先生がスピナーズ・エンドの自宅に帰って来たと聞くとすぐ、手当たり次第に洋服を引っ掴んでスーツケースに押し込め、私は家を飛び出した。
 先生と過ごす二度目の夏がやって来た。胸が高鳴らないわけがない。先生、待ってて。すぐ行く、走って行く!

「帰りたまえ」
 開いたばかりの扉が途端に閉められてしまった。その言葉に放心するあまり、スーツケースまでをも手放してしまった。鈍い音を立てて階段を転げ落ちていく。私はそんなスーツケースに構わず、閉ざされた扉に飛び付いて、ドアノブを回しながら声を上げる。
「ひどい!全力で走って来たのに!こんな夏の夜にこんな治安の悪い町まで!」
「我輩は一言も来いとは言っていない」
「帰って来たってふくろう便くれたじゃないですか!」
「貴様が帰る時は知らせろと執拗に言うからそうしただけだ。来いとは言っていない。こちらの都合も考えろ」
 扉の向こうから聞こえる低い声が孕む甘さにくらりと目まいがした。どんなに厳しいことを言っていても先生の声の持つ甘さは私がちゃんと知ってる大丈夫。
 目まいのせいで後ろに倒れそうになった体を足指に力を込めて踏みとどめ、階段下で横たわるあのスーツケースの二の舞になってしまうことは何とか避けられた。
「……そうですよね。先生の心の準備が出来ていないのに突然やって来たことは謝ります、すみません。一年ぶりに会うんですもんね。心の準備、必要ですよね」
 ため息が聞こえた。ようやく分かってくれたか、とでも言っているようだ。ごめんね先生、鈍感で!
 昨年ホグワーツを卒業してようやく教授と生徒のしがらみを脱した私たちは、夏の大半をこのスピナーズ・エンドで一緒に過ごした。先生はクリスマスやイースター休暇は自宅に戻らず、あの陰鬱な地下牢の部屋で魔法薬とひたすら愛し合っている。だから私が先生と愛し合えるのは夏しかなかった。この日をどれほど待ち侘びたか。一年ぶりの再会をどれほど待ち焦がれていたか。
 「先生」と私は切り出す。
「緊張してるのは先生だけじゃありませんよ。私も同じぐらい緊張してます。この会えない一年の間に先生の顔に皺が増えまくってたらどうしようとか、額が後退しまくってたらどうしようとか。でも!先生の容姿がそんな劇的なビフォーアフターを遂げていても私は気にしませんから!それは確かに最初は驚いて、何ということでしょう!と口走ってしまうかもしれません。でもすぐにその皺と額にキスをしてみせますから!それにね先生、私ったらますます女っぷりを上げたんですよ!見違えるぐらいイイ女になったと自負しておりますよ!先生が去年の夏に私を女にしてくれた時から私は――」
 勢い良く玄関扉が開き、先生が現れた。思わず黄色い声が出てしまう。すると先生は手を伸ばして私の口を塞いだ。
「そんな大声で何をつらつらと。恥を知れ、馬鹿者」
 先生の手の平からは、何かの薬草の香りがした。久しぶりに顔を合わせる先生は、一年前と何も変わっていない。いつか夢の中に出て来た先生は、皺くちゃの顔に禿げ散らかした頭をしていたので、つい先ほどまではもしかしたらと本気で心配していたが、そんな容姿の後退は少しも見られなかったので安心した。
「何をニヤついているのだ」
 先生は目を細め、手を離した。私はその腰にしがみ付こうと腕を伸ばしたが、あっさりとかわされてしまった。その目が再び「恥を知れ」と訴えていた。ほんとに、いじらしいほど恥ずかしがり屋さんなんだから。
「私は先生との間を隔てるものなんて要りません。恥だってこの扉だって」
「どちらも我輩には必要だ。貴様との間を隔てるために」
 そんなことを言いながらも体を避けて中へ通そうとしてくれる先生に、私の表情筋は緩みっぱなしだった。杖を振って階段下のスーツケースを呼び寄せ、私は意気揚々と先生の家へ足を踏み入れた。





 


「悲惨!」
 リビングルームに入った途端にが声を上げた。
「先生!この部屋すごく散らかってる!」
 すぐ後ろのセブルスを振り返って甲高い声で叫ぶので、セブルスは軽い頭痛を覚えた。懐かしい痛みだ。先ほどまでは静寂に包まれていた家が、一瞬で騒がしくなってしまった。
「一年も家を空ければ、このぐらい汚れるだろう」
「蜘蛛の巣とか埃は仕方ないですよ。でもこれ!本の山!脱ぎっぱなしだし食べっぱなし!」
 天井の四隅には蜘蛛が巣を作り、床には綿埃が散らばっている。本や服、食器を指しながら「今朝ホグワーツから帰って来たばかりだなんて嘘じゃないですか?」とは眉根を寄せた。
「……そんなに私に会いたくなかった?」
 肩を落として言う彼女に、セブルスの口からは思わずため息が漏れる。
「ここに戻ったのは手紙に記したように、今朝だ」
「じゃあ半日でこんなに散らかしたんですか?」
「……左様」
 渋々そう答えると、は笑った。
「才能ですね。先生には散らかしの才能があります」
 そうしてスーツケースを開け、エプロンを取り出した。それを腰に巻き付けながら、
「先生、ちょっと邪魔です。掃除をするから出て行って下さい」
と言い放った。ここは我輩の家だとセブルスが言えば、は鼻で笑った。先ほどまで扉を開けてくれと訴えていた者とはとても思えない。
 それでも言われた通りにセブルスがリビングを出ようと踵を返すと、その後ろ背に
「夕飯はもう済ませました?」
と訊いた。
「いや。まだだ」
「じゃあ掃除が終わったらすぐに作りますね!」
「……ああ」
 セブルスは、いちいち声の大きい女だと力無く笑った。空気の悪い町だからか、家の中の空気もどこか重く、鬱々としていた。しかしの張りのある声はそれらを蹴散らすかのように響き渡る。

 夏期休暇で帰宅したからと言っても、セブルスは朝からリビングに籠って本を読み漁っていた。と言うのも、薬草学のスプラウト女史が、セブルスが煙突飛行で今まさに帰宅せんとする所へ駆け込んで来て、これの解毒法を調べておいて欲しいと依頼してきたのだ。そうして渡されたのは数本の茸だった。見た目もいたって普通のそれに、セブルスが目を細めていると、スプラウト女史は「ハグリッドから報告を受けたのです」とした上で言った。禁じられた森の生物がこの茸を口にして縮んでしまったのだと。
 仕事を持ち帰ってまでその生物のために解毒法を見つけ出さなければならないことに初めこそは苛立ちを抑えきれなかったが、さすがに研究職に就いているだけあって、茸の実態を調べるために本を読み漁る内に我を忘れて没頭していた。そこへが現れたのだった。
 下の階から聞こえてくる物音や鼻歌を、ベッドに横たわり耳にしながら、セブルスは意識を手放そうとしていた。朝から休まず字を読み続けていたのだ。襲ってくる疲労と眠気の前で、の立てる騒々しい音はもはや子守唄でしかなかった。








「ご飯ですよ、先生」
 次に目を開けると、がこちらを覗き込んで笑っていた。
「起こしたらダメかなーと思ったんですけど、先生ったら眠りながらお腹グーグー鳴らしてるんですもん!とても笑えました!」
 身体を起こしながら「そうか」と寝起きで掠れ声のセブルスに、は愉快そうにまた笑う。
「先生の寝顔が堪らなく可愛くて、私我慢できなくてほっぺにチューとかしちゃったんですけど、掃除もご飯の支度もしたんだし許してくれますよね?」
「……」
「これでも遠慮して唇は止めておいたんですよ?まあそれは私からじゃなくて先生からして欲しいっていう思いもあったし」
「……貴様の変態ぶりにはもう慣れた」
 途端に目を輝かせて胸に飛び込んで来ようとしたを避けると、彼女はそのままの勢いで顔からベッドに突っ伏してしまった。グヘェと気の抜けた声がシーツにこもる。セブルスがその様子を見て鼻で笑うと、彼女はぐるりと身を反転させてセブルスを見上げながら、頬を膨らませた。
「先生もお疲れかなと思って、部屋まで食事持って来たんですよ。良く気が回る私にご褒美くれたっていいじゃないですか!」
「甘いな」
 ブツブツと何か呟きながらシーツを握り締めるを見下ろしながら、セブルスはまた笑った。
 一年ぶりに見る彼女は背もまた伸びたようで、去年まではまだ幼さを滲ませていた顔も、化粧のせいかすっかり消え去っていた。
「で、食事は?」
 無防備に投げ出された足から目を逸らしてそう訊けば、は「あっ」と思い出したように声を上げるとベッドから起き上がった。
「今日は買い物に行く時間も無かったからあり合わせで作ったんですけど、多分美味しいと思います。味見はしてないですけど」
 セブルスが窓辺に備えた机に座ると、はそう言いながら「召し上がれ」と皿を置いた。
「……これは?」
「エリンギとバジルのパスタ!」
 目の前の皿に盛られたパスタ。そこにはバジルソースに“エリンギ”がごろごろと絡まっている。セブルスはそれを凝視しながら、スプラウト女史に渡された茸を思い出していた。確かあれはリビングの机の上に置いていたはずだ。
「この茸は……?」
「リビングにありました。立派だし美味しそうだったんで使いました。あれ、どうしたんですか?もしかしてこれってエリンギじゃないんですか?」
 そこで突然勢い良く席を立ったセブルスに、は目を丸くした。セブルスは「貴様!」と声を荒げ、凄まじい剣幕でを見下ろす。
「な、何です……?そんな怖い顔で睨まないでくださいよ。そんなに怒らなくても、キノコは一本しか使ってませんから!それも一番小さい物しか!やっぱりこのキノコってそんなに値段高かったん――」
「すぐにこれを捨てろ!」
「ええ!?ど、どうして?私……変な薬なんて入れてませんよ?惚れ薬だって媚薬だって、何も!」
「そういう事では無い!これは――」
「何ですか!何なんですか!そんな、そんなに疑うなら…私が毒味してみせますよ!」
 涙声で叫んだはフォークを引っ掴み、セブルスの制止も振りほどいて、パスタを口に掻き込んだ。
「馬鹿者……」
 セブルスの声も虚しく、の喉は茸が絡み付いたパスタを胃に送り出してしまった。力無く頭を抱えたセブルスを見上げ、は得意顔で言う。
「ほら!薬なんて何にも――」
 彼女は不意にそこで言葉を切り、顔をしかめた。そうして胸を押さえ、前のめりに倒れそうになったところをセブルスが抱き止めた。
「せん、せ…い…くるしい……」
 息も絶え絶えに言ったの身体は、みるみる内に縮んでいく。その感覚を腕に感じながら、セブルスは「馬鹿者」と再び呟いた。








「とどかないよー!たすけてーせんせー!」
 朝のキッチンに甲高い声が響く。流し台に届かず、包丁を片手にぴょんぴょんと飛び跳ねる少女が泣きべそを掻きながら声を上げていた。
「その身体で家事をこなせると思ったのか?」
 その声に飛び跳ねるのをぴたりと止め、少女は振り向いた。
、貴様は大人しく座っていたまえ。そして子供がそんな物騒な物を持つな」
 セブルスは体を屈めての手から包丁を取り上げた。
「ひどい!せんせいはおもしろがってるのね!あんなヘンなキノコたべさせて!せんせいにそーゆーシュミがあったなんて!」
 全身で訴えるを抱き上げ、リビングのソファまで運びながら「朝食が出来るまで本でも読んでいなさい」と言えば、は不貞腐れたようにそっぽを向いた。ソファに下ろして本を与えると、表紙を目にした途端、はその本を放り投げた。
「おもしろがらないで!」
 セブルスは投げ捨てられた童話本を拾い上げながら鼻で笑った。
 昨夜彼女が食べてしまったのは、“年の数ダケ”という茸だった。その間抜けな名の通りの茸で、口にした者はその茸の全長に合わせて幼くなったり老いたりする。が食べたのは、スプラウト女史が渡した数本の内の最も小さいもので、恐らく全長六センチほどだったのだろう。は六才の少女の身体に縮んでしまったのだ。
 は小さな体をさらに小さくして、ソファの上で蹲っている。
「ごはんより、わたしのカラダをもとどおりにしてください」
「解毒法がまだ見つからないのだ」
「じゃあはやくみつけて!」
 セブルスはその言葉に頷きながらキッチンへ戻った。
 実を言うと、彼はもう解毒法を知っていた。昨晩散々泣き喚きながら眠りに就いたの傍で本を手繰っていたら、見つけたのだ。こうも簡単に解るならば、スプラウト女史は自力でやっても良かったのではないか。食べた茸の全長で身体の年齢が変わるなら、元の年齢と同じ長さの茸を食べれば良いだけの事だった。スプラウト女史から預かった数本の中の二十数センチの茸を焼き、ちょうど十九センチに縮めて食べさせれば、の体は元に戻るという事だ。単純すぎて阿呆らしい。そんなことを思いながらも、隣でスヤスヤと息を立てているの寝顔を眺めると、解毒法がすぐに知れて良かったと胸を撫で下ろすのだった。
 まな板の上でキャベツやトマトを切っていたが、静まり返ったリビングが気になり、キッチンから覗いてみた。すると、思わず口元が緩んだ。そこではが、先ほど投げ捨てた童話本を膝の上に広げて夢中で読み耽っていたのだった。文字を追う度、ページをめくる度に表情を変える。その様子を眺めながら、しばらく六才のと過ごすのも悪くないと、セブルスはひとり笑った。