11.忘れない



ちゃん、遠慮せんでね。寿美や貞子にはまだ大きいから、着てくれる子がいて私も嬉しいんよ」

 箪笥から次々に浴衣を取り出しながら志津がほほ笑みかけるので、は正座したまま恐縮そうに頷いた。たとう紙に包まれ、丁寧に保管されていた浴衣は、どれもくたびれることも虫に喰われることもなく、色鮮やかなままそこにあった。
 近所の夏祭りに行かないかと玄弥に誘われたのは、一週間ほど前のこと。小さい頃は毎年家族に連れられ行ったが、中学に上がってからは、誘い合う友達も思い浮かばず、この歳で家族と祭りというのも気恥ずかしくて、いつしか夏祭りは遠い思い出になっていた。
 だから、玄弥の口から「夏祭り」と聞いた途端に、あの空間の賑やかさが恋しくなった。二つ返事で行くと答えると、その翌日、今度は「浴衣着て行く予定?」と訊かれた。浴衣は持ってないからと言うと、玄弥は「なら、うちの母ちゃんが……」と少し照れ臭さそうに続けた。母が自分の浴衣をに着せたいと言っている、と。
 そんなやりとりがあり、夏祭り当日の夕方、は不死川家を訪れたのだった。

「どれか気になるものはある?」

 そう尋ねられ、は並べられた浴衣の一つひとつに目を落とす。
 
「古いものだと、明治とか大正の浴衣もあるんよ」
「えっ、そんなに昔の? わぁ……すごいですね」
「私がお嫁に行くときにね、実家の母が持たせてくれたものもあるんやけど。でも、ほとんどが不死川家で代々受け継がれてきたお着物でねぇ」
「……そんな大事なもの、いいんですか? 私なんかが着て」
「もう、ちゃん。また遠慮して」

 志津は顎を引き、茶目っ気をにじませた眼差しでを見る。その口元には笑みが浮かんでいた。

「おばちゃんは、ちゃんに着てほしいなあ。だって絶対に似合うんやもん。それに浴衣で夏祭りなんて、青春やないの」

 最後は囁くように言った志津に、は気恥ずかしさを誤魔化すように「どれにしよっかな」と視線を走らせる。
 そこでふと、一枚の浴衣に目を留めた。

「これ……」
「ああ、それ?」

 白地に赤い椿の模様があしらわれたその浴衣を見た途端、は自分の瞳がどくんと鼓動したように感じた。

「これはねぇ、結婚したときに、義理の母から直々に貰い受けたものなんよ。ご先祖さまが特に大事にしてたらしくて……」

 志津の声が遠くに聞こえる。
 代わりに頭の中で響いたのは、誰か、男の人の声――。

ちゃん?」
「――やっぱり……やめておきます。そんな大切なもの、お借りできません」

 言いながら、はふるふると首を横に振った。すると志津は語りかけるような口調で、

ちゃん」

と、腿の上でかたく握り締められたの手を、両の手のひらでそっと包み込む。

「着てあげて」
「でも……」
「その方が、ご先祖さまも喜ぶ」

 ――目の形が、不死川先生とそっくり。
 優しい眼差しをまっすぐに向けてくる志津に、は頭の隅でそんなことを思いながら、

「ありがとう、ございます」

 小さな声でそう返すのだった。



「あっ! 玄兄ちゃん赤くなってるー!」

 はやし立てる妹たちに「うるせぇ!」と声を上げる玄弥だが、その頬や耳は確かに赤く染まっていた。
 志津に着付けと髪のセットをしてもらったは、少し照れたようにリビングへと顔を出した。就也におやつをあげていた玄弥は、そんなの姿に気づくと目をカッと見開き、手に持っていたボーロを落としたのだった。

ちゃんすっごく似合ってるよ! もう毎日浴衣着てたらいいじゃん!」
「かわいー! ねーえ、玄にいもそう思うでしょ?」

 こぼしたボーロを拾いながら、玄弥がちらりとを見やる。しかしすぐに視線を逸らし、何も言わずに黙々と小さな丸い粒を摘み上げていくのだった。
 寿美や貞子がそんな姿をくすくすと笑うので、玄弥はもう一度「うるせぇな」と言う。そんな兄妹のやりとりを、はぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、ただ見つめていた。
 玄弥は寿美にボーロの入った皿を渡し、

「これ就也に食べさせといて。いっぺんに渡すなよ」
「床に落ちたやつじゃん」
「さっき掃除してっから大丈夫だって。ふーってしてからやれば全然食えるから」
「えー! 私もそろそろ家出なきゃなのにー」

 玄弥は頬を膨らませる寿美をよそに、を見やる。そうして、

「じゃあ行くか」

と、どこかはにかみながら言うのだった。




「玄弥! あれ、あれ狙って!」

 町名の入った赤や黄色の提灯たちが夜を照らす。公園の中央にあるやぐらの周りで、太鼓の音頭に合わせて人々が踊っている。そんな人の輪をぐるりと囲むようにして露店が並び、店主の威勢の良い声や走り回る子どもたちの笑い声、さまざまな食べ物のにおいで、普段閑散としているこの公園は夏の夜の活気に満ちあふれていた。

「はあ? あんなデカいの落とせねーよ」
「そんな弱音吐かずに! エースでしょ、地区大会優勝の男でしょ!」

 射的銃を手に、玄弥は仕方ねぇなとため息をつく。その背中をばしんと叩き、「いけるよ!」と声を弾ませるの視線の先には、最新ゲーム機が。玄弥にコルクを手渡していた射的屋の主人は、エース、地区大会優勝という言葉に、少し顔を引きつらせた。
 玄弥は上体を前に倒し、照準を当てる。集中しているのか、彼の纏う空気がピンと張った。それに構わず、は「あのね!」と声を掛ける。

「ずっと欲しかったの!」
「おう」
「やりたいゲームがあってね。そのシリーズは小さい頃から新作が出るたびに買ってて。でもゲーム機持ってないから最新作はまだプレイできなくて」
「……ああ」
「だから私――」
「だァーもう! ちょっと静かにしてろ!」

 はいごめんなさい、と口を手で覆ったに、玄弥はため息混じりに笑った。
 そうして再び体を倒し、ゲーム機に狙いを定め、すうっと息を吸う。

「これで玄弥が当ててくれたら私!」
「おい――」
「なんでもする!」

 パンッ、と放たれたコルクは、ゲーム機よりも遥か左へと飛んだ。玄弥の肩にしがみ付くようにして身を寄せていたは、「ええっ」と素っ頓狂な声を漏らす。

「どうしたの玄弥? めちゃくちゃ外れたよ。どれにも当たってないよ」

 玄弥は眉根を寄せ、頬を赤らめている。チッと舌を打ち、続けて二発目を放つも、その弾は菓子箱に当たった。次が最後ねと声を掛ける店主の顔には、どこか安堵の色が滲んでいた。




「はい、これお礼」

 玄弥が最後に放った弾は、ゲーム機の下、カエルのぬいぐるみに当たった。花壇の縁に腰をもたれ、手乗りサイズのそれを恨めしそうに眺める玄弥。人混みを掻き分けながら小走りで駆け寄ってきたは、そんな玄弥にフランクフルトを差し出した。

「……外したのに?」
「お礼というかお詫びかな。プレッシャーかけちゃったから」
「別にプレッシャーなんか。ただ、お前が変なこと言うし、くっ付くから……」
「変なこと?」

 フランクフルトを受け取った玄弥は、視線を逸らしながら言う。

「なんでもするって」
「え? それのどこが変なの?」
「……なんでもって、例えばなんだよ」
「えっと、それは……ハンバーガー奢るとか、部室の掃除をするとか、本当は嫌だけど宿題を代わりにやるとか?」

 はくいっと首を傾げる。

「玄弥のしてほしいことをするだけだよ。おかしいかな?」
「……お前なぁ」

 ため息の中に唸るような声を混じらせ、玄弥はきょとんとするの頬を摘んだ。「いひゃい」と情けない声を上げるに、

「そういうこと、他のやつには軽々しく言うんじゃねーぞ。あと体くっ付けたりすんのもダメだからな」
「ダメなの?」
「俺以外には」

 気恥ずかしさを隠すためなのか、ムスッとした顔でそう言った玄弥は、が言葉を発する前に、その口へフランクフルトを突っ込んだ。んんっ、と目を見開いただったが、いたずらっぽく笑う玄弥に眉根を寄せ、フランクフルトを引きちぎるようにして串から顔を離した。
 もぐもぐと咀嚼して飲み込んだのち、は玄弥の腕を叩く。

「もう! 浴衣が汚れたらどうすんの!」
「汚れねーよ。まだケチャップつけてねぇし」
「油とか垂れたらシミになるでしょ、もう。ばか玄弥」
「でもうまかった?」
「……うん」

 悔しそうに唇を尖らせるに、玄弥は吹き出すように笑った。
 はもともと食べることが好きで、二人でいる時もたいてい食べ物の話をしている。この間食べたあれがおいしかった、今度はあそこに新しくできたお店に行ってみたいなど、目を輝かせながら話すのだ。食への関心が薄かった玄弥だが、最近はの影響を受けて、テレビでグルメ番組が流れていれば自然と見入るようになっていた。
 そんなが、今日の祭りではまだ何も食べていなかったし、「食べたい」とも口にしていなかった。玄弥はそれが気掛かりだったが、浴衣を気にしていたのだと知ると、ふっと心配の種が消え、笑いが込み上げたのだった。

「食えよ。せっかくの祭りなんだし」
「そうなんだけど……」
「母ちゃんが貸したってことは、ちょっと汚したって構わない浴衣なんだろ」

 途端に、の顔つきが変わった。それは玄弥が今まで見たことのない、普段の無邪気なからは縁遠いような、そんな、どこか大人びた表情。

「それは違う。この浴衣はあの人にもらった大切な――」

 そこまで言うと突然口をつぐむ。目の力がふっと抜けたかと思えば、動揺したように視線を左右に泳がせた。

……?」

 玄弥は一瞬、でなくなったように感じた。は胸元をぎゅっと抑え、

「何言ってんだろうね、私」

と、力なく笑うのだった。

「玄弥兄ちゃん!」

 二人の間に流れていた沈黙を打ち破るように、底抜けに明るい声が響いた。玄弥の弟たちが大きく手を振りながらこちらへ向かってくる。
 その中には、就也の手を引く実弥の姿もあった。しかし実弥はの姿に気づくと立ち止まり、裂けんばかりに目を見開く。就也に何か言われたのか、我に返ったようにして歩み始めると、もうその目がを映すことはなかった。

「兄ちゃんたちこんなとこで何してたんだ? いちゃいちゃ?」
「は、なッ、お前なんだその言葉! どこで覚えて来たんだよ!」

 玄弥が弘の頬を軽く摘むと、弟たちはきゃっきゃと笑う。弟たちも実弥も、みな甚平姿で、弘やことは片手に綿菓子やヨーヨーなどを持ち、祭りを満喫している様子が見てとれた。就也は実弥の手から離れ、玄弥に抱きつく。

「ねえにいちゃん、ボーロちょうだい」
「寿美にもらったんじゃねーのか?」

 ううんと首を横に振った就也に、「あいつ」と玄弥は顔をしかめた。
 そんな兄弟たちから視線を移し、は実弥を見上げる。

「不死川先生、こんばんは」
「……おう」

 話しかけてみたはいいものの、どう続けるべきか分からない。は巾着袋の紐を揉み合せながら、あれこれと話題を考える。
 ――球技大会ではすごかったですねと言えば、煉獄先生に負けてしまったことを思い出させてしまうだろうから嫌がられるかな。玄弥との暮らしはどうですかと訊けば、教師のプライベートに踏み込むなと怒られるかな。

「その浴衣」

 その言葉にハッと顔を上げたは、実弥と視線がかち合う。それでも実弥は目を離さなかったし、もまた、まっすぐに実弥を見上げ続けた。

「あの、これは志津さんにお借りしました。ご先祖さまがとても大切にされていた浴衣だと」
「……そうかァ」
「そんな大層なものを私なんかがお借りしてしまって、申し訳ないというか、なんというか」

 不死川家の大切なもの。は志津に着付けをしてもらってからずっと、この浴衣に思いを馳せていた。
 明治か大正から受け継がれてきたこの浴衣には、どんな歴史があるのだろう。何を見てきたのだろう、と。身に纏っているこの衣の一織りひと織りから、誰かの想いが肌へと滲んでくるように思えた。そしてその誰かは、見知らぬ人ではない。そんな気がしてならなかった。

「似合ってる」
「――え?」

 今、なんて。
 は実弥の横顔を、ぽかんと口を開け放したまま見上げる。そんなへちらりと横目をやり、

「もう言わねェ」
 
 そう、少し笑いを含ませた声で言うのだった。
 はそんな実弥の言葉や仕草に、胸がどくんと鳴るのを感じ、息を呑む。
 この人のことを見つめ続けるのはまずい。本能がそう感じて、視線を逸らした先に見たもの――。

「……え?」

 一瞬、見間違いかと思った。しかしあんな髪色の人、そうそういるものではない。人混みが途切れ、そこに立つ人の姿を確かに認めたとき、の口からは声が漏れた。
 林檎飴を持つ杏寿郎。その隣には、浴衣姿の女性。親しげに笑い合う二人に、あんなにもどくどくと鳴っていた心臓が、高まっていた体温が、一気に引いていくのを感じた。

「来い」

 不意に袖をつんと引かれて杏寿郎たちから目を離すと、実弥が「こっち」と誘う。
 人混みを縫いながら、杏寿郎がいる場所とは反対の方へと進んでいく実弥に、は小走りでついて行く。そうして立ち止まったのは焼きそば屋の前だった。

「えっ、な、なんですか?」
「お前の顔色が悪ィから。どうせ浴衣に神経遣って、ろくに食ってねェんだろ」

 言いながら会計を済ませ、あふれんばかりに焼きそばが詰まったパックをへ差し出す。

「ガキじゃねェんだ。箸でうまく食えばこぼさねーだろうよォ」

 おずおずと受け取っただが、ふわりと香ったソースの匂いに目を輝かせる。そうして実弥を見上げ、

「ありがとうございます」

 そんな、何ひとつ曇りのない笑みを浮かべるのだった。








 ――全部揃っちまったと思った。あの頃、夢にまで見たもの。家族みんなで、笑って。

 どこからか蝉の鳴く声が聞こえてくる。空調は入っていても、決められた温度設定の問題か、それとも単に設備の劣化が問題か、夏の職員室は決して快適とは言えない。自分以外に人がいないのを良いことに、実弥は扇風機を机横に移動させ、風を浴びながら夏季補習の準備をしていた。
 小テストの採点をしつつも、頭の中ではあの夏祭りの夜を思い起こす。
 は焼きそばを慎重に口に運びながらも、おいしいと笑っていた。その周りで弟たちも好き好きに遊び、無邪気な笑顔を浮かべていた。あの時どんなに望んでも手に入らなかったものが、今ここにある。そう思った。

 ――あの浴衣……。

 あれは、に贈ったものだ。決戦の後、蝶屋敷での療養を終えた頃に、世話になった礼として贈った。まだ夫婦になる前の話だ。白地に赤い椿を選んだのは、なぜだったか。そうだ。どんなに凍てつきそうな雪の中でも耐え忍ぶ、ただ一輪の椿。そんな女だと、思ったから。
 柄にもないことをしたなと恥じる気持ちも、嬉しそうに浴衣を身に纏うの笑みで、途端に消え去ったのを憶えている。
 忘れることなどない。が見せた一つひとつの表情を、掛けた言葉を、与えてくれたぬくもりを。忘れることなんて、できない。

 ガラッ、と扉の開く音に、実弥はびくりと肩を上げた。そんな反応に目を細めるのは、つい今しがた扉を勢い良く開けた義勇だった。

「不死川、来てくれ。生徒がプールに集まりすぎた。監視員が足りない」
「はァ? 知ったこっちゃねェ。こっちにも仕事があんだよ」
「溜まった仕事なら巻き返せる。だが監視の目が足りず生徒が溺死するようなことがあれば取り返しがつかない」

 有無を言わせぬような物言いに腹が立ちつつも、確かに万一のことがあればマズいよな、と納得してしまった。義勇への苛立ちと、そんな自分の物分かりの良さにうんざりする気持ちとが織り混ざり、実弥は「チッ」と盛大な舌打ちを放つのだった。




「お前らも夏休みだってのに、よくもまあ学校のプールになんざ来るよなァ。暇すぎんだろ」

 プールサイドに現れた実弥に、すかさず女子生徒たちが群がる。先生も夏休みなのに学校来てるなんて暇じゃん、と声が上がれば、俺は仕事してんだよと呆れ笑う。その表情に彼女たちは悶絶するのだが、実弥はそうとは気づかず、ある程度のやりとりを済ませると監視塔に座る義勇へ声を掛ける。

「一時間だけだからなァ」
「ああ、助かる」
「代わりにメシ奢れよ」
「おはぎじゃなくていいのか」
「……テメェ。人にもの頼んでおいてイジってきてんじゃねェぞォ」

 ふっと笑んだ義勇は、胸元に挿していたサングラスを掛け、プールへと顔を向けた。くそが、と悪態を吐きながら、実弥はポケットに手を突っ込み、義勇とは反対の位置まで移動する。その道中だった。

!」

 女子生徒の金切り声が上がった。

「先生! が!」

 実弥は突き動かされるようにプールへと飛び込むと、女子生徒たちに体を支えられるへと一直線に向かう。ぐったりとするの脇の下へと腕を回し、「冨岡ァ!」と声を上げる。

「何があったァ」
「分からないんです、でもあの、気づいたら溺れてて……」

 駆けつけた義勇の方へと進み、の体を持ち上げ、義勇へと渡す。をプールサイドへと引き上げている義勇の隣で、実弥も水から上がり、の両脚を持って地面に横たわらせた。

「水を飲んでいるようだ。人工呼吸をしなければ」

 義勇はの顎を上に向け、その口元に向けて身を屈めようとした。が、ふと実弥に視線を投げる。

「……くそ、ッ」

 実弥は義勇の手を払うと、大きく息を吸う。そうして、青ざめていくの唇に口付けをした。その途端、周囲からどよめきが起こる。
 の眉がぴくりと動いたのを確認すると、実弥はその体を横に向ける。するとは、ごほごほと水を吐き出しはじめたのだった。

「おい、分かるか」

 ぼんやりとした目で実弥を見上げるは、

「――実弥…さん……」

 輪郭のはっきりしない声で、そう漏らした。実弥は目を見開き、その隣で義勇もかすかに眉を動かした。
 しかし次の瞬間には、

「えっ、あれ……不死川先生? 冨岡先生? なに、え、どうしたんですか?」

 目をぱっちりと開けたは、戸惑った様子で実弥と義勇を交互に見上げた。そうして自分の周りに人だかりができていることに驚き、慌てて体を起こすと、恥ずかしそうに身を小さくした。
 義勇が竹刀を地面に突きながら「散れ」と言うと、好奇の眼差しで群がっていた生徒たちはそそくさとプールへ戻って行くのだった。そうして義勇は自らのジャージをの体へ掛けると、保健室へ行くよう促した。

「……やってねェよ、保健室はよ」
「そうか。では不死川に病院へ連れて行ってもらうといい」
「はァ? 何言ってんだテメェは!」
「溺れた後なんだ。万一のことがあってはいけないだろう」
「……あ、あの、大丈夫です。病院には行かなくて、大丈夫です。家に帰ります」

 よたよたと立ち上がり、ジャージは洗ってお返ししますと言うと、は更衣室の方へと向かって行く。



 はふと立ち止まり、振り返る。実弥は後ろ首に手を当てながら、決まりが悪そうな顔で言うのだった。

「送ってく」





「この車、先生のだったんですね」

 実弥の車に乗り込む時、は驚いた様子でそう漏らした。はあ、と眉根を寄せる実弥に「いえ」と首を横に振ると、おじゃまします、と助手席に座った。しかしシートベルトを締めた後で、ハッと目を見開く。

「す、すみません、当然のように助手席に! 後ろ、後ろに行きます!」

 母が運転する車には、いつも助手席に座る。その癖が出てしまったことや、先生とはいえ男性の車の助手席に座るなんて畏れ多いことだと恥じた。そこは恋人のポジションだと、誰かが言ってた気がする。

「いや別に構わねェ」

 エンジンをかけた実弥は「それよりお前の家ってどこだ?」と訊く。
 着衣のままプールへ飛び込んだ実弥は、義勇がロッカーに年中置いている替えのジャージを借りることになった。ただ、下着は濡れたままなので居心地が悪く、を送り届けたらそのまま自分も帰宅しようと考えていた。

「カーナビ入れてもいいかァ? 履歴はすぐ消す」
「あ、はい全然。私がやりましょうか? 触っても大丈夫です?」
「おう、じゃあ頼むわ」

 お任せください、と大きく頷いたは、手慣れた様子でナビに住所を入れていく。
 事情があるとはいえ、助手席に生徒を乗せていることを他の教職員に見られるのも良くないだろうと、がナビの設定を終えると、実弥はすぐに車を発進させた。

「このカーナビ、うちのお母さんと同じなんです」
「どうりで慣れてんなと思った」
「休みの日に、よくドライブに行くんです。それでよく私がナビを扱うので」
「そうかァ」
「車っていいですよね。こうやって横並びに座ってると、同じ景色を同じ速度で共有できるじゃないですか」

 その言葉に実弥が横目をやると、は口に手を当てる。

「すみません。うるさいですよね」
「全然」

 ぺこりと小さく頭を下げたは、恐縮そうに眉を垂らしたまま言葉を続けた。

「すみません。今日は、先生にご迷惑をおかけしてしまって……。先生と冨岡先生が、プールから引き上げてくださったんですよね」
「……なんで溺れた?」
「情けないんですけど、足が……吊って」
「は?」
「吊ったと思ったら慌てちゃって、そのままゴボゴボと沈んでしまったみたいで……すみません、もともと泳ぐのは苦手でして」
「なんだァそれ」

 ハッと笑った実弥に、も緊張の糸がほぐれたように頬を緩ませた。
 の家は学園から距離があった。毎日の通学が大変だろうと実弥が言うと、音楽聴いたり本読んだりしてるとあっという間ですよ、と笑った。
 自宅近くにあるコンビニの前で、は「ここで大丈夫です」と言った。家の前は道が狭く、一方通行も多いので、と。実弥は頷くと、コンビニの駐車場へと停車させた。

「ありがとうございました。不死川先生と話せて、楽しかったです」

 シートベルトを外し、ドアを開けると、は跳ねるように下りた。

「風邪引くなよ。しっかり風呂に浸かれェ」
「はい、先生も」

 おう、と実弥が返すと、は目を細めて笑った。

「ではまた学校で」

 ドアを閉め、窓に向かって手を振ると、はくるりと背を向けた。
 小さくなっていくの背を見送り、その姿が消えた途端、実弥は深く息を吐きながらハンドルに突っ伏した。
 ――人工呼吸とはいえ、やってしまった。
 車中での様子から、には口付けをした時の記憶がないことが分かったが、それは時間の問題だろう。きっと、周りにいた生徒たちから聞くことになる。そうなれば距離を取られるのだろうか。
 の座っていた席に手を伸ばす。そこに残ったぬくもりや、唇が記憶する感触は、あの頃と何も変わっていない。欲する気持ちを抑え込むように、実弥はまた、深い息を吐く。

 は振り返ることなく歩き、コンビニの裏まで来ると、はあっと息を吐いてその場にうずくまった。
 ――きっとあれは、キスだった。
 唇に手を当て、あの時のことを思い起こす。唇にあたたかいものが触れ、目を開けると、そこには不死川先生がいた。何かを口走った気がする。それは分からない。けれど、唇に広がった確かなぬくもりは、憶えてる。






(2021.10.23)

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