忘れられないふるさとの記憶。
 あの頃たしかに私たちは同じ場所で同じ時を過ごした。そのふるさとでの記憶が、たとえどんなに進む道が違えども、私たちを繋ぎとめておいてくれれば良い。私たちの、ふるさとが。



- 蝶の里 -
前篇 ふるさと




 春の日の下、蜜を求めて蝶は飛ぶ。甘ったるい風にそよぐ草花。山からおりてくる水のせせらぐ音。広がる田では百姓が腰を曲げて稲を植える。のどかな村の、のどかな春の風景。
 そんな村で、少女は駆けていた。手足をぶんぶんと振り、あぜ道を踏み走る。田からは転ばぬように注意する声が掛けられるも、少女は気づかない。夢中で駆けている。
 しかし突然少女は足を止めた。ゆっくりと瞬きを二、三度した後、ちろりと舌を出した。そうして親指と人さし指で舌先を摘まみ、何かを取り出す。

ちゃん。どうかしたんね」

 首を傾げて指先を眺めていた少女は、皺枯れた声の方へ振り向く。腰の曲がった老婆は田から出て、少女の立つあぜ道まで登ってくる。

「あのね、ムシが口に入っちゃったの」

 指を前に出して、そばまで来た老婆に言う。少女の小さな指の腹で、羽の生えた緑色の小さな虫が死んでいる。
 
「あれまあ。口開けたまんまで走りよったんじゃろ」
「わかんない。そうなのかなあ」

 首を傾げる少女は、くたりと横たわる虫に目を落とすと、

「ごめんね。食べちゃって」

と肩を落とした。老婆は皺を寄せて笑みながら、腰に下げた手拭いで少女の指をぬぐって竹筒を渡す。

「ほれ、水で口濯ぎんさいな」

 少女は頷いて竹筒を受け取ると、水を口に含む。頬を膨らませたりしぼめたりを繰り返した後、道の脇に水を吐き出す。

「ありがとう」

 少女と老婆はほほ笑みあった。春の風景を背にした屈託のない少女の笑みと、それを包みこむような老婆の笑みは、春の日のように温かだ。
 不意に少女は目を見開いて声を出した。「あっ」。

「わたし行かなきゃいけないんだった。おきぬおばあちゃん、ありがとう。じゃあね」

 口早にそう言うと、少女はくるりと背を向けて走り出した。

ちゃーん、そげん急いでどこ行くんかー」

 少し行くと、おきぬ婆の声がを再び立ち止まらせる。振り返るとおきぬの姿はもう遠くなっていた。耳の遠いおきぬに届くよう声を張り上げるため、は息を大きく吸う。

「あのねー!しょーよー先生のところー!」

 腹をぺたんこにするまで息を使い声を張ったは、「気をつけてなー」と手を振るおきぬに、満面の笑みで頷いた。
 





 村の外れ、小山を背景にして吉田松陽の寺子屋はあった。外からでも目を引く立派な桜木が門の隣に根を張っている。
 授業が終わり松陽も去った部屋で、子どもたちは談笑しながら帰り支度をしている。そんな無邪気な笑い声を背に、縁側で刀を抱いたまま座る少年は、庭の桜木を見上げていた。さあっと風が流れれば、枝から離れた花弁や、すでに地に落ちている花弁が舞う。身を踊らせながら。すると、その様子をぼうっと目に映していた少年の頭に花弁が踊り落ちる。銀色の髪に、桜色がよく映えた。
 垣根の向こうから足音が近づいてくる。音に気付くと、銀髪の少年は門の方へと目を移す。風が吹く。門の隣にそびえる桜が舞う。そんな中から、少女が現われた。

「ときちゃん!」

 縁側の少年に気がつくと、少女は嬉しそうに笑う。そうしてとことこと縁側まで駆けていくと、少年の頭を指しながら言った。

「ねえ。ときちゃんの頭、サクラがつもってるよ」

 そうして、くすくすと笑う。“ときちゃん”と呼ばれる少年は、言われて頭をぶんぶんと横に振ったので、花弁は飛んでいく。その様子がおかしかったのか、少女は手を叩いていっそう笑う。少年は少し罰の悪そうな表情で言った。

「ったく、そんなにおもしろいかよ」
「うん」
の笑いのツボ、浅すぎ」

 笑いやまないを横目で見ながら、銀髪の少年は後ろ首を掻いた。そのとき、板張りが軋む音がして少年は瞬時に振り返る。もつられて後ろを向き、そうしてほほ笑んだ。

「こたろー!」
「なんだ、また来ていたのか」

 “こたろー”と呼ばれた利発そうなその少年は、腕組みをしてこちらを見下ろしている。少年は長い黒髪を後ろで一つに結いあげ、女子のような顔立ちをしていた。

。今日はちゃんと寺子屋へ行ったのか?」
「うーん」

 黒髪少年の問いに曖昧な返事をしながら、は目をきょろきょろとさせ、部屋の中を見渡している。

「あっ」

 何か見つけたのか、は顔をほころばせた。
 
「しん!」

 言うと、急いで下駄を脱いで縁側へ上がり、そのまま部屋に入る。

「しん!」

 もう一度声を掛けると、手習い机に肘を突く少年はを見上げた。

「聞こえてる。二回も呼ぶんじゃねえよ」

 舌うち混じりに返す少年。そんな無愛想な態度でも、の笑顔は一つも曇らない。“しん”という少年の傍らに座り、その臙脂色の羽織の袂を握りしめて、にこにことほほ笑んでいる。特に珍しいことでもないのか、少年はただ舌を打つだけで、掴まれることを拒まない。

「ねえ、しん、こたろー、ときちゃん。もうお勉強おわり?もう遊べる?」

 の最後の方の言葉は、ちょうど上がった他の子どもの盛大な笑い声にかき消されてしまった。縁側の二人には届かなかったようで、黒髪の少年は首を傾げて「何だって?」と言い、銀髪の少年は「聞こえねー」と言った。
 は傍らの少年を見上げ、袂をぎゅっと強く握る。

「しん、立って」
「一人で行け」

 は、袂を掴んだまま少年を無理矢理一緒に立ち上がらせると、縁側まで引っ張って行く。そうしながら再び言った。

「もう遊べる?」

 強引に縁側まで連れ出された少年は、黒髪の少年と目が合うと思い切り睨みつけ、そっぽを向いた。その態度が癪に障ったのか、黒髪少年は盛大に鼻で笑い飛ばした。

「……おい、ヅラァ。なに笑ってやがんだ」
「ヅラじゃない桂だ。べつに笑ってはいない」
「しらばっくれてんじゃねえよ。てめぇ鼻で笑いやがっただろうが」

 を間に挟み、二人が口論をはじめた。今にも掴み合いそうになる少年たちを、は戸惑うように目を左右に動かす。

「ヅラ、高杉。そのへんにしとけよ」

 どこか締まりのない声が、息を荒げる二人の動きを止めた。銀髪の少年は、相変わらず刀を抱いて桜を見上げたままだった。

を忘れんな。ケンカすんならよそでやれっての」

 言われて二人が間のを見ると、少女は目にうっすらと涙を浮かべ唇を噛んでいた。

「悪かったな、
「おまえ、こんなことぐらいでベソ掻いてんじゃねえ」

 の頭を撫でて謝る黒髪の少年とは対照的に、もう一人は厳しく言うと袂にしがみつく手を強引に離した。

「銀時、ヅラ。てめぇらはに甘すぎんだよ」

 晋助は吐き捨てるようにそう言うと、縁側から下りて下駄を履く。は頭に置かれる小太郎の手から離れ、晋助の元へ駆けよる。

「しん、どこに行くの?」
「帰る」
「やだ、帰らないで。いっしょに河原で遊ぼうよ」
「そんな気分じゃねえんだ」

 今にも泣きだしそうなを振り切って、晋助は立ち上がった。

「……高杉、お前は残れ。おれが帰る」

 縁側に座り草履に足を通しだした小太郎に、晋助は振り返り、目を細めた。

「おれがいるから気分が乗らないんだろう。お前は河原でと遊んでやれ」
「おれが帰るって言ってんだろうが。しゃしゃり出てきてんじゃねえぞ」
「どちらにせよおれも今日は都合が悪いんだ。帰って今日のおさらいがしたい」

 言葉が終わると同時に駆けだした小太郎に、「ふざけんじゃねえ!」と声を張ると、晋助も後を追った。

「行かないでよー!しーん!こたろー!」

 競うようにして門を抜けて行った二人に、もうの声は届かなかった。むなしく響いた自分の声に肩を落とし、その場に蹲る。そうしては膝を抱えてしくしくと泣きだした。
 それまで黙って成り行きを見ていた銀時だったが、ついに縁側から離れて庭へ下りた。

「ほんっとバカだよなーあいつら。仲が良いんだか悪いんだか」

 銀時が脇まで来ると、は顔を上げた。鼻の頭を赤くして、唇を震わせている。銀時は身を屈めて、の視線に合わせる。

「お前もそんなに泣くな。まだオレがいるだろ?」
「ときちゃん……」

 声を震わせ、はぽろぽろと涙を零した。そんなに銀時はやれやれという風に首を振ると、小さな手を掴み、立ち上がらせた。

「おら、河原行くぞ」



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