音柱とは、いわゆる一線を越えない関係を続けていた。ああ、もう引退したから音柱ではなく、宇髄さんだ。嫁が三人いる元柱の、ただの宇髄さん。

 相変わらず彼も私もザルで、私の任務帰りを狙って待ち伏せをしている宇髄さんに引きずられるようにして、いつもの居酒屋で長酒をする。そんな日々だった。

 一線の基準とは何なのか訊いたことがある。すると、それは男女の営みのことだと返された。男女の営みとは何か訊くと、「お前その歳で何言ってんの? おちょくってんのか?」と引かれた。

「宇髄さんがたまに私にする口付けは、男女の営みですか?」

 そう言った途端、ものすごい速さで伸びてきた手によって、私の口は押さえつけられてしまった。宇髄さんはそうしたまま、周りの様子を伺っているようだった。どうやら人に聞かれるとまずいことらしい。

「あれは違ぇよバカ。俺が嫁たちとやるようなことだ」
「……ああ、抱くってことですね? それを男女の営みって表現するんですか。知らなかった」
「あのさァお前……もっぺん言うけど、おちょくってる? 俺がもう柱引退したからって何しても良いわけじゃねぇんだぞ? 特にお前は俺に命救われてんだから、一生をかけて崇め讃え続けるべきで」

 そうして宇髄さんはまた訳の分からない俺神説を唱え始めたので、私はその間、黙って酒を飲み続けた。
 抱く、抱かれるという基準でいうと、確かに宇髄さんと私は一線を越えていない。
 一線を越えた男女はどうなるのかと訊こうとしたが、宇髄さんの雰囲気から、もうこの話はしたくないという気持ちを察した。宇髄さんから、人のことを考え、知って、関わってみるという無駄を教えてもらった私は、察するという技を手に入れつつあったのだ。




「お前、ちょっと雰囲気変わったか?」

 あれから、男女が一線を越えるとはどういうことなのか興味を持ってしまった私は、手近にいる口が堅そうな隊士を捕まえて、もちろん合意を得た上で致してみた。宇髄さんの表現で言うと、男女の営みをしてみた。案外、大したことないなと思った。何を越えたのかよく分からない。
 その数日後、いつものごとく任務帰りに現れた宇髄さんは、私の顔を見るなりそう言ったのだった。

「は? んでヤッたわけ?」

 いつもの居酒屋で一連のことを話すと、宇髄さんは目をひん剥いた。

「おいおいお前、ほんっとド派手にバカなやつだよな。え、後悔とかしてねぇの?」
「なんで後悔すると思うんですか」
「いや俺がこんなこと言うのもあれだが、初めては好きな男とがいいんじゃね?」

 前々から、この人は意外と感情論が多いんだなとは思っていた。私のなぜ、という疑問に対して、脳ではなく心に問いかけるような返答をすることがよくあったから。

「そもそも好きな男っていうのがどんなのか分からないです」
「あー、お前その辺すげぇ乾いてんだよなあ」
「乾く?」
「ここに水分が足りてねーんだよ」

 そう言って、宇髄さんは握った拳で自身の胸をトンと叩いた。

「ではお酒で潤しましょう」

 お前ってやつは、と吐き捨てるように言いながらも、宇髄さんは私に勧められるままぐいぐいと飲む。

「男女の営みって、大したことないんですね」
「好きでもないやつとやるからそう思うんだよ。この地味くそドちび」

 酒が深くなってきた頃、ぽつりと呟いた私の言葉に、宇髄さんはため息混じりにそう返した。いつもよりさらに口調が荒ぶっているのは、酒のせいだろう。

「で? その辺に転がってた地味なド下手男とやる前に、なんで俺に相談しなかった?」
「……相談したらどうなっていたんですか?」

 宇髄さんはお猪口を唇に当てがいながら、ふっと息を漏らした。そうして、それまで真っ直ぐに私の顔を捉えていた目を伏せる。ああこの人って、まつ毛が長い。頭の片隅でそんなことを思った。

「潤ってたかもなぁ。お前も、俺も」

 ああ、そうですか。
 今はまだそうとしか返すことができなかった。だって、宇髄さんの言葉の意味がよく分からなかったから。いや、分かってしまうことを拒む自分がいたから、なのかもしれない。
 越えられない、越えてはいけない一線が、確かにここにある。

「……それ、宇髄さんにも見えてますか?」
「あ? 何がだよ」
「いいえ。なんでも」

 お前ってやつは。そう言ったときの宇髄さんの声や顔が柔らかくて、私は目を伏せた。

「まつ毛長ぇな」

 そんな宇髄さんの言葉に、ふっと笑ってしまった。すると宇髄さんは不服そうに顔をしかめ、笑ってる余裕あるなら飲め、と徳利ごと押しつけてきた。

「はい。飲み明かしましょう」

 線を挟んで向かい合うこの関係が、ちょうど良い。きっと宇髄さんもそう思っている。だから今はまだ、このままで。



(2021.05.30)

春の匂い」に続きます。

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