「松陽先生。また、会いに来てしまいました」

 いつか寺子屋の皆で登った小山の頂に、吉田松陽の墓はあった。筆子達が師を偲んで作ったその墓は、村のすべてを見下ろすこの小山で静かに佇んでいた。
 松陽が亡くなって、もう何度目かの春が来た。毎年変わらぬ春の景色だ。桜も菜の花ももう散り、墓の隣にはハナミズキの花が咲いていた。淡い紅花の花弁が風に吹かれる。
 は墓前に座ってしばらく手を合わせた後、「先生」と語りかける。

「晋たちは、戦に行くことになりました。私も付いて行きたかったんですけど、彼らにも親にも止められました。女は戦場に立たせてもらえないんです」

 時代の波はもうすぐそこまで来ていた。この国はすでに天人に呑み込まれかけている。今さら抗っても仕方のないことかもしれない。それでも銀時たちは攘夷戦争に出陣すると、戦支度を始めていた。

「先生は言いましたよね。喧嘩とは何かを守るためのものなんだと。私だって、守りたいもののために戦いたいのに」

 が自分も行くと言うと、小太郎は諭し、晋助は怒鳴り、銀時はただ一言「駄目だ」と言った。三人とも、よりはるかに背が伸び、もう立派な大人の男になっていた。そんな三人の背を見上げ、は唇を噛み締めるしかなかった。この十年間で、女である自分を憎むことが増えた。

「私ね、先生。お嫁に行くことになりました」

 墓に刻まれる松陽の名を眺めながら、は続ける。

「同じ寺子屋だった徳兵衛。あの気弱な徳ちゃんの所に、嫁ぐことになったんです。徳兵衛はいま京で店をやってるから、私も来週にはこの村を発ちます」

 言葉に出してみると、嫁ぐということが途端に現実味を帯びてきて、は目をつむった。

「強引に取り付けられた縁談でした。このままだと私が晋たちの後を追って攘夷戦争に行ってしまうんじゃないかと、親が勝手に。私ももう二十だから、行き遅れない内に嫁がなきゃだめなんだってことは分かってますよ。でも、私は……」

 突然声が出なくなった。喉から込み上げてくるものをぐっと堪えながら、あの日の炎と煙を思い出した。変声期に大声を出すと、声がざら付いてしまうという。銀時はあの日松陽の名を叫び続け、今でも声に痕が残ってしまった。
 そんなことを思い返していると、記憶がさかのぼり始め、松陽の姿が鮮明に頭に蘇った。

「先生が生きてたら、なんて言うんでしょうね。先生が生きてたら、時ちゃんや小太郎、晋は……戦争になんて行かなかったんですかね。先生が生きてたら……」

 ぽたりとハナミズキの花が落ちた。それを横目で見ているの頬を、涙が滑り落ちた。

「どうして死んじゃったの」

 心のどこかで松陽を責めてしまうことがあった。彼が死んでから、三人の少年は変わった。身寄りを無くした銀時は、よく俯くようになった。小太郎は、賢さの中に過激な思想を孕ませるようになった。晋助は、すべてを否定して生きるようになった。先生は、なぜ死んだの。生きていたら、こんな今は無かったはずなのに。十年経っても松陽の死を乗り越えられないたちにとって、楽しかった日々は辛い思い出になってしまった。
 は涙を拭い、小さく笑った。

「先生の所に来る度に泣いてますよね、私。ごめんなさい。でも、ここでしか泣けないから」

 そうして墓をひと撫ですると、立ち上がった。
 村を見下ろした。百姓が田に入って腰を曲げている。おきぬ婆の小さな背中が見えた。銀時はおきぬの家で面倒を見てもらっていた。たまに仕事を手伝っている銀時がおきぬの近くに居るかもしれない。しかし、彼の銀髪はどこにも見当たらなかった。川を隔てた村の中心部には、小太郎と晋助の家がある。武家の子である二人の家には何度か遊びに行ったことがある。いずれも温かい家庭だった。
 彼らはそれぞれに守るべきものがあり、そのために戦場へ行く。は自分を思った。何のために嫁に行くのだろう。見知らぬ土地の、好いてもいない人のもとへ。まさかこの村を離れる日が来るとは思ってもみなかった。たとえ遠く離れても、ふるさとは心の中に在り続けるものなのだろうか。
 風が吹いた。ひときわ強い風が吹いた。はその風に背中を押されるようにして、小山を下り始める。






(2011.5.6)