お館様の命により始動した柱稽古。その第一関門は、元音柱による基礎体力向上訓練だった。
 私は遠征の任務に出ていたため、少し遅れての参加となった。指定された奥多摩の山に着けば、そこに広がっていた光景に思わず息を呑む。地面に伸びる隊士たちがうわごとのように「もう無理」「あの人こそ鬼だ」と吐いていたのだ。まるで骸のような隊士たちの様子を、冷ややかに見やる人の姿。――宇髄さんだった。大木の幹に背をもたれ、どこか不機嫌そうに目を細めている。そして、脇に挟んだ竹刀をおもむろに抜けば、地面に向かって勢いよく振り下ろした。地割れせんばかりの衝撃音に、隊士たちは跳ねるように起き上がり、我先にと山道を駆け下りていくのだった。

「何ぼけっとしてんだ。お前も早く準備して走ってこい」

 この鬼殺隊で宇髄さんと関わることなど、もうないと思っていた。あの春の日。宇髄邸で世話になったあの夜から、宇髄さんとは一度も会っていない。だから久しぶりにその姿を見たとき、まるで心臓が乗り移ったかのように、眼球がどくんどくんと鼓動した。一方の宇髄さんは、顔色ひとつ変えずに平然とした調子でそう命じたのだった。


 宇髄さんの基礎体力向上訓練は、ひたすら走り込みを行う。男性隊士は上半身裸になる者が多く、心底羨ましいと思った。というのも、汗がとんでもないほど噴き出るため、上着が肌に張り付き、そのせいでひどく心地悪いのだ。
 さすがにさらし姿で走るわけにもいかない。着替えも、着ているものも含めると二着しかない。早めに洗濯をしなければ、着るものがなくなってしまう。そのため午後の訓練が終了したのち、上着を洗おうと小川へと向かった。
 ついでに汗でも流そう。そう思いつつ歩いていれば、不意に呼び止められた。振り向くと、そこには見覚えのある男性隊士が。自分を覚えているかと問われ、記憶をたどる。そこで「あっ」と声が漏れた。そうだ。彼は、男女の営みに一度だけ付き合ってくれた隊士だ。
 彼は「元気そうで良かった」と言った。その耳は赤く染まっている。

「発熱してるの?」

 一日のうちに何本も走り込みをさせられたら、体調を崩す者も出てくるだろう。耳を赤くさせる彼もそうなのだろうと思い、その額に手を当ててみる。自分の額と比べてみるが、発熱と言えるほどの熱さは感じなかった。

「熱はないみたい」

 そう言って手を離せば、彼が苦悶するような表情を浮かべていることに気づく。どこか怪我でもしてるのか、と問いかけた時――。

「ッ……!」

 腕をぐいと引かれたと思えば、背中に痛みが走った。咄嗟に閉じてしまった瞼を押し上げると、彼が荒い息を漏らしながら私を見下ろしていた。茂みの中へ押し倒されたのだと気づいた時には、もう遅かった。汗に濡れた上着は釦を外され、さらしで巻いた胸があらわになる。

「忘れられなくてさ……あの時の感触が」

 言いながら、彼は私の胸をまさぐった。そうして、首筋や鎖骨に唇を這わせてくる。
 あの頃の私なら。男女の一線を越えるということに好奇心を抱いていたあの頃の私なら、きっとなんとも感じなかったはずだ。けれど今は、まるっきり違う。肌が粟立ち、筋肉が強張って。機能しない身体とは裏腹に、心臓は叫んでいた。
 ――いやだ、いやだいやだ、いや……!

「死にてえのか?」

 まるで地面から湧き上がってきたかのような、低い声。そんな地を這う声が聴こえたかと思えば、私に馬乗りになっていた男性隊士は、瞬き一つするうちに忽然と姿を消していた。呻き声の方へと顔を向けると、つい今し方まで私を組み敷いていた隊士が痛みに顔を歪めている。そこに、ゆっくりと近寄る影。

「――う、ず……」

 宇髄さんが、私に覆い被さる隊士を投げ飛ばしたのだった。その表情はよく見えなかった。けれど対峙する隊士が顔面を強張らせている様子から、決して穏やかな表情ではないのだろうと推測する。
 宇髄さんは震え上がる隊士の胸ぐらを掴み、無理やり立ち上がらせると、何かを告げた。隊士はたちまち色を失い、腰を抜かしたように這いつくばりながら逃げていくのだった。

「彼に何を言ったんですか?」

 地面に仰向けになったまま、宇髄さんの背に声を掛ける。すると、宇髄さんはゆっくりとこちらに顔を向けて言った。

「軽く脅しただけだ。アレを切り落とすぞって」
「……アレ、とは?」
「んなこたァ今はどうだっていいんだよ、ていうか察しろ。おら、平気か」

 宇髄さんは私の方へと手を伸ばす。無闇に触れてくるのではなく、助けが要るなら掴め、とでも言うように。

「……ま、平気じゃねえよな」

 宇髄さんがそう言った理由が、私には分からなかった。宇髄さんは懐から手拭いを取り出すと、私の目に押し当てる。

「なんですか? 新手の目潰し?」
「ばーか」

 じわり。布地に染みゆくこの感覚は今日、嫌というほどに味わった。けれど顔に汗をかいた覚えはない。何より、眼球から汗なんて出ない。それならば、今こうして押し当てられた手拭いに吸い取られていく水分は、一体なんなのだろう。

「さらし巻いてんのか」
「ああ、はい。走るときに胸が揺れて邪魔なので」
「へえ」

 宇髄さんはそこでようやく手拭いを引っ込めた。どうして私の目を拭ったんですか、と問う前に、宇髄さんは言った。

「お前、この稽古中は俺たちの部屋で寝ろ」
「……はい?」
「さすがに野郎どもと雑魚寝はさせられねぇだろ。俺の部屋なら、俺も嫁たちもいるから安全だ」

 お疲れさまです、と握り飯や汁物を振る舞ってくださった奥様方の姿を思い起こす。宇髄さんはこの訓練のために、お館様が所有する山を一つ借りているらしい。訓練中、隊士たちや宇髄さん一家は、山の麓にある藤の屋敷で世話になっていた。

「……屋敷の方に、他に部屋が借りられないか掛け合ってみ――」
「だめだ。それじゃ意味がないだろうが」
「意味がないとは」
「相変わらず察しの悪いやつだなぁオイ。分からねえか? お前を一人で寝かせられねえっつってんだよ」
「私なら平気です」

 宇髄さんは眉尻を下げ、どこか困ったような、呆れたような笑みを見せた。

「泣いてたやつが何言ってんだ」

 ――なく。なく……、泣く?

「私が?」

 いまだに地面に横たわる私は、こちらを覗き込む宇髄さんを見上げたまま首を傾げた。宇髄さんは何も言わず、ただ手を伸ばして、私の頭を撫でた。久しぶりの感覚に、視界が揺らめく。袖口から漂ってきた麝香に、喉奥が締まった。私を見る宇髄さんの目は、あの隊士とはまるっきり異なる。あれは飢えた獣のような目だった。おそろしかった。――そうだ。私は、おそろしかったんだ。

「う、ずいさ……」

 感情がようやく肉体に追いついたかのようだった。堰を切ったように目から溢れて止まらないこれは、きっと涙だ。私は宇髄さんにしがみつき、うああんと声を上げて子どものように泣いた。そうしながら、頭の片隅でこう思った。また宇髄さんに救われてしまった、と。

 ひとしきり泣いたあと、私は宇髄さんに連れられて藤の屋敷へ向かった。結局私の寝床は、宇髄さん一家のすぐ隣の部屋に決まった。屋敷の方が融通を利かせてくれたのだ。
 ただ、安全だからといって安眠できるわけではなかった。襖一つ隔てた向こうで宇髄さんや奥様方が寝ていると思うと、うかつに物音を立てられなかった。ただでさえ宇髄さんは耳がいい。何かあればすぐに知らせろと言われていたので、なんの気なしに打った寝返りの音で起こしてしまうかもしれない。初日の夜はそんなことばかりを考えてしまい、よく眠れなかった。

「もしよければこれ! 着てください!」

 身支度を整えていると、すぱんと襖が開いた。宇髄さんの奥様の一人――須磨さんはそう言って、紺地の着物を下さった。

「コラァ! あんた勝手に入って行ってんじゃないわよ!」
「ええっ! だって天元さまが色々助けてやれって――」
「だからって無遠慮に立ち入るんじゃない!」

 須磨さんはまきをさんに首根を掴まれて部屋へと引き戻された。襖が閉まる直前、須磨さんは言った。

「私のお古なんですけど、隊服よりもそっちの方が楽に動けると思うので!」
「あ、ありがとうございま――」

 最後まで言い切れないまま、襖は閉じられてしまった。一瞬だけ見えた宇髄さんたちの部屋。布団は丁寧に畳まれ、衣紋掛けには宇髄さんが昨日着ていた羽織が掛かっていた。宇髄さんと雛鶴さんの姿は見えなかった。きっと先に訓練所へと向かったのだろう。
 眠る時や起きた時に、隣に宇髄さんが居る光景。私はそれを知らない。けれどあの奥様方は、そんな光景を日常の一部として捉えているんだろう。宇髄さんもまた然り。共に寝起きするのが夫婦なのだろうか。
 そんなことを考えながら、須磨さんに渡された着物を広げてみる。肩口から先が切り落とされたそれは、いつも須磨さんや他の奥様方が着ているものと同じ形をしていた。確かに動きやすいだろうが、肌の露出部分が多くはないだろうか。ここまで襟首が開いたものは着たことがない。私は奥様方のような豊満な胸は持ち合わせていないし、どの道さらしは巻くので、見せる胸も見える胸もないに等しいのだが。

「……着てみるか」

 せっかくのご厚意を無碍にするわけにもいかない。何より、汗でぴたりと張り付くあの心地悪さは、もう御免だ。
 須磨さんの着物を纏って現れた私に、宇髄さんは一瞬呆気に取られたような表情を見せた。

「まあ、さらし一丁で走られるよりかはマシか」

 ハッと笑った宇髄さんは、じゃあ今日も気張れよ、と私の背を叩いた。その拍子につんのめってしまったけれど、宇髄さんは構わずに「おら走ってこい」と追い立てるのだった。


 それから十日後。宇髄家の隣の部屋で眠ることにようやく身体が慣れた頃、宇髄さんは私に、次の柱の稽古へ向かうよう告げた。

「もう行けるか」

 みなが走り込みを行うなかで、私は一人、世話になった部屋の掃除をしていた。畳を拭き上げている時、不意に襖が開いたと思えばそんな声が降ってきた。振り向くと、そこには羽織の左袖に手を突っ込んだ宇髄さんが立っていた。

「もうじき発ちます。あ、須磨さんからお借りした着物は洗ってお返ししますので」
「いつ?」

 予想外のその問いに、「え?」と尋ね返してしまう。てっきり、「そうか」と返されるのだとばかり思っていた。そんなに急いで返さねばならない着物だったのだろうか。もしかすると、須磨さんも着替えが足りていないのかもしれない。貴重な着替えの一着を分け与えてくれたのか。

「では、お屋敷の方に洗濯をお願いしてきます。おそらく明日には乾くかと思うのですが、それで間に合いますか?」
「そういうことじゃねーんだよなあ」

 宇髄さんはバツが悪そうに言うと、ため息を吐きながら腰を落とした。そうして、私と目線の高さを合わせ、淀みなく言う。

「また飲みに行くぞ。着物はその時に受け取る」

 ――ふつふつと湧き上がる、宇髄さんとの記憶。居酒屋で潰れるほどに飲み明かしたこと、何度も介抱してもらったこと、いつしか別れ際に口づけを交わすようになったこと。すべてはもう過去のもので、これから先、宇髄さんと私が新しい記憶を重ねていくことはない。そう思っていたし、そう覚悟していた。

「それは、できません」

 蘇芳色の瞳が、まっすぐにこちらを捉えている。その視線に正面から返すことができず、私は俯いてしまった。

「もう俺とは一緒にいられねえってわけか」
「一緒にいられる理由がないです。だってもう、私の上官でもないじゃないですか。ただの……ただの、宇髄さんだから」

 宇髄さんは「またそれかよ」と舌打ち混じりに言う。私は顔を上げ、宇髄さんを見つめた。眼帯に付けられた装飾が、障子の隙間から漏れる夕陽を浴びて橙色の光を放っていた。

「妻帯者の宇髄さんと独り身の私が一緒にいられる理由なんて、もうないでしょう」

 少しの間を置いたのち、宇髄さんはふと視線を落とした。

「お前は何をこらえてる?」
「――え?」
「手、震えてるぞ」

 言われて目を向ければ、膝の上で固く握り締めていたはずの拳が、ふるふると小刻みに震えていた。咄嗟に隠そうと腕を引く。しかしその片方を、宇髄さんの右手が捕える。

「飲み仲間だ。それじゃ不満か?」

 ――どうしてこの人は、私を放っておいてくれないんだろう。
 感情なんて知りたくなかった。知らなければ、いつ死に別れるか分からない人のことを考えたり、もっとそばに居たいと願ったりすることなんて、なかったはずなのに。

「……仲間、ですか」

 新たに提示されたその関係性に対して、少しも気が晴れないのはどうしてだろう。私は宇髄さんと、どう在ることを望んでいるんだろう。
 襖の向こうに見える宇髄さんや奥様方の布団が、私の呼吸をゆっくりと奪っていく。あれは契り合った男女の象徴。隣り合わせに敷いたその布団で共に寝起きし、交わり、明日を紡いでいく。
 目に見えぬ真綿で首を締められているかのように、ゆっくりと、でも確実に呼吸を忘れていった。そうしてついに息を失いそうになった時。唇に、熱が落ちてきた。

「……ふ、っ」

 吹き込まれる息に、肺が膨らんでいく。
 私が自力で呼吸できるようになったことを確認すると、宇髄さんは唇を離した。

「苦しかったな」

 宇髄さんはそう言って、まるで幼子を宥めるように頭を撫でてくる。私がその手を振り払えば、宇髄さんは片方の口角をゆるりと上げ、再び唇を重ね合わせてきた。今度は息ではなく、舌が差し込まれる。宇髄さんの厚く甘い舌が、逃げ惑う私の舌を執拗に追う。
 ――宇髄さんは、何を探してるの。私に何を求めてるの。
 その時。「天元さま?」という声と足音が廊下の向こうから聴こえてきた。私は宇髄さんの胸を力の限り押す。互いの唇から引き伸びた透明の糸が、ひどく淫らなものに見えた。
 近づいてくる足音から逃れるように、私は部屋を出ようと立ち上がる。けれど足腰の力が抜けていて、思うように身体が動かせなかった。

「お、お世話に……なりました」

 やっとの思いで立ち上がり、口ごもりながらそう伝えて部屋を後にしようとした私に、宇髄さんは言った。

「俺の知らねえところで死ぬな」

 ふわりと鼻先をくすぐる麝香の匂い。もう間近で嗅ぐことのはないと思っていた、宇髄さんの香りだ。
 振り向けば、宇髄さんは座ったまま私を見上げていた。

「死ぬな。生きろよ」

 有無を言わせぬその声音に、共に任務に当たっていた頃の感覚が蘇る。大刀を背負って転がるように駆け抜けていたあの音柱が、確かにそこに在った。すると、強張っていた胸の内側が、途端にほぐれたように思えた。

「はい。行って参り――」

 言葉はそこで途切れてしまった。宇髄さんの目が裂けそうなほど大きく見開いたことだけは、なんとか視認できた。宇髄さんに名を呼ばれた気がする。けれどもう何も聴こえない。突如として足元に出現した扉に、私は突き落とされていったから。扉の先に広がる無限の空間にはもう、麝香の匂いなど少しも漂ってはいなかった。




(2023.02.06)

夢主も鳴女によって無限城に落とされた隊士の一人でした。という突然の原作沿い展開(捏造設定マシマシ)
原作の宇髄さんは隊士たちが落とされる前にはすでに輝利哉さまの所にいた思うので、時系列については大目に見てくださると幸いです。



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