人の波間に消えていった。ドラコはパーキンソンの姿が見えなくなると、テーブルに肘を突いて途端に重くなった頭を支えた。
 ドラコとは幼馴染だった。家が近いということもあって、ちょうど互いの家からの中間点に当たる所にあった丘で、両親の目を盗んではよく遊んでいた。は三つ年上だが、まるで同い年のように接していて、ドラコはが自分よりも先にホグワーツへ入学することを聞かされて初めて彼女が年上なのだと知ったぐらいだった。窮屈な世界に育って心を閉じることに慣れていたドラコはなぜか、対等に接してくれ、ドラコ、ドラコと微笑みをくれるには、それを開くことが出来たのだ。
 が入学してからは、彼女が帰ってくる夏休みがたまらなく待ち遠しかった。あの丘で落ち合って、学校の話を聞いたり、花や草で冠を作ったり。風に靡く草が夏の陽に照らされ、波のように広がっていく情景を、彼女は緑の海と名づけた。ドラコが入学してからは、校内ということもあってか互いにどこか照れくさくて、徐々に話をする機会が減っていった。それでも夏休みになるとあの丘で緑の海を二人で眺めていたものだったが、昨年の夏、彼女は丘に姿を見せなくなった。それが父親が亡くなったせいだとは全く知らなかったし、彼女がその頃どんな苦境に立たされているかなど、もちろん考えたことさえなかった。それに、結婚だなんて。

 ドラコは不意に顔を上げ、見るだけでも胸焼けしそうだと思っていたダンスフロアのカップルたちを、目を細めて見渡し始めた。ついにはゴブレットを置いて席を立ち、うっとりと顔を見合わせるカップルたちの間を縫うようにしてフロアまで行くと、、と胸の中で唱えながら彼女を捜す。さっきのは、幻聴ではなかったのかもしれない。あの声は、忘れようにも、忘れることが出来ない。
 目の前を塞いでいたカップルがさっと左に退くと、まぶしいぐらいの純白のドレスを着た女性と、その腰に手を当てて満足げに踊る男が現れた。ドラコは声を掛けることも忘れてその場に立ったままだったが、亜麻色の髪をシニヨンに結い上げたその女性が、佇むドラコの姿に気づいて不意に足を止めた。パートナーが不思議に思い声を掛けるが、は答えなかった。そのとき、ドラコの頭の中では、遠い夏の日にが微笑みながら言った言葉を思い返していた。いつか結婚しようね、というのは幼心が言わせたただの口約束だが、少なくともドラコはそのいつかを待ちわびていた。はどうだったのだろう。しかし、窮屈な世界に生まれたのはドラコだけではない、彼女もそうだった。両親の言うことに逆らうのは許されず、まして決められた縁談に首を横に振れるはずはないのだ。そして父を亡くし、荒んでいく暮らしの中での母の言葉は、二重の重みを孕んでに圧し掛かったのだろう。

 この距離でもわかる彼女の涙には、どんな思いが込められているのか知れない。ただ名前を呼ぶことで、かつて彼女がドラコにそうしたように、再び頑なに閉ざしてしまったものを開けることが出来るかもしれない、と漠然と思ったのだ。声が聞こえたのか、彼女はいっそう涙を溢れさせ、ごめんなさい、と声を出さずにそう言った。ちょうどその時、目の前を通った女のドレスを染める色がグリーンで、それはあの丘から眺めていた緑の海を思わせた。彼女もその情景を目に浮かべたのか、その場に崩れ落ちて静かに泣いた。訳もわからずその肩を抱いて慰める男の姿が、ドラコを冷静にさせた。
「お幸せに」
 来年のいまごろには夫婦になっているであろう二人に背を向け、ドラコはゆっくりと歩き出した。人込みにうんざりしながら、やっぱりダンスパーティは必要なかった、と舌を打った。すると、またあのグリーンのドレスが横切った。もう戻らない日々を思い、いくら待ちわびても来ることのない“いつか”の日を思い、を想った。そしてドラコは目から口から、なにかがこみ上げてくるのを押さえながら扉に向かって走り出した。ふたたび、ドラコ、ドラコ、と名を呼ぶ懐かしい声が聴こえたが、もう振り返ることはなかった。それが記憶の中から聴こえてくる幻なのだと知ったから。




(2009.3.25)
H*P DREAM FESTIVAL 投稿作