- 透明なことば -



 一ヶ月ぶりの弟の声の後ろに、女の笑う声が聴こえた。弟からの電話に出たときも、その笑い声が聴こえたときも、憎いだの悔しいだのという感情にはならなかった。
 自分には執着心というものが無いのかもしれない。昔からそうだった。「いいだろ兄さん。俺に譲ってよ」その弟の言葉に、首を横に振ることは出来なかった。いつだって。そう言われて頑なに断るほど、人や物に執着していなかったんだろう。だから、電話の向こうで「誰と話してるの?イタチ?」と訊く元恋人も、あっさりと弟に譲ってやったのだ。

「分かった。じゃあ、またな」

 そう言って電話を切り、受話器を机に戻す。
 年に一度、春にしか訪れないこの別荘に十一月の初めにやって来て一ヶ月が経つ。都会のあの家に居たままでは、新たに執筆を始めた作品は完成しないと思った。それに、執着しないとは言え、弟に寝取られた恋人と暮らした家で生活を続けるのはさすがに気が重かった。自分の情けなさばかりが染みついたあの家は、もうじき売り払う。周囲には山と川しか無い物寂しい土地だが、この別荘を住まいにしようかと真剣に考えている。しかしそうなれば、編集者から勝手なことをするなと止められそうだ。何にも捕らわれたくなくて、自分の創る世界を文字で表現する職を選んだのに、現実はそうもいかなかった。

 ――もう誰も俺を構ってくれるな。

 ため息を吐いたとき、コト、と手元にカップが置かれた。

「ああ、ありがとう」

 視線を上げてそう言うと、お盆を胸に抱えるは頷いた。
 三週間前、知人を介し、彼女は家事手伝いとしてこの別荘へやって来た。隣国から出稼ぎに来たという彼女は日本語が一切分からない。よくそんな状態で外国へ働きに出るものだと思ったが、「家事に言葉は関係ない」と知人が言う通り、仕事さえ出来るなら、と彼女を雇った。

 イタチがコーヒーを飲んでいると、は散らばった書類をせっせと整え、空いた別のカップを持ち、台所へ戻って行った。彼女を雇って正解だった。気が利くし、場の空気を読めるし、何よりよく働く。車で十分ほど走らせたところに彼女は住んでいるが、朝は徒歩でこの家まで通っている。仕事帰りは送るようにと知人に言われていたので、イタチは毎日彼女を車で家まで送り届けていた。言葉が通じないことをもどかしく感じるのは、このときだった。互いに何を喋れば良いか分からず、沈黙ばかりが続く。

 彼女が再び書斎に入って来たとき、イタチはワープロの前で肘を突いたまま、コーヒーをゆらゆらと揺らし、

「来週弟がここへ来ることになった」

 呟くようにそう言った後で、イタチは引き出しから写真を取り出し、「サスケ」と弟の顔を指しながら言う。彼女は頷く。以前教えたので、弟の名前は分かるのだ。「ここに来る」と床を指したり手を振ったりとジェスチャーを交えながら言うと、眉間に皺を寄せながら聞いていたはしばらく間を置いた後、うんと頷いた。
 次にイタチがカレンダーで十二月十日に丸を付ければ、彼女は親指を立て、大きく頷いた。それにイタチが小さく笑むと、彼女は何か言った。軽く首を傾げれば、彼女はやっぱりいいと言う風に薄く笑みながら首を振った。そうしてクッキーの小皿を指して微笑むと、部屋から出て行った。
 ドアが閉まると、写真に目を落とし、彼女の置いて行ったクッキーを一口かじった。



 サスケが別荘へ来るまで後二日。はいつもより念入りに家を掃除するようになった。そんなに気にしなくて良い、いつも通りで良いと言うと、彼女は頷きながらも部屋の隅から隅までを拭きあげることをやめなかった。
 書斎の埃を払いたいからと言われ、イタチは河原に出て来ていた。コーヒーの入ったコップと、ワープロで打ち出した書きかけの作品を数ページ分持って。
 近頃、思うように小説が書けない。自分の作品にうんざりし、紙を傍らに置く。風で飛ばされぬよう、その上にコップを乗せた。川の流れをじっと見ながら、今後のストーリー展開について考えていると、不意に肩を叩かれた。

『もう書斎に戻っていいですよ』

 顔を上げると、湯気の立つコップを片手に持ったが微笑んでいた。イタチはその姿を認めると、また視線を川の方へ戻す。

『寒いのに、追い払ってごめんなさい』
「冬の川が好きなんだ」
『怒ってる?でも、私は外に出て行ってとは言ってないですよ』
「この寒々しい感じが、なぜか好きなんだ」

 は首を傾げ、少しすると声を漏らしながら笑った。

『会話が噛み合ってないのね、多分』
「話が通じていないんだな」

 イタチもそう言って、諦めに似た微笑を浮かべた。

『風邪をひかない内に帰って来てね』

 は、淹れたてのコーヒーがたっぷり入ったコップと換えようと、紙の上に置かれる空になったコップを持ち上げた。ちょうどその時。まるで狙ったかのようなタイミングで、強い風が吹いた。紙は吹き飛ばされ、川の方へ舞って行く。は声を上げ、それとほぼ同時にイタチが「熱っ」と言う。自身が放り投げたコーヒーカップがイタチの足に盛大にこぼれ掛ったことなど気づきもせず、彼女は飛んで行く紙の後を追う。その背に向かってイタチが声を張り上げる。

「いい!放っておけ!どうせ駄作なんだ!」

 その声がまるで耳に入っていないのか、は追い掛けることを止めない。紙が川の水面に浮かび、ゆっくりと流されていく。ああ、コピーを取っておけばよかった。ただそう思うだけで、夕焼けの方へ流れていく白い紙を目にしながら、イタチはすでに諦めていた。自分には、インクが滲んで何が書いてあるか分からないような紙のために川へ飛び込むほどの執着心は――

「嘘だろ……」

 イタチが目を見開きそう呟いたのは、彼女が何の躊躇いもなく川へ飛び込んだからだ。は胸の下まで水に浸かりながら、水を掻き分けて必死に紙を集めている。しばらく唖然としていたイタチだったが、不意に我に返ったかのようにして駆け出した。
 水しぶきが上がり、は振り返った。

「いいって言っただろう。風邪をひくぞ」

 冷水が胃に流れ込んでくるようだった。イタチは「冷たい」や「寒い」という言葉を噛み殺し、残りの数ページを拾い集める。小刻みに震える自分の体にがそっと笑うのを横目で見ながら。


「悪かったな」

 ストーブの前で毛布に包まるにマグカップを差し出す。彼女は頭を小さく下げるとカップを受け取り、コーヒーを一口飲んだ。ほうっと温かな息を吐いた後、近くの椅子に腰かけたイタチを見上げた。それと同時にイタチも彼女を見下ろし、二人の視線がぶつかった。しかしすぐにそれらは逸らされ、沈黙が流れる。はストーブを眺め、イタチはコーヒーを啜る。

『イタチさん』

 沈黙を破ったのはだった。名前に反応したイタチが目をやると、彼女はカップを両手で包み、その中の黒褐色をじいっと見つめながら言う。

『登場人物に私の名前を付けてください』

 そう言った後で、誤魔化すように急いで次の言葉を紡ぐ。しかしそれと同時に、イタチも口を開いた。

『だめなら、印税の五十パーセントを私に』
「登場人物に君の名前を付ける」

 言葉がぶつかったことに目を丸くした後、ふふっと笑った。イタチはまた一口コーヒーを飲み、続ける。

「もし嫌なら、印税の五パーセントを」

 言いながらイタチは笑った。なんともおかしなやり取りだ。登場人物にの名前を付けたところで、印税の冗談を言ったところで、彼女には日本語が伝わらないのに。もどかしい。けれどもなぜか、そのもどかしさが愉快で、心地良かった。

『サスケが来るの、楽しみ?』

 不意が言った。上目遣いで、様子を窺うようにこちらを見て来る。

「ああ、サスケか。明後日の十一時頃にこっちに着くそうだ」
『あなた、この間暗い顔をしてた。サスケが来るって言ったとき』
「昼は簡単にで良い。夜は君を送った後で食べに出るから、準備はしておかなくて良いからな」

 がうっすらと笑んだので、軽くジェスチャーを交えながら話していたイタチは、てっきり彼女が理解出来たのだと思い、「仕事の続きをしてくる」と席を立った。は書斎に入って行くイタチの背中に言った。

『言葉は伝わらないけど、あなたの表情を見れば分かるんです。なんとなくだけど、あなたの心が。イタチさん』

 最後の言葉に、今ようやくドアを閉めきるところだったイタチがこちらへ顔を覗かせた。「どうした?」と訊くイタチに、彼女は首を横に振った。イタチは「そうか」と頷き、ドアはパタンと閉まった。


 翌朝、約束の十一時より一時間早くサスケはやって来た。一つ前の飛行機に乗って来たと言うサスケは、リビングでコートを脱ぎ、辺りを見渡しながら言う。

「へえ、結構綺麗にしてるじゃん。家の中見て回ってもいい?」
「ああ」

 イタチが頷けば、「じゃあまず二階から」と階段を登っていった。
 サスケが部屋を見て回る間にコーヒーを淹れておこう。そう思ってリビングを出たとき、玄関の戸が開き、買い物袋を提げたが現われた。

「おはよう」

 そう言うイタチの顔を見た途端、は目を丸くした。

『もしかして、もうサスケが来てる?』
「もうサスケが来てるんだ」
『ごめんなさい。私、もっと早くに来れば良かったわ』
「予定よりずいぶん早かったんだ。悪いな」

 申し訳なさそうに言ったイタチに、もまた頭を下げた。

「兄さん、誰と喋ってるんだ?」

 その声と階段を下りてくる音に、二人は振り返る。サスケは兄の隣に居る女性に気付くと、面食らったような顔をした。

「家事をやってくれてるだ。あれが弟のサスケ」

 イタチが紹介すると、サスケは「ああ」と納得したように言った。

「家政婦を雇ったんだ。道理で家中が綺麗に掃除されてるわけだ」

 サスケはこちらに近づいてくると、の方に手を差し伸べた。

「サスケです。よろしく」

 は小さく頭を下げて、握手をした。何も言わない彼女に眉をひそめるサスケに、イタチは言う。

は外国人だから、あまり言葉が通じない」
「外国人?……へえ」
『あの、私、急いでお昼作りますね』

 じっと見つめてくるサスケの視線から逃れるように、は台所へ行こうとイタチの脇を通った。

「昼の支度か。悪いが、コーヒーも頼む」

 その背にイタチが言うと、はくるりと振り返って、

『コーヒーね』

と微笑むと、小走りで台所へ入って行った。
 リビングへ戻ろうと踵を返すイタチの隣で、サスケはが行った方を見つめたまま「外国人の家政婦か」と呟いた。イタチはその言葉に足を止めた。真顔だったサスケは、兄の視線に気付くとにっこりと笑んだ。

「兄さん?どうしたんだ、そんな恐い顔して」
「……いや」
「また見学して来て良い?この家の」
「ああ」


 二十分ほど経っただろうか。ソファに深く腰掛け、窓の外の白い山々を眺めていたイタチは、時計を見上げて目を細めた。コーヒーを頼んだはずだ。も「コーヒー」という単語を聞き取り、了解した。未だにがやって来ないので、イタチは不思議に思い台所へ向かった。

 名前を呼んでから台所を覗くと、イタチは目を見開いた。

「……兄さん」

 サスケはの頬に手を当てたまま、顔だけをこちらに向けた。はイタチに気付くと、跳ねるようにサスケから離れた。唇を噛んでうっすらと涙を浮かべるの様子を見て、サスケは口元に笑みを浮かべながら言う。

「あーお腹すいた。お昼楽しみにしてるよ、家政婦さん」

 そうしてサスケは台所から出て行った。

 沈黙は深く、長かった。鍋にからめた火がコウコウと鳴く音が聴こえるほど。そうしてイタチはマグカップに注がれたコーヒーに気付き、手に取った。は、あっと声を漏らす。冷え切ってしまったコーヒーを淹れなおすから、と言う風に首を横に振る。しかしイタチは見て見ぬふりをして、

「コーヒー、ありがとう」

とだけ言うと、リビングへ戻ろうとした。しかし、つんと袖を引かれ、足を止める。見下ろすと、が必死に何か言っている。おそらく、サスケとは何も無かった、誤解しないでというようなことを言っているのだろう。首をぶんぶんと振りながら涙をこぼしている。イタチはそんな彼女の頭をひと撫でした。途端に、それまで止めどなく発せられていたの声がぱたりと止んだ。

「分かってる」

 ゆっくりと言った。そうして背を向けると、リビングへ戻って行った。


「俺、別れたよ」

 昼食を済ませ、ソファに横になってくつろいでいたサスケが不意に言った。別れた相手は、イタチが数か月前まで付き合っていた女性だ。

「そうか」
「何。それだけ?」

 素っ気ない返事に、サスケは喉奥を鳴らして笑った。またあの女とよりを戻そうとも微塵も思わない。はじめから執着心も未練も何も無いのだ。

「兄さん」

 サスケは笑うのを止め、唇に指を当てがいながら、向かいのソファに座るイタチに言った。

「あの家政婦、良いね」
「……」

 サスケが笑えば全てが許せた。幼い頃からそうだった。手に入らなければ泣きながら地団駄を踏む弟。笑わせるためなら、何でも与えてやった。それが優しさなのだと信じていた。けれど、違ったのだ。

「ねえ。あの女、俺にちょうだい」

 こいつを物欲にまみれた人間にしてしまったのは俺だ。
 不意に、イタチがハッと息を吐くように笑った。

「情けないな」

 サスケは首を傾げ、「誰が?」と訊く。イタチは立ち上がり、サスケを見下ろした。

「俺も、お前もだ。俺は今まで優しさを履き違えてた」

 空になったコーヒーカップを手に取り、呆気に取られるサスケに背を向け、静かに言った。

「あの人は渡さない」

 そうしてリビングを出ようとしたとき、「どうして?」とサスケが咎めるような声を上げた。振り返ると、ソファから体を起こしたサスケが怒りか悲しみかを綯い交ぜにしたような表情でこちらを見据えている。

「――譲れないものは譲れないからだ」


 台所へ続く廊下を進むごとにはっきりと聞こえてくる音。水が流れる音、食器がぶつかる音。
 は今、皿を洗いながら何を想っているのか。コーヒーをもう一杯淹れてくれと頼む自分に、何と返すのか。いつものように、会話は噛み合わないだろう。しかし、あのもどかしさが愉快で、心地良いのだ。言葉が通じずとも。
 蛇口を閉める音を最後に、すべての音が止んだ。
 何も言わず静かに台所へ入ると、彼女はその気配に気付いて振り返った。頬に泡が付いている。それを指して微笑すると、彼女は急いで頬を拭った。

 呼ぶと、は真っ直ぐにイタチを見据えた。

「イタチ、サン」




映画『ラブ・アクチュアリー』のオマージュです。

Hommage of the rouge」投稿