「ぐちゃぐちゃに穢して、こわしてやりたい」

 徳兵衛は狂人だった。穏やかで面倒見の良いかつての徳兵衛の姿は、今はもうどこにも見られない。彼は三年間ずっと、非の打ちどころの無い、良く出来た夫を演じていたのだった。
 を抱いている時、徳兵衛は何度も「ちゃん」と呟く。毎夜のごとく強引に押し倒される中で、は気付いていた。彼は少女の頃の自分を抱いているのだと。現に彼は、を組み敷いて体に触れる時、まるで脆い物を扱うかのように丁寧に手を当てた。しかしその行為が終わると、突然幻から覚めたかのようにを乱暴に扱い、胸をえぐるようなことを言うのだ。「お前をこわしてやる」と、口元を歪めて加減無く頬をつねるのは常だった。

 逃げようと思っても、逃げられなくなっていた。徳兵衛が家を空ける時は、店の馴染みの同心に貸してもらったという鎖を土間の柱にくくりつけ、の片足首と繋いだのだ。この鎖は牢で使われるものなのだと得意気に言う徳兵衛の横顔に、は吐き気がした。

 徳兵衛は夕方から出掛けていた。近頃のは抗う気力を無くして、されるがまま言われるがままの状態だったが、それでも抜かりなく鎖で繋いでから家を出た。
 日が落ちても徳兵衛は戻って来なかった。暗い土間に体を横たえたは、足首から伸びる鎖をじゃらじゃらと鳴らしながら天井を見上げていた。もう闇には目が慣れていた。傍らに置かれた油皿と油徳利には手を付けず、ただただ鎖を弄び、梁を見つめるだけだった。
 幼い頃に一度だけ、蔵に閉じ込められたことがあった。実家が木材問屋を営んでいるは、売り物の木材にいたずらで傷を付けたのを父に知られ、罰として裏庭の蔵に一晩押し込められたのだった。ほこりの匂いにむせ、寒さに震え、闇に怯えた。何度も謝って、出して欲しいと懇願しても、声は虚しく蔵の中に響くだけで、誰も外から開けてくれる気配は無かった。夜通し泣きじゃくりながら、心の中で助けてほしいと叫んだ。この重たい扉を銀時や小太郎や晋助が蹴破って助け出してくれたらと願っていると、ふいに鈍い音が轟いた。そうして恋しい三人の声が扉の向こうから聞こえてきたのだった。
 。居るんだろ。助けに来てやったぞ。もう泣くんじゃねぇよ。

 遠い日を思い返した後、戸口へ目をやった。あの時のように、誰かが助け出してくれたらと願わずにはいられない。しかし外は静まり返り、人の居る気配は無かった。当然だと分かっていながらも、は絶望した。
 吐き気がする。胸を擦りながら、近頃治まらない吐き気に唇を噛んだ。そこで突然、頭を過るものがあった。するとは勢いよく身を起して、自らの腹を見下ろした。もしかして――。
 そう思った途端、傍らにあった油徳利を引っ掴み、頭から油をかぶった。そうして火打石を手に取った。
 ついに孕んでしまったのだ。未来永劫この地とあの男とを縛り付けるものが、私の帰る場所を奪うものが、今この腹の中に居る。もう耐えられない。それならいっそ、

「死んだ方がまし」

 は鎖に石を打ちつけた。力が足りないのか、火花は起こらない。石を握る右手を見ると、小刻みに震えている。
 火を見ると松陽先生の寺子屋から上がる炎を思い出す。徳兵衛が言った通り、確かにあの日を境に彼らは変わった。先生の居ない里を見る目が変わった。いつも遠い目をして、目には見えない何かを見ていた。そんな変化には気付かないふりをして、自分が三人の分も里を愛そうとしてきたし、三人に里を愛してもらえるようにしてきた。たとえこの先どんなに進む道が違えども、帰る場所は同じであってほしかったから。――でも、それは無理なのだ。徳兵衛がすべてを教えてくれた。
 もう一度。火打石を高く掲げて振りかぶったその時だった。



 瞬間、の目は大きく見開いた。



 闇に溶け込むようにして、もう一度名を呼ばれた。火打石はの手からこぼれ落ちた。息が止まる。耳はどくんどくんと鼓動していた。
 懐かしい声だ。幼い頃は毎日幾度となく聞いた声。

「し、ん……?――晋?」

 耳の奥から蘇ってくる声は、まぎれもなく晋助のものだった。
 戸の向こうに立つ人を思い、の唇は震えた。呼吸が乱れる。立ち上がり、戸口へと駆けた。しかし、じゃら、と音がしたかと思えば体は虚しく倒れ、顔面を地にぶつけた。それでも再び立ち上がり、駆ける。鎖に引かれ、転倒する。それを繰り返す内に足首が痛み、額や頬が擦れ、ついには鼻から生ぬるいものが流れ出した。

「晋、たすけ――」

 かすれるの言葉を遮るようにして、勢い良く戸が開いた。
 しかし、期待を込めて顔を上げたの前に立っていたのは、徳兵衛だった。途端に視界がかすみ、力が抜けた。戸に向かって倒れ、体中が擦り傷や土だらけのを凝視して、徳兵衛は重たい声で言った。

「逃げようとしたんだろう。馬鹿だな、鎖で繋がってるのに」

 「足首が折れてるんじゃないか?」との足を持ち上げ、赤く腫れるそこを突いた。びくりと反応を示すと、徳兵衛は鼻で笑う。

「ついに幻でも見たか?誰かがお前を助けに来る幻でも?」

 徳兵衛が鎖を手繰り寄せると、うつ伏せに倒れていたの体が引きずられた。そうして、血と土が混じり合ったの顔や体を嘲笑した。

「穢れてるなあ」

 徳兵衛は恍惚としたため息を漏らす。そうしての髪を掻き上げたが、指に絡みついた滑りに目を止めた。「油?」と呟いた徳兵衛はしばらく沈黙していたが、やがてすべてを悟り、血相を変えてを抱きしめた。

「何やってるんだよ。死のうとするなんて。何をやってるんだよ、ちゃん」
「……け、て」
「大丈夫だよ、ちゃん。僕がいるからもう大丈夫だよ。君をあの女に殺させはしないから」
「た……す、けて」
「僕が君を護るよ」
「助けて、晋」

 くぐもった声がはっきりと腕の中から聞こえると、徳兵衛は抱いていた体を突き飛ばした。じゃら、と鎖が鳴る。うつ伏せに倒れたまま、はしばらく動かなかった。ただ、唇だけは晋助の名前を紡ぎ続けた。徳兵衛は「やめろ」と耳を塞ぎながら下駄を脱いで部屋へ上がり、何かから逃れるように障子を閉めた。
 幻を見ているのはあの男の方だ。私はもうあの頃のじゃない。そうしたのは全部、徳兵衛なのに。
 は立ち上がり、流し台に立った。水がめから水を掬うと顔を洗い、着物の袖で拭う。そうして夕餉の支度をする時のように、ごく自然に包丁へ手を伸ばし、柄をぐっと掴んだ。鈍く光る鉛色のそれを眺めていると、どこからかカラスの鳴き声が聞こえてきた。格子窓から外を見やると、空が白みかけていた。もうじき朝が来る。
 は包丁を握ったまま振り返り、障子を見据えた。そうして、部屋の奥で晋助の名に怯え上がっているはずであろう徳兵衛を思う。どんな声色で、どんな言葉を掛ければ徳兵衛が動くか分かっていた。少女のような声音で「徳ちゃん」とでも言えば、徳兵衛は少年の目をして頬を緩ませるのだ。
 もう殺すしかない。幻想から目覚めるさせるには、もうそれしかない。
 柄を握り直し、は息を吸った。そうして徳兵衛を呼ぼうとした時――



 耳がどくんと鳴った。声のする方へ視線がたどり着くまでがひどく遅く感じられた。
 の開いた口からは「ああ」という声が途切れ途切れに漏れ、包丁は手から滑り落ちた。戸口にもたれかかるようにして――高杉晋助が、そこに居たのだ。

「しん……晋?本当に、晋?」

 風が吹いた。それに乗って、懐かしいにおいがした。
 派手な着物に身を包み、左目を包帯で覆う晋助は、戸から背を離した。

「お前にそりゃあ無理だ」

そうしてに近寄ると、

「代われ。俺が鬼になる」
 
 差し出された手は、かつての手の平よりもずっと大きくなっていた。はそれを見て気付いた。気付いた途端に、幼い日の記憶が指の先から遠のいてゆくのを感じた。

「晋……」
「お前ェは鈍くせーからな」
「晋」

 ――そうだ。私達は、もう、子どもじゃない。
 は晋助の顔を見上げ、にじみ始めた視界の中で懸命に彼の顔を捉え続けた。ついに視界が涙で埋め尽くされると、すがり付くように、まっすぐに伸ばされた手を握った。握ったまま膝から崩れ落ち、は声を押し殺して泣いた。
 晋助はの手を離す。そうして腰に差した刀を抜き、柱に向かうと、そこに巻きつけられる鎖を一太刀で斬った。

「なんだ!」

 鎖をたつ音に徳兵衛が勢いよく部屋から飛び出して来た。そうして土間に立つ晋助の姿を認めると、目が大きく開いた。「お、お、お、お前」とひどく吃る徳兵衛を見据えながら、晋助はに言った。

「早く出ろ。絶対に戻ってくるんじゃねぇぞ」

 きっとここは地獄になるのだ。晋助から放たれる殺気に、は唇を震えさせながら立ち上がった。

「い、い、行かないでくれ!ちゃん!」

 はふと立ち止まった。振り返って見ると、腰を抜かしてその場に尻をついた徳兵衛が、の方に手を伸ばしている。
 なんて情けない顔をしているんだろう。ついさっきまで私を征服して愉しんでいた人が、なんて顔をして、なんという声で私に救いを求めているんだろう。しかし憎しみはもう無かった。哀れむ気持ちも無い。過去にすがり、過去に生きていた自分の姿と徳兵衛が重なって見えた。自分も徳兵衛と同じだったのだ。決別しなければいけない。晋はそのために来てくれたのだ。

「もうあの頃には戻れないの。私達は、大人になった。さようなら」
 
 外に出て戸を閉めると、家の屋根で何羽ものカラスが羽を休めていた。京を囲む山々の向こうから、日が覗いている。明け方の澄んだ風の中に、花々や草木のかおりがした。どこからか水の流れる音がする。賀茂川の方だろうか。その方角へ向かって足を進めていると、バサバサ、と羽音が響いた。振り返って見ると、カラスが激しく鳴きながら、炎上する家屋の上空を旋回していた。


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