「もつれ、ほどける」「一線」の続きです)




 柱を引退してただの宇髄さんになった元音柱は、今日も今日とて任務明けの私を捕まえ、居酒屋へと引きずった。
 任務前から倦怠感を覚えていた私は、正直もう今すぐにでも家へ帰って横になりたかった。酒よりも白湯が飲みたかったし、刺身より湯豆腐が食べたかった。
 けれどそんな思いは表に出さず、いつものように酒を胃へ流し続けた。宇髄さんに体調の変化を悟られたら、鍛錬が足りないと説教をされるのではないかと思ったから。
 けれどやはり、今のこの体と酒の相性は悪かったようで、酔いが回るのがすこぶる早い。定まらなくなりつつある視点を、皿に盛られた鮪の赤身に無理やり集中させていると、不意に「オイお前よぉ」という声が降ってくる。目線を上げれば、宇髄さんはどこか機嫌を損ねたように眉根を寄せ、口を尖らせていた。

「俺のこと、ただの宇髄さんって呼ぶのやめろ」

 てっきり体調不良が知られてしまったとばかり思っていたので、その言葉に、肩の力がふっと抜けた。
 どうやら宇髄さんは、この店に来る道中で私が言ったことを根に持っているらしい。なんと言ったか一言一句はっきりとは覚えていない。「また今日もですか。ただの宇髄さんになったから暇なんでしょうか?」そんなことを口走ったような気がする。椅子に座っているだけでも精一杯の今、確かな記憶をたどるのは難しい。

「引退したとはいえ、元柱だぞ? お前の命を救ってやった神だぞ? もっと敬え」
「何がだめなんでしょう」
「……いや、だから言ってんだろ。元柱である俺に――」
「だって宇髄さんは、普通の人間として生きるために一線から退いたんじゃないんですか? 私なりの餞の呼称だったんですけど」

 動きの鈍くなってきた頭でも、言葉はするすると出てきた。宇髄さんは面喰らったように目を開いていた。そうしてゆっくりと瞬きをすると、どこか諦めたように息を吐く。

「なーにが餞だ。お前が言うと舐めてるみてぇに聞こえるんだよ」

 その唇には、うっすらと笑みを滲ませている。宇髄さんは、よく笑う人だった。顔の筋肉がしなやかなのかもしれない。首から下はあんなにも隆々としているのに、人体とはよく出来ているものだとつくづく思う。
 宇髄さんは声を出しながら大笑いすることもあれば、こうして音もなく静かに微笑むこともある。感情表現の勉強になると思って、家で一人、宇髄さんの顔を思い浮かべながら再現しようとしたことがある。うちには鏡が無いから、果たしてうまく真似できたかどうか分からなかったけれど。
 喉に渇きを覚えて、手元へ目を落とす。先ほどまであったお猪口がない。その代わりにあったのは、白い湯気の伸びる湯呑み。

「お前の家教えろ。送ってってやるから」
「……はい?」
「具合悪いんだろーが。地味に隠そうとしやがってよ。こっちはそんなことなぁ、今日お前に声掛けたときから気づいてんだってーの」

 そうか、宇髄さんがいつの間にか酒と白湯をすり替えたのか。これだから元忍は恐ろしい。

「……じゃあ、お酒なんて飲ませないでくださいよ」
「俺がいつ飲めって言ったよ。お前が勝手にばかすか飲んでたんだろ」
「……気づいてたなら、居酒屋なんかに連れて来ないでください」
「だってお前、体調のこと気づかれたくなかったんだろ。じゃあぶっ倒れるまで泳がせておこうと思ったんだよ。俺のそばでな」

 言いながら、並々と酒を注いだお猪口をくいっと傾けて飲み干す。もう一杯飲もうとした宇髄さんの手から、私は徳利をひったくるようにして奪った。おい、と止められるのも構わず、徳利に口を付けると残りの酒を一気に飲んだ。喉が、胃が、焼けるようだった。

「ご心配おかけしました。でも私はもうこの通り復活したので、大丈夫です」

 言いながら頭が揺れた。それを止めるために、両手で頭を押さえる。一瞬唖然としたように口を開け放していた宇髄さんだったが、からかうように私の顔を覗き込むと、

「なにバカなことやってんだよ」

と、喉をくつくつと鳴らした。

「またそうやって、笑う……ただの、宇髄さんめ……」

 頭も口もうまく働かない。だんだんと体が前へと倒れていく。そのまま刺身盛りに突っ伏しそうになった。けれど大きな手のひらが、それを食い止めてくれた。私は宇髄さんが差し伸べた右手に額を預けるようにして、刺身との正面衝突を免れたのだった。

「まだ言ってんのか」
「……普通の人より、ちょっと体が大きくて……態度も、大きくて……奥さんの多い、ただの……宇髄さん」
「おし分かった。やっぱ俺のこと舐めてやがるな」
「普通の人よりも……」
「あーもうやめろ」

 私は額に当てられていた手を掴み、体を起こす。そうしてその骨張った手を、自分の頬へと合わせた。じんわりと熱が染み込んでくる。霞みゆく視界の中に映る宇髄さんは、まるで信じられないものを見るかのように、目を大きく見開いていた。

「普通の人よりも、ずっとずっと強くて……私を救ってくれた、ただの宇髄さん」





 声が聴こえる。いくつもの、知らない声が。
 臍の内側を引っ張られるような感覚で目を覚ますと、そこには丸々とした瞳があった。

「あー! 起こしちゃったじゃないですかぁ!」
「あんたがギャーギャー騒ぐからでしょうが!」

 私を覗き込んでいた女性は、もう一人の気の強そうな女性から頭をべちんと叩かれると、「まきをさんが打つー!」と涙を浮かべた。
 目だけを動かして辺りを窺う。ここは、藤の家だろうか。清潔そうな布団に寝かされ、七宝文様の浴衣に着替えている。隊服と刀はどこに、と身を起こそうとすると、

「お加減はどうですか?」

 しなやかな黒髪を一つに束ねた女性が、静かにそう尋ねた。布団を取り囲むようにして座る三人の女性たちは私をじっと見つめ、その返答を待つ。

「あ、はい……私は――ここは?」
「宇髄の屋敷です。宴席で具合を悪くされたようで、主人があなたを担いでここへ」

 宇髄さんの屋敷。主人。ということは、このお三方は――。

「私たちは宇髄の嫁です」

 気の強そうな女性が言った。その声は、どこか圧を孕んでいるように思えた。
 そうか。夫が酔い潰れた女を抱えて帰宅したら、関係を疑って当然だ。確か「宴席で」と言った。なるほど宇髄さんは、そういうことにしているのか。鬼殺隊の若手を集めてたびたび飲んでいるとか、なんとか。

「ご迷惑をおかけし、申し訳ありません。久しぶりに宇髄さまや仲間と飲み交わすことができたのが嬉しくて、つい飲みすぎてしまいました」

 私と宇髄さんの間には、太い一線がある。互いにそれを踏み越えようとしたことはないし、しようとも思わない。あの人にとっての私は、気兼ねなく飲みに誘える手軽な部下。居酒屋を出て別れ際に交わす口づけは、挨拶のようなもの。そこに意味はない。だから、奥様方に引け目を感じる理由はない。それなのにどうして、胸の奥底がひんやりとしているのだろう。彼女たちが送る探るような視線を、正面から打ち返すことができないのだろう。

「ほら、だから言ったじゃないですか! やましいことがあれば、妻の待つ家に連れ帰るなんてことしないって」
「ちょっ、と……! 須磨!」

 須磨と呼ばれる女性は、私の手を包むと目線を合わせて穏やかに言う。

「ご自分で気づいてますか?」
「……え?」

 一瞬、脳裏に宇髄さんの姿が浮かんだ。どくんと高鳴った胸を押さえていると、須磨さんは心配そうに「大丈夫ですか?」と首を傾げた。

「なんの、ことでしょうか」

 自分でも驚くほどに、低い声が出た。警戒するように上目で窺う私に、須磨さんは困惑の色を浮かべながら言う。

「月のものが始まったようですよ。それで体調を崩されたんだと思います」

 言われて気づいた。下半身に厚みを感じる。月経帯を着けてもらったのだと察し、気恥ずかしさに唇を噛む。
 いつから血が出ていたのだろう。もしかしたら、居酒屋で記憶を失くした私を、宇髄さんがこの屋敷まで運ぶ間にはもう――。

「隊服はこちらで洗っているところです。朝には乾くと思いますよ」

 黒髪の女性は言った。申し訳ありません、と力なく頭を下げて、ふと思う。今は何時だろう。障子の隙間から、橙色の光が差している。もう、陽が落ちようとしていた。どれほどの間眠ってしまっていたのだろうか。慌てて布団を出ようとすると、黒髪の女性がスッと手を伸ばし、私の動きを制した。

「今夜は非番だと聞きました。この部屋は自由に使っていただいて構いませんので、今日はゆっくり静養していってください」

 外から聞こえた鴉の鳴き声に、ああ、あの子が教えたのだなと理解した。他の鴉の声も聞こえる。宇髄さんの鎹鴉だろうか。鴉たちは、宇髄さんと私が居酒屋で飲み明かすのを店の外で待つ間に、親睦を深めたらしかった。
 宇髄さんや奥様方の住むこの屋敷で、一晩。確かに、隙間風が吹き込むような粗末な自宅よりも、ここに居た方が身体は回復すると思った。けれど、気が休まらない。

「滋養のあるもの、たくさん食べさせて差し上げますからね!」

 須磨さんはそう意気込む。人懐こい方だった。そんな彼女を押し退けてこの部屋を出ることはさすがにできないと思った私は、お世話になります、と頭を下げるのだった。
 


 宇髄さんは、どこにいるんだろう。
 あれからは上げ膳据え膳の状態で、布団から一歩も出ずに夜を迎えた。奥様方は入れ替わり立ち替わりに私の様子を見に来てくださるけれど、そこには宇髄さんの匂いも気配も、何一つ感じなかった。宇髄邸というのは嘘なのでは。そんな疑念が湧いては、いや何のためにそんな嘘をつく必要が、と打ち消した。
 じくじくと痛む下腹部を押さえ、布団を抜け出す。動きすぎるのも良くないが、安静にしすぎるのも毒な気がした。少し外の空気を吸おうと思い、障子を開ける。中庭の隅で干される隊服は、月明かりによって「滅」の刺繍が浮かび上がっていた。
 ――風が吹く。いつか宇髄さんは言った。「春の匂いがするな」と。春の匂いとは具体的にどんな匂いですか、と迫る私に、「こういう匂いだよ」と煩わしそうに返した。あのときの風と、同じ匂いがする。いくつもの草木の中にただ一輪だけ、小さくほのかに香る花を交えたような、そんな匂い。そして、そこに溶け込む麝香。それは宇髄さんから漂う香りだった。私にとっての春の匂いは、宇髄さんがいないと完成しない。そう伝えたとき、宇髄さんは「めんどくせぇこと言う女だな」と顔をくしゃりとさせながら笑ったっけ。

「――宇髄さん?」

 風に乗って届いたその香りに、辺りを見渡す。屋敷はひっそりと静まり返っていて、人の影はどこにも見られない。けれど確かに、香った気がする。見えない糸に手繰り寄せられるように、足が勝手に進んだ。
 廊下の角をいくつか曲がった先に、その部屋はあった。犬のように鼻をすんすんと鳴らす。やはりこの襖の奥から、宇髄さんの香りがする。襖に耳を当て、中の様子を探る。人はいないようだった。それでも香りの元が気になってしまい、そっと襖を開け、部屋の中へと忍び込む。
 座敷ランプが照らし出す殺風景な部屋には、日輪刀だけが置かれていた。近づいてみると、ほのかに麝香の香りがした。いつも宇髄さんの背にあったから、柄巻きにでも香りが染みついているのだろうか。傍には、刀を巻くためなのか、包帯が転がっている。それを手に取り、鼻を近づける。微かに宇髄さんの香りがした。もしかすると、宇髄さんはつい先ほどまで、ここで刀の手入れをしていたのかもしれない。

「……懐かしいな」

 この大刀に、救われたことがある。目の前に迫る鬼に成す術もなく、死を覚悟したとき。宇髄さんの刀が放った爆風で、私は助かった。その日を境に「お前の命を救った神だ」として下僕のように扱われるようになるのだが。
 悪鬼滅殺の刻印を目でたどり、鈍い光を放つ切先へと手を伸ばす。宇髄さんがこの刀を持って隊を率いることは、もうない。片手と片目を失った宇髄さんから「俺引退したんだわ」と聞いたとき、これでもうこの人と会うことはないんだと思っていた。鬼殺隊の柱と一隊士。それ以上でも以下でもない私たちを繋ぐものは、もうなくなったと。
 けれどそれは私の思い違いだった。宇髄さんは以前と変わらず、むしろ前よりも頻繁に私を飲みに誘ったし、口づけの回数も増えた。あの人の真意が分からない。分からなくていい、とも思っている。ただ願わくばもう一度だけ、この刀を持って転がるように駆け抜ける宇髄さんの姿が、見たい。
 そのとき、廊下の方から物音がした。

「……っ!」

 驚きのあまり、触れかけていた切先で右の薬指を切ってしまう。まだ酒が効いていて血行が良くなりすぎているのか、どくどくと溢れ出した血に動転してしまった。転がる包帯を掴むと、指を圧迫するように巻き付ける。けれど焦りのせいか手元が狂ってしまい、右手に巻いていたはずの包帯が、なぜか左の手まで巻き込むという、訳の分からない状態になった。
 襖が開き、風が吹き込む。振り向かずとも、その香りだけで分かった。

「おいおい、部屋抜け出して何やってんだ」

 宇髄さん。心の内で返事をして、ゆっくりと振り返る。お風呂上がりなのだろうか。着流し姿の宇髄さんは、髪がまだしっとりと濡れているように見えた。
 宇髄さんは私の両手の状態を見ると、にんやりと悪戯に笑う。

「なるほど。そういう遊びね」

 襖を音もなく、けれどしっかりと閉じ合わせると、宇髄さんは私の方へと近づいてくる。

「宇髄さん、私の血……」
「血?」
「月のものの……見てしまいましたか?」

 怪我を負って流れる血と、月に一度何もせずとも身体から垂れ落ちてくる血とは、その意味が異なる。決して見られたくないものだし、見せてはいけないものだとも思っている。宇髄さんの反応が恐ろしく思えて視線を下げていると、「見てねぇけど?」とあっさりした答えが返ってきた。

「ま、そんなことより。お望み通り縛ってやるよ」

 よかったと胸を撫で下ろす暇もなく、不意に宇髄さんに手を引かれて心臓が跳ね上がる。
 まるで手枷のように、両手首が包帯で縛り上げられていく。宇髄さんが片手と口先だけで器用に結び合わせていくのを、私はただ見つめていた。そうして、見たこともないような結び方に眉根を寄せていると、宇髄さんは得意げに言った。

「ほどき方は俺しか知らないからな。自由になりたきゃ媚びへつらってみろ」
「……こういう遊びは、よくやるんですか」
「は?」
「奥様たちと」

 その問いを、宇髄さんはハンッと鼻で笑い飛ばす。

「やんねーよ。あいつらならこんなん解くの朝飯前だわ。忍舐めんなよ」
「はあ、そうですか」
「ていうかお前、遊びってどういう意味で言った?」
「意味? そのままですけど」
「あやとりとかそういう類の遊び?」
「はい。それ以外にどんな意味合いがあるんですか?」
「……あっそ。てっきりお前も色気づいたのかと」

 何ですかそれ、と返そうとしたが、言葉を呑んだ。右手の薬指を覆う包帯が、じわりと赤く染まってゆくのが見えたからだ。宇髄さんもそれに気づき、

「は? 怪我してんのか?」

と、目を丸くした。

「そうです。怪我をしたから、手当てをしようと思って包帯を拝借したんです。なのに気づけばこんなことに」

 私が包帯で遊んでいると本気で思っていたのだろう。宇髄さんは「早く言えよ、そういうことはよ」と半ば怒りながら、きつく結んだ包帯を解いていく。

「あの、何を?」
「見て分かんねぇのか。巻き直してやるんだよ。あーあと、傷薬。あれも塗っといてやるか。確か隣の部屋に――」

 なぜだか分からない。けれど咄嗟に、立ち上がろうとした宇髄さんの手を掴んでしまった。宇髄さんは振り返る。掴まれた手に落とした視線を、そのままゆっくり私へと流した。

「なんだよ。もしかして心細かったとか?」
「いえ……別に」
「目覚ましたら知らねぇ家で圧の強い女三人に取り囲まれて、あんたうちの人の何なのよーとかなんとか詰問されて?」
「……されてません」
「じゃあなんだ、この刀見て懐かしくなったか」

 ふと影が落ちてくる。顔を上げれば、宇髄さんの瞳がもうすぐ目の前にあった。

「恋しくなったんだろ? 音柱さまのこと」

 言葉を紡ぐより先に、やわらかな感触が落ちてくる。いつもより長く、深い口づけだった。唇から離れると、宇髄さんは私の手を顔の高さまで持ち上げる。そうして、血がしたたる薬指をぺろりと舐めた。赤く湿った舌先が、私の血でさらに深い紅へと染まっていく。

「薬は後でな」

 囁くように言うと頭を撫でられる。そして宇髄さんはその手を滑らせ、私の浴衣の襟をそっと割った。不意に外気に触れたことで、ざわりと鳥肌が立つ。状況が掴めない私をよそに、宇髄さんはあらわになった肩口にふと目を留めた。
 
「お前また怪我したのか」

 それは先日の任務で、鬼の反撃を避けきれずに負った傷だった。宇髄さんは傷口に触れる。

「そこやっと治ってきたところなんで、あんまり……」
「うるせぇ。怪我なんかしてんじゃねーよ」

 身じろいだ私に宇髄さんは構わず、かさぶたへと唇を落とした。そのまま、ちゅっ、と音を立てながら首筋へ顔を移す。白銀の髪がさらさらと頬を撫でる。

「う、ずいさん……?」

 この人は一体、何をしようとしているんだろう。身体中が熱くなるのを感じる。首筋をつうっと舐められれば、あっ、と声が漏れてしまった。

「そんな声出すな」
「……だって、宇髄さんが――」

 宇髄さんは私の首元に埋めていた顔を上げ、再び唇を重ねる。割って入ってくる舌に驚き、押し戻そうとするが、そんな私の舌先すらも熱でほだす。互いの口端から漏れる吐息が、湿り気を帯びていく。ふと唇を離した宇髄さんは、右手の甲で私の頬を撫ぜた。そうして耳に顔を寄せ、囁く。

「ここじゃ駄目だ。外出るか」

 えっ、と首を傾げると、宇髄さんはわずかに目を細めた。

「何のために外へ?」

 途端に、宇髄さんの目の奥に宿っていた光は色を変えたように見えた。宇髄さんは、ふっと息を吐く。そうして、コツンと額を合わせ、

「ほんっとお前は何も分かってねーな。興が冷めたわ」

 言葉とは裏腹に、楽しげに笑った。

「どういうことですか? 何ひとつ理解できてないんですけど」
「気が向いたらそのうちゆっくり教えてやるよ。だから、今夜は大人しく寝ろ」

 宇髄さんは私の右手を取り、消毒しねぇとな、と言った。血はもう止まっていた。宇髄さんの唾液には特別な何かがあるのかもしれない。そんなことを思いながら、彼の背後にある刀へと視線をやる。

「ねえ宇髄さん。外に出るなら、刀を持って行きましょうよ。鬼が出るかもしれませんから」

 はあ、と語尾を上げる宇髄さんは、私の視線を辿って刀の方を見やる。しかしすぐに顔を戻すと、私を見据えて、きっぱりと言い放った。

「俺はもう、ただの宇髄さんだ」

 途端に、視界が遠のいていくように感じた。すぐそこに座っているはずの宇髄さんが、ずっと離れたところに居るかのように錯覚した。
 そうだ、宇髄さんは引退した。もう刀を背負った彼の後を付いて行くことは、できないんだ。互いを繋ぐものがまだあると思っていた自分が、愚かしい。宇髄さんはこの屋敷で、あの奥様方と、平穏に生きていく道を選んだ。

「――私、行きます」
「おう。部屋までの道、分かるか?」
「大丈夫です。お世話になりました」

 立ち上がれば、宇髄さんは座ったまま私を見上げた。
 もう居酒屋には誘わないでください。そんな言葉が頭の中で何度も響いた。けれど、口にすることはできなかった。

「どうか、お元気で」

 襖を開ければ、外は数多の草木と一輪の花を織り交ぜた香りに溢れていた。けれどそこに麝香はない。これが、これから私が毎年嗅ぐことになる春の匂い。宇髄さんがいなくても完成する、春の匂い。ちゃんと覚えてよ。そして春の記憶を塗り替えて。
 襖を後ろ手で閉める寸前、何か言葉を掛けられた気がする。けれど私はそのまま襖を閉めた。再び鼻先をくすぐろうと漂ってきた麝香を、断ち切るように。




(2022.03.15)

14th企画 / キーワード:忍び込む、包帯、望み通り
この二人、また一線を越えませんでした。
『残春』に続きます。



拍手を送る