14.別れてよ



「不死川先生とキスしたって本当?」

 二学期が始まったその日から、は実弥の取り巻きと思われる女子から呼び出しを受けては、そんな質問をぶつけられていた。
 決まって「あれは人工呼吸です」と返すのだが、その言葉だけだと「それがきっかけで不死川先生のこと好きになってんじゃないの?」と疑るような反応をされるため、

「不死川先生には命を救われました。あのとき先生が的確な処置をしてくださらなかったら、今ごろ私は……ただただ感謝しかありません」

 そう眉を下げながら話すと、大抵の女子生徒は解放してくれた。「処置」という言葉がポイントなのだと学んでからは、呼び出しを受けるたび、定型文のようにそう返すのだった。


 ――やっぱ普段通りにしとく方がいいよな。
 とは、昨日キスをしてから一つも連絡を取り合っていなかった。普段と同じように接するべきかどうかと考えあぐねた結果、いつも通りにを昼食へ誘いに来た玄弥だったが、教室内を見渡した後、訝しげに目を細めた。

「なあ炭治郎、は?」

 昼休みに入ったばかりの教室内は、喋り声やイスを動かす音などで溢れ返っていた。しかし、そんな弁当を広げる生徒たちの中に、の姿は見当たらない。
 パンの詰まった袋を机に置いて中を改めていた炭治郎は、そんな玄弥の言葉に「ああ」と手を止める。

さんなら、さっき出て行ったよ。なんだか今日は朝から忙しそうで……」

 首を傾げる玄弥に、炭治郎もつられて首を横に倒す。

「誰と出て行ったんだ?」
「ちゃんと見ていなかったから、詳しくは分からないけど……女子三人組みだったかな?」

 そこでようやく玄弥は、あっと目を開いた。
 ――兄貴の取り巻きだ。プールでのことがさっそく学校中に広まってんだな。
 炭治郎に礼を言うと、「パンを一つ持って行かないか? 今朝のはうまく焼けたんだ」と勧められるがまま断りきれず、玄弥はメロンパンを片手に駆け出すのだった。



 ――なんでわざわざ、ここに連れてくるんだろう。
 校舎三階の西側廊下。その突き当たりまで来ると、女子生徒三人はくるりと振り向き、うつむき加減のに鋭い視線をやった。
 は後ろの方で足音がするたび、振り返りたい気持ちをぐっと堪える。この廊下のすぐ向こうに、社会科準備室があるのだ。
 ――昼休みに入った煉獄先生が現れるかもしれない。きっと「何をしているんだ」と声を掛けに来るだろう。不死川先生とキスをしたのかと詰問されている、この場に。そうなってしまうと、きっと気まずい……。
 それなら早くこの話を終わらせてしまおうと、が先に口を開いた。

「不死川先生とのことは――」
「その話じゃない」

 きっぱりと言われ、の口からは「へ?」と気の抜けた声が漏れた。
 真ん中に立つ女子に、両サイドの生徒がエールを送るような目を向けている。その様子に、他の呼び出しとは何かが違うと感じ取ったは、

「えっと、じゃあ一体……?」

 恐る恐る言うと、サイドにいた女子生徒が痺れを切らしたように、

「この子、不死川くんのことが好きなんだよ。中等部の頃からずーっと」

 「この子」と指された中央の女子は、二つ結びのその毛先を眺めるようにして俯いていたが、「え?」と漏れたの声に、勢いよく顔を上げた。

「玄弥くんのこと裏切るなら、別れてほしいの」

 かすかに震える声だった。それでもその言葉はの頭蓋の内で鮮烈に響き、束の間、呼吸を奪った。
 ――裏切る?

「……私、裏切るようなことしてない」

 校舎のいたるところから、楽しげな笑い声が漏れ聞こえてくる。そんな朗らかな空気とは対照的に、廊下の片隅で立ちすくむ四人の間には、殺伐とした間が流れていた。

「あのさぁ、私見たんだよね。さんと煉獄先生が二人で会ってるところ!」

 サイドにいた女子がそう声を荒げ、ポケットから取り出した携帯を突きつけた。その画面に表示されるのは、杏寿郎とがハンバーガー屋から出てくる姿。それを見せられた瞬間、は瞳がどくんと鼓動するのを感じた。

「煉獄先生とは隠れてこんなことしてるし、不死川先生ともキスして。それなのに裏切ることしてないなんて、よく言えるよね。あんたには罪悪感とかないわけ?」

 放たれた言葉に、は画面からゆっくりと視線を外し、顔を怒らせる女子生徒を見上げた。射抜くような目を向けられたその生徒は、少し怯んだ様子で唇を結んだ。
 
「……玄弥くんが」

 空気へにじみ込むように、静かに響く声。の視線は中央の女子へと移る。

「玄弥くんが幸せなら、それでいいって思ってた。でもこのままだと、玄弥くんが傷つく未来しか見えない。……ねえ」

 一歩前へと踏み出した二つ結びの女子生徒は、の顔を真正面から捉えた。

「玄弥くんのこと、本当に好きなの?」

 途端に、喉がぎゅっと締まるのを感じた。
 恋人っぽいってなんだよ。そんな玄弥の言葉や、あの時の感触が蘇る。もしこの子が私だったら、キスされたことを純粋に喜べたんだろうか。こんなふうに、胸の片隅に仕舞い込もうとすることもなく。
 ――自分の感情が、分からない。
 は顔を背け、噛み締めた唇をかすかに震わせる。

「どうかしたか」

 途端、胸のざわめきがぴたりと止んだ。
 頭上で響いた声に、はゆっくりと顔を向ける。

「……先生」

 杏寿郎はへちらりと目をやったのち、女子生徒三人へと向き直る。そうしてサイドの女子が手に持つ、先ほどへと突きつけられていたスマートフォンに目を留め、「それは」と尋ねる。

「昨日、煉獄先生とさんが二人で会っているのを……」

 画面に表示される画像を、杏寿郎は瞬きすることなく見つめていた。生徒はおずおずとそう言うのだが、言葉が終わらぬうちに杏寿郎が「なるほど」と掻き消した。

は、怪我をした弟を家まで送り届けてくれてな。そのお礼にハンバーガーをご馳走しただけだ! もし弟の面倒を見てくれたのが君だったら、俺は同じことをする」

 言われた女子生徒は目を丸くしたのち、恥ずかしそうに顔を伏せた。

「そういうことだ! この話はこれでお終いだな!」

 まるで、淀んでいた空気を晴らすかのようだった。腕を組み、高らかにそう言った杏寿郎を、生徒四人は身動きすることも忘れてただ見上げていた。
 「」と声を掛けられ、は我に返ったように瞬きをした。杏寿郎が促すような視線を送る。それに気づき、女子生徒たちへ背を向けたところで、

「不死川先生とのことは?」

 中央の女子生徒が、咎めるような声でそう投げかけた。

「キスされたんでしょ?」

 振り向いたのは、杏寿郎だった。生徒へと向けた視線を、そのままへ移す。は顔を強張らせ、スカートの裾をきつく握り締めている。

「――違い、ます……」

 決めていたはずの定型文は、もうどこかへ行ってしまった。

「プールで溺れた私を救ってくださって……あれは、人工呼吸なんです」

 その言葉は、女子生徒たちにではなく、目の前の杏寿郎へと向けられていた。
 杏寿郎は眉間に皺を刻んだまま、「そうか」と吐息とともに呟く。

「それは教師として当然の対応だ。君も不死川も、何も責められることはない」

 杏寿郎はの後ろへと視線を投げ、

「そういうことだ」

 先ほどの快活さとはまるで異なる調子で、短く言った。言葉を向けられた女子三人は互いに顔を見合わせたのち、逃げるようにその場を去るのだった。
 自分を見上げ続けるに、視線を合わせることなく、杏寿郎は言う。

「迎えが来ているぞ」
「――え?」

 杏寿郎はそれだけ告げると、踵を返して社会科準備室の方へと歩いていった。
 迎えって……。は辺りに目を配る。そうしてようやく、廊下の角からこちらへ顔を出している玄弥に気づくのだった。
 


 ――煉獄先生とが?
 を探して校舎内を走り回った玄弥は、ようやくその姿を三階の西側廊下で見つけた。の前に立つ三人は兄貴の取り巻きだろうと思ったが、よく見るとその中には中等部からのクラスメイトがいた。あいつも兄貴のファンだっけか、と不思議に思いながらも、仲裁に入ろうと踏み出した。が、空気を割くような声がそれを制したのだった。

さんと煉獄先生が二人で会ってるところ!」

 は突きつけられたスマートフォンを見て固まっている様子だった。
 ――どういうことだよ。二人で会ってるって。
 とっさに死角になる場所へと身を隠した玄弥は、顔を覗かせながら、途切れ途切れに聞こえてくる声へと耳をそば立てる。

「玄弥くんのこと、本当に好きなの?」

 は、と思わず声が漏れる。
 ――なんてこと、訊いてんだ。
 玄弥は目を見開いたまま、の後ろ姿を映す。すると顔を背けたの横顔が、わずかに見えた。唇を結び、眉根を寄せているが、そこにどんな感情がこもっているのかは知れない。
 玄弥は乗り出していた体を引き、廊下の壁へ背を張りつける。
 ――見たくない。聞きたく、ない。
 瞼をかたく閉じ、耳に手を当てた。けれど先ほど見たの表情は、瞼の裏にこびりついて離れない。
 恋人っぽいことなんて私たちには無理だと言った時、キスをした後で瞳を潤ませ見上げてきた時。あの一瞬一瞬のことをよく思い返せば分かることだ。の気持ちは、まだ――。

「そういうことだ! この話はこれでお終いだな!」

 塞いだ耳にまで届いたその声に、玄弥は角の向こうへ再び顔を覗かせた。杏寿郎とがこちらへ向かってくる。まずい、と思った時、二人は足を止めた。そうしてまた、あのクラスメイトたちと話をしはじめる。
 玄弥はまた、顔を引っ込めた。どくどくと鳴る胸を叩きつけながら、落ち着け、と自らに言い聞かせる。
 ――そんなこと、分かってただろ。付き合ってほしいと言ったのは俺だ。は彼氏のフリでいいって言ってたのに。だから、あいつの気持ちがまだ付いてきてないのは、当然だ。

「……分かってたのに」

 なのに目の前で、「本当に好きなのか」と問われて、あんな顔をされたら――。
 ふっと視界を横切った影。玄弥は顔を上げ、その影の主を目で追う。杏寿郎だった。彼は振り返ることなく足早に歩き、社会科準備室の前を通り過ぎて、そのまま階段の方へと消えていった。
 玄弥は角の向こうへ顔を出す。きょろきょろと辺りを見渡すと視線がぶつかると、

「玄弥」

 声はここまで届かなかったが、唇の形が確かにそう言っていた。は気まずそうに眉を下げている。
 玄弥は息を吸い、大股で一歩を踏み出した。

「……いつからそこにいたの?」
「たった今だけど」
「何か聞こえた?」
「なんにも。それよりお前もうメシ食った?」
「……ううん、まだ」
「俺も。今からダッシュで食堂行けば、授業にも間に合うんじゃねぇか。どうする?」
「私は――え、それなに?」

 言われてようやく、自分が片手にメロンパンの入った袋を提げていることを思い出した。炭治郎が律儀にも個包装をしてから渡してくれたのだ。

「食うか?」

 袋を差し出すと、は中を覗き込み、「メロンパンだ」と声を弾ませた。その様子に、玄弥は肩の力がふっと抜けたのを感じた。
 そうして、に袋を握らせながら言う。

「これだけじゃ足りねぇだろ。購買寄って教室戻るか」

 こくりと頷いたに、玄弥は唇を緩ませた。

「なんか残ってっかなー。からあげ棒とか食いてぇ」
「あっ、じゃあ私が奢るよ。メロンパンいただいちゃったし」
「いやいいって。俺もそれ、貰いもんだから」
「そうなの? 誰から?」
「炭治郎」
「あっ、竈門くんとこのパンか! じゃあ絶対おいしいね」

 じっとメロンパンを見つめたのち、は「我慢できない」とひと口かじりついた。

「おいしい!」

 たまんない、と身を揺らすを見ながら、玄弥は思うのだった。
 ――これから育んでいけばいい。ゆっくり、の気持ちを俺に向けていけば。



 職員室に戻って来た杏寿郎は、周囲が声を掛けるのをためらうほど重い空気を纏っていた。そうして他に目をくれることもなく、自席でパンを食む義勇へと向かっていく。

「冨岡。君はもう少し自分の仕事をした方がいい」

 反応を見せたのは、言われた義勇本人よりも、窓際の席で事務作業をしていた実弥の方が早かった。パソコンから目を離し、杏寿郎の方へと顔を向ける。そんな実弥と、自席に着くため椅子を引いた杏寿郎の視線が、ぶつかる。
 先に目を逸らしたのは実弥だった。しかし杏寿郎の赤い瞳は、なおも実弥の横顔を捉え続けていた。
 ぴんと張り詰めた空気を割くように、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。






(2021.11.28)

拍手を送る