13.知りたい



「見てみますか?」

 千寿郎が靴を抜ぐのを手伝ってから玄関を上がると、は改めてこの家の広さに舌を巻いた。
 こっちです、と千寿郎が指す方へと歩を進めていると、はふと、向かう先とは逆の方へと目を留めた。廊下の先に置かれるガラスケース。じっと視線を定めるに、千寿郎は穏やかにそう尋ねたのだった。

「えっ? いや! いいよいいよ」
「見てみましょう。むしろ見せたいです。あれは我が家の宝物なので」

 そう語気を強めながら、ガラスケースの方へとつま先を向けた千寿郎。それに合わせるように、も千寿郎の体を支えながら、ガラスケースが置かれる場所へとゆっくり歩きはじめる。

「この廊下の先には道場があるんです。そろそろ兄が戻って来るかもしれません。夕飯の匂いにつられて」
「……そっ、か」
「兄の授業はどうですか? 僕はまだ歴史の授業が始まっていなくて」

 期待を込めた目で見上げてくる千寿郎に、は視線を斜め上に向けたのち、

「えっとね、騎馬戦ばっかりしてるよ。体育の時間なんだっけと思うほど体動かすから……」

 そう言うと、千寿郎は少し不安げに「そうなんですか?」と眉を下げる。兄はちゃんと授業をしているのだろうか。そんな声が聞こえてくるようで、は慌てて言葉を繋いだ。

「歴史なんてさ、興味が持てなかったら苦痛でしかないと思うの。でも煉獄先生は、まるでその時代を見てきたように話すから、それが面白くてつい聞いちゃうんだよね。たとえば、和気清麻呂の名前が――」

 ハッと我に返ったようにして、は口をつぐんだ。フォローをしようとしていたはずが、いつの間にか夢中で話してしまっていたのだ。

さんも歴史がお好きなんですね」

 千寿郎へと視線を戻すと、彼は首をかすかに傾け、頬をゆるめていた。
 ――中学までは、歴史なんてただの暗記科目だとばかり思ってた。
 煉獄先生の教え方は、中学時代の歴史の先生とは違った。騎馬戦をよくやらせるけど、座学のときは、偉人たちの人間味あふれるエピソードや、当時の生活文化についての小話を挟んでくれる。だからなのか、教科書には載っていない、名もなき人々の暮らしを想像するようになった。
 これは確かに誰かの生きた証。年表に記されることのない個々の歴史へ思いを巡らせているうちに、だんだんとこの科目に興味を持てるようになったのだ。

「好きになったのかな。煉獄先生のおかげで」

 千寿郎はその言葉に、嬉しそうに目を細めて笑った。は照れたように唇を結んだが、ガラスケースの前まで来ると、

「刀……?」

 わずかに開けた唇の隙間から、そう声を漏らした。
 そこには、窓から差す夕陽を浴びてその身を輝かせる、一本の刀が置かれていた。

「よく見てみると、途中で折れた跡があるんですよ」

 言いながら、ガラスケースに指を当てる千寿郎。も顔を近づけて、千寿郎の指す箇所を見る。
 焔色の刀身に、「悪鬼滅殺」という文字が刻印されている。そしてその「殺」の上部には、確かに一本の筋が入っていた。

「悪鬼……」
「先祖が書き記した文献によると、この煉獄家は古くから鬼狩りの家系で――」
「鬼狩り?」

 眉根を寄せ、千寿郎の方を見やる。

さんは信じられますか? ほんの百年前まで、この世には鬼が存在していた……らしいんです」

 少し自信がなさそうな口ぶりではあるが、千寿郎はまっすぐにを見上げながらそう言った。
 煉獄先生とおんなじ目。はそんなことを頭の片隅で思いながら、ふと視線を逸らし、再び刀へと顔を向けた。

 ――兄の刀身を、見つけてくださったのですね。

 そんな声が、頭の内側から耳へと流れ込む。途端に目の前が霞んでいくように感じた。
 霞の先には、折れた刀が見える。血の滲む柄巻に、炎を象った鍔――。

「鍔はどこに行っちゃったの?」

 えっ、と声を漏らしたのは、千寿郎だけではなかった。言葉を発した自身も、「え?」と自らの口を覆ったのだった。
 それは、夏祭りで玄弥に「少しは汚しても構わない浴衣」だと言われた時と同じ感覚だった。意思とは関係なく、言葉が勝手に突いて出たのだ。

「鍔は、もともと無いようで……でもどうしてそれを?」

 千寿郎の問いに口ごもっていると、床の軋む音が廊下に響き渡った。振り返ったは、かすかに息を漏らす。すると軋む音もぴたりと止んだ。

「これは幻か? 煉獄家にがいるとは」

 目を見開いたままその場に突っ立つ杏寿郎に、千寿郎が「稽古お疲れさまでした」と声を掛ける。そうして事情を説明する間、杏寿郎はガラスケースの刀を見やったのち、反応を伺うようにを見つめる。けれどは杏寿郎の目から逃れるように、顔を伏せたままワンピースの裾をぎゅっと握りしめているのだった。



 食卓には、「うまい!」としきりに声が上がる。その度にが肩をびくりと跳ねさせるので、千寿郎は控えめな笑い声を漏らす。
 夕飯をご馳走になるなんてご迷惑では、と最後まで遠慮していただが、「いただき物の鰹があるんです。夫が急な寄り合いで出てしまって、せっかくの新鮮な魚を余らせるのがもったいないのでぜひ」と瑠火に勧められるまま、食卓についたのだった。

「杏寿郎、もう少し静かに食べられませんか。今日はお客さまがいらしているんですよ」
「そうでした! つい! うるさかっただろうか?」

 そう顔を向けられ、は「大丈夫です」と遠慮がちに返す。
 確かに瑠火の作ったタコの炊き込みごはんは、箸が止まらなくなるほどにおいしかった。しかしがはじめに一口食べたときに「おいしい」と漏らしたその声は、杏寿郎の「うまい」に掻き消されてしまった。

さん」

と、瑠火に差し出された小皿を受け取り、鰹のたたきを一切れ食べる。

「おいし――」
「うまい!」

 まただ。は、感想を伝えきれないもどかしさを感じながら杏寿郎へと横目をやる。一方の杏寿郎は、不意にかち合ったその視線に、不思議そうに首を傾げた。

「伝わっていますよ」

 静かに届いたその声に、は目を丸くする。

「お口に合って良かったです。ご飯もお味噌汁もまだありますので、どうぞ遠慮せずに」

 瑠火はそう言って、唇に笑みを浮かべた。
 心が読めるタイプの人なのだろうか。はそんなことを思いながらも、「ありがとうございます」と頭を下げた。
 間を繋ぐように、捻挫した足をさすりながら「そういえば」と千寿郎が口を開く。

「兄上は、捻挫をした状態で持久走大会に出たことがあるんですよね?」
「あれは走っている途中で挫いてしまってな! 仕方がないからそのまま完走しただけだ!」

 懐かしいな、と快活に笑う杏寿郎に、千寿郎が「さすが兄上です! 僕も兄上のように……」と勇んで立ち上がろうとするのを、スッと伸びた瑠火の手が制した。

「あの後、杏寿郎はしばらく歩けなくなりました。覚えていますか。お医者さまにもきつく叱られましたね? あまり無茶をするものではありませんよ」

 背筋を伸ばし「はい母上」と頷く杏寿郎の姿は、まるで十歳児のように見え、は奥歯を噛み締めて笑いを堪えた。そんな杏寿郎の姿は、当然学校では見ることができない。
 ――煉獄先生も、人の子なんだな。

「母上、もう一杯いただいてきます。君はどうだ?」

 すっかり空になった茶碗を持って立ち上がった杏寿郎を、は箸を片手に、じっと見上げる。

「先生」
「どうした!」
「ついてます。ごはん粒が、ここに」

 が自分の口元に指を当てて示すと、杏寿郎は「む」と唸り、手の甲で拭う。そうして米粒をぺろりと舐め取ったのを見て、は淡く笑むのだった。
 その瞬間、ごとり、と畳の上に茶碗が転がる。

「えっ、え? 大丈夫ですか?」

 杏寿郎の手からこぼれ落ちた茶碗と、目を見開いたまま立ち尽くす杏寿郎とを交互に見たのち、は茶碗を拾い上げる。

「割れなくて良かったですけど……」

 すると、杏寿郎は我に返ったようにして「すまない」と、差し出された茶碗を手に取る。

「君が笑うから、驚いてしまった」
「――え……」
「家まで送ろう!」
「ええっ?」

 話の展開に理解が追いつかず、は目と口を開け放つ。

「俺も今日は早めに帰ろうと思っていたんだ。明日から学校も始まるからな」

 その言葉に、は再び「え?」と漏らす。

「先生はこのお家に住んでないんですか?」

 言いながら、瑠火や千寿郎へと目を向ける。そこでは、二人が笑いを堪えるような表情でこちらを伺っていたので、煉獄先生のペースに困惑する姿がおかしかったのだろうか、とは恥ずかしそうに唇を結ぶのだった。



 空はすっかり夜の色に染まっていた。街灯の下、数歩前を行く杏寿郎を見上げながら、はその後ろ背に声を掛けるべきか否か思い悩んでいた。
 「兄は家を出て一人暮らしをしているんですよ」という千寿郎の声が蘇る。
 ――いつも着ているあのシャツも、皺一つないのは自分でアイロンがけをしているからなんだろうか。
 そこでふと、もしかすると一人じゃないのかもしれない、という思いがよぎった。
 ――誰かが、身の回りの世話をしてくれているのかも。それは夏祭りのときに見た、あの女性。あの人は、先生の……。

「どうかしたか? 眉間に皺が寄っているぞ」

 言われてびくりと肩を震わせただが、すぐにハッとした様子で眉間を擦る。

「タコ飯、先生はお代わりしなくて良かったのかなあと……」
「心配無用だ! また今度食べに帰ればいい。母には手間を掛けてしまうがな」
「……なら、いいんですけど」
「そのことが気がかりで、あんな険しい顔をしていたのか?」

 違いますとはさすがに言えず押し黙っていると、杏寿郎が続けた。

「気に病む必要はない。俺が、はやく君と二人になりたかっただけだ」

 その言葉に、は目を伏せる。
 ――よく分からない。煉獄先生の考えていることが。だってあの人が先生の恋人なら、どうして私に、そんなことを言うんだろう。

「この先に新しくハンバーガー屋ができたんだ。食べて行かないか?」
「……えっ」

 咄嗟に顔を上げると、杏寿郎は口角をきゅっと上げた。ハンバーガーという言葉に心が跳ねてしまった単純な自分を恨めしく思いつつ、

「でも……さっき夕飯をいただいたばっかりで、その、お腹が……」

 ほとんど呟くように言ったが、杏寿郎はそんなの言葉を漏らすことなく拾い上げ、

「それもそうだな!」

と、屈託なく笑うのだった。
 角のコンビニから出てきたカップルが、身を寄せ合いながら歩いていく。はやく帰らなきゃ溶けちゃうよ、という声が聞こえた。アイスを買ったんだな、家でテレビでも観ながら二人で食べるんだろうな。そんなことを想像していると、ふと玄弥の顔が浮かんだ。 
 ――恋人って、なんだろう。恋に落ちた二人が結ばれたその関係が、恋人? 私と玄弥は、互いに恋をしているんだろうか。もとは、私が煉獄先生から逃げるために始まった関係。玄弥は、玄弥の気持ちは……。

「二学期が始まれば、じきに文化祭だな! 君のクラスはどんな出し物をするんだ?」

 湿り気を帯びた夜の空気を割くようなその声に、は顔を上げる。

「……うどんとパンケーキを売ります」
「それは斬新な組み合わせだな! 君は何の係を?」
「ネギを刻む係です」
「そうか! ネギを! 苦手な生徒も多いが、栄養面としても彩りとしても欠かせない存在だからな。重要な役目だ。君も気合いを入れて刻むといい!」
「……ちょっとからかってます?」
「からっかってはいない!」
「そうですか。煉獄先生には恋人がいるんですか?」

 流れるように放たれたその言葉に、杏寿郎は一瞬、目を丸くした。しかしすぐにパチパチと瞬きを繰り返しながら、の顔を見つめる。
 一方のは視線をせわしなく右へ左へ動かしながら、早口で続ける。

「夏祭りで女の人と歩いているのを見ました。目が大きくて腰が細くて、肌も白くて……」

 言葉が尻すぼみになっていくのに合わせて、の頭もだんだんと下がってく。

「すごく、綺麗な人でした」

 沈黙が流れた。
 自分がどんな顔をしているかは分からない。それでもきっと、いつも通りではないはず。
 街灯の下にいればこの表情を見られてしまう。は咄嗟に、灯りの届かない暗がりの方へと後退りした。

「そうか。君も祭りに来ていたんだな」

 まるで、スポットライトが当たっているようだった。灯りの下で静かに笑む杏寿郎に、はぎゅっと目を閉じる。そうさせたのは、眩しかったからだけではない。言葉の続きを聞くのが、怖かったせいでもある。

「あれは母方の従姉妹だ」
「――え?」
「あの祭りには毎年、従姉妹や弟と一緒に行っている。これまで一度も、身内以外と祭りに出かけたことはない」

 ――そう、だったんだ。
 胸につっかえていたものが、途端に流れ落ちていくのを感じた。
 なんでこんなに安心してしまっているんだろう。けれど、胸が晴れたのと同時に、今度は別の何かが押し寄せて来る。その感覚に手のひらを握り締めていると、

「君は不死川少年と一緒に?」

 不意にそう尋ねられ、はうつむき加減で「そうです」とか細く答えた。

「楽しかったか?」
「はい。……でも、玄弥のお母さんから借りた浴衣を着ていたので、汚れたらいけないと思って……食べたいものを食べられなかったのだけが、ちょっとした心残りというか」
「心残りか。君は何が食べたかったんだ?」
「……お好み焼きです。ソースたっぷりの」

 杏寿郎が声を上げて笑うので、はつられて顔を上げる。

「君は意外と豪快なんだな」
「そうですか?」
「てっきり甘い物かと思っていたが、お好み焼きとは」
「スイーツより、ごはんものの方が好きです。……本当は文化祭も、B級グルメのお店がやりたかったんですけど、パンケーキ派が多くて。なんとかうどんだけはねじ込めました」
「見事な執念だ! うどんで好きなものは?」
「ごぼう天うどんです」
「ごぼう天?」
「はい! うどんにごぼうの天ぷらがトッピングされてるんです。置いてる店は少ないんですけど、その分ありがたみが増してよりおいしく感じるというか……私は、ささがきよりぶつ切りタイプの方が好き――」

 そこではハッと息を吸い、

「すみません……喋りすぎました」

と、さらに後ろへ退がった。その拍子にガードレールで腰を打ち、わっ、と声を漏らす。
 が腰をさすっていると、不意に伸びてきた手が、その腕をやさしく掴んだ。

「こっちへ。姿が見えていないと心配になる」

 腕を引かれ、灯りの下へと連れ出されたは、ゆっくりと杏寿郎を見上げる。
 眩しい。自然と目が細くなっていくのを感じる。

「それにしても、浴衣か。それは見てみたかった」

 杏寿郎はそれだけ言うと、の腕から手を離し、再び歩きはじめた。はその背を見つめつつ、どくどくと鳴る胸に手を当てる。そうして小さく息をつくと、杏寿郎の後を小走りで追うのだった。


 大通りまで出てしばらく歩くと、杏寿郎はふと一軒の店の前で足を止めた。腰をかがめ、店先に立つメニュー表をじっと見つめている。は看板を見上げ、「あっ」と声を漏らす。

「先生が言っていた新しいハンバーガー屋さんって、このお店ですか?」
「そうだ! 知っていたか?」
「ここ、うちの近くに本店があるんです。この街にも出店してたんだ……」

 再び食い入るようにメニュー表を見はじめた杏寿郎に、は諦めにも似た笑みをこぼし、「先生」と声を掛ける。

「食べて行きますか?」
「む、だが君は腹がいっぱいなんだろう」
「食べきれなかったら持って帰ります」

 杏寿郎の瞳に光が灯ったのを、は確かに見た。



 綺麗な食べ方だと思った。器用に食べる人。ハンバーガーって、食べるのはかなり難しいのに。特にグルメバーガーは高さもあるから、バンズから具がこぼれ落ちたりなんだりして……。
 そんなことを思いながら、目の前で「うまい!」と平らげていく杏寿郎の姿を、は食べるのも忘れてしばらく眺めていた。しかし「食べないのか」と訊かれ、慌てて一口頬張る。
 ――あれ、こんなにおいしかったっけ? 味付けが本店と違うのかな。

「おいしいです。すっごく」

 自然と笑顔になってしまったことは、自分でも分かっていた。それでも、頬が緩むのを止めることはできなかった。
 ――知らなかった。煉獄先生とこんなに自然な会話ができるなんて。こんなに、楽しいと感じるなんて。

「そうか。それは良かった」

 胸の奥底から漏れたような、そんな声色だった。そう言いながら穏やかな笑みを見せた杏寿郎に、は心の片隅で思うのだった。
 ――でもこの人は、前世の私が好きなんだ。今の私じゃない。



「すっかり遅くなってしまったな。親御さんに連絡をしなくても平気だろうか」
「平気です。まだ家に帰ってないと思うので」

 杏寿郎がわずかに眉根を寄せたのを見て、は「共働きで帰りが遅いので」と付け足す。
 ハンバーガー屋を出たのは八時過ぎ、の家の最寄駅に着いたのは、九時を少し回ったころだった。

「申し訳ない。俺が車を持っていればすぐに送り届けられたんだが」
「いえ、謝らないでください。車で送っていただいても、うちの近くは一方通行ばかりで道幅も狭いので、かえって大変だったかもです。不死川先生に送っていただいた時は、そこのコンビニで――」
「不死川?」

 途端に、空気が張り詰める。

「不死川の車に乗ったのか」

 しかしはその変化に気づかない様子で、

「え? はい、そうです」

と、首を傾げながら返す。
 杏寿郎がの方へ向き直り、声を発しようと口を開いたときだった。ぽつ、と肌を打つ感覚に、言葉が吸い込まれてしまう。

「――あっ、雨」

 手のひらを天に向け、夜空を見上げながらが言うと、それが合図かのようにして次々と雨粒が降り注いできた。
 雨の勢いに慌てるの腕を引き、杏寿郎は軒下を目指して駆けた。
 シャッターの降りた店舗の軒下に駆け込んだ二人は、白む景色に口を開け放つばかりだった。しかし不意に、が噴き出すように笑った。

「バケツをひっくり返したような雨って、このことを言うんですね」

 ――遠い日の、記憶。
 杏寿郎はその言葉に、あの時代のことを思い返した。と最期に過ごした、あの雨の日。

「先生」

 隣を見おろす杏寿郎と、見上げるの視線がぶつかる。

 ――杏寿郎さん。

 はつま先立ちをすると、杏寿郎の方へと手を伸ばす。そうして杏寿郎の口元を指し、

「ついてます、ケチャップ。ここに」

 「電車の中でも気づかなかったです。ごめんなさい、早く教えられなくて」と、くすくす笑った。

「……ッ」

 杏寿郎はを抱き寄せようと手を伸ばしかけたが、ぐっと堪えた。
 ――不死川少年とは別れろ。不死川のことは思い出すな。俺だけを――。
 湧き上がってくるそんな言葉たちを押し殺す。

「煉獄先生?」

 眉間に深く皺を刻む杏寿郎を、は少し戸惑った様子で、なおも見上げ続けた。
 杏寿郎は視線を逸らす。そうして、勢いよく降り続ける雨の向こうに、灯りを見た。コンビニだ。

「傘を買ってくる。君はここで待っていてくれ。すぐに戻る」

 ――「必ず戻るから」と、あの時もそう、心のうちで告げたのに。結局、戻れなかった。そして彼女は生きた。不死川とともに。
 杏寿郎は唇を噛む。そうして軒下から出ようとすると、その手首に、やわらかな感触が広がった。

――?」

 の両掌が、杏寿郎の手首を掴んでいた。それはまるで追いすがるかのようだった。

「――い、行か……」

 途切れ途切れの言葉の向こうで、瞳が揺れていた。しかしは我に返ったように目を見開くと、力なく手を離し、誤魔化すように明るい調子で言った。

「濡れちゃいますよ。すぐやむと思います。だから、ここで一緒に待ちましょう」



 その言葉通り、雨はすぐに降りやんだ。
 濡れたアスファルトの坂道を進んでいくと、が「あれがうちです」と指す。坂を登りきったところに建つ、白壁に淡いブルーの屋根の家。
 家の前まで来ると、は頭を下げながら言う。

「遠いところ、ここまで送ってくださってありがとうございました」
「俺の方こそ、今日は弟が世話になったな。君の好物のハンバーガーも一緒に食べられて良かった。あれはうまいな! 魅了されるのも無理はない」

 そこで杏寿郎は、ひと呼吸を置いた。

「今度こそもう、口も利いてもらえないものだと思っていた」

 ようやく雨が上がったことを知ったのか、夏の虫が鳴きはじめる。本当はもっと前から鳴いていたのかもしれない。二人の間に流れる沈黙が、虫の声に埋められていく。

「君のことをもっと知りたい」

 鳴き声の狭間に響いた言葉。

「また明日、学校で」

 杏寿郎はそれだけを告げると、踵を返して坂道を下りはじめた。

 その後ろ背に、は言葉を返すことができなかった。ただ、また会える明日だけを願う自分が、この体のどこかに在るのを感じる。そしてその存在は、あの雨の中、軒先を出ようとした杏寿郎に向けてひたすらに「行かないで」と声を上げていた。

 ――お前は、何を恐れてる?

 そんな宇髄の言葉が、耳に蘇ってくる。

「……また、明日」

 ようやく声が出たときには、杏寿郎の背中は小さく小さくなっていた。その姿が角の向こうへ消えるまで、はその背を見送り続けるのだった。






(2021.11.19)

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