15.見つける



 秋の香りが漂いはじめた中庭をぐるりと囲うように、色とりどりの看板を掲げた店舗が並んでいる。文化祭当日の空は、雲ひとつない澄んだ青空。そんな空とは対照的に、なかなか売れないうどんに仄暗い気持ちを抱えるを、クラスメイトの炭治郎は、

「大丈夫。陽が傾けば少し寒くなるから、そしたらうどんも売れはじめるよ」

と、語気を強めて励ますのだった。

「そうだ。俺、食券を配ってくるよ!」

 有り余った食券の束を手に、炭治郎は人の波間に消えていく。
 ――竈門くんは優しい。
 のクラスはうどんとパンケーキ、二つのチームに分かれて出店していた。炭治郎はパンケーキ担当でありながらも、時間が空くとうどんチームの手伝いをしに来る。本来ならこの時間の店番は伊之助なのだが、「俺は全店舗の食い物を制覇する男だ」と息巻いて姿を消してしまった。すぐ隣で盛況を見せるパンケーキチームを情けない顔で眺めるがよほど不憫だったのか、炭治郎は何かと手を貸してくれるのだった。
 確かに、空は晴れていても、吹く風は肌寒かった。は冷えてきた指先を温めるように、はあっと息を吹きかける。と同時に、眉根を寄せた。朝からネギを刻み続けたせいか、指先が青臭い。それが、漂ってくるパンケーキの甘ったるい香りと混じり合って、なんとも言えない匂いとなって鼻腔を襲ったのだ。

「うどんを一杯もらえるだろうか! 君が刻んだネギを大盛りで!」

 あまりの声量に、道行く生徒たちはこちらへと顔を向ける。完全に油断していたも、びくっと肩を跳ね上げたあと、体を硬直させた。

「煉獄先生……いらっしゃいませ」
「うむ! 賑わっているようだな!」

 賑わっているのは隣のパンケーキ屋です、と心のうちで返すを、杏寿郎は口角を上げ、大きな瞳で見おろしている。

「ところで、何うどんを出しているんだ?」
「……きつねうどんです」
「きつねか! ごぼう天だとばかり思っていた」
「本当はごぼう天うどんにしたかったんですけど、天ぷらは危ないからダメだって……宇髄先生が」

 文化祭を取りまとめる担当教員は、宇髄だった。「天ぷらなんてそんな派手なもん、ガキに作らせられるかよ。あれはお前、世界一危ねぇ料理よ? 地味にきつねでも出しとけ」と、あえなく却下されたのだった。
 鍋に麺をほぐし入れながら、はふと手を止めて杏寿郎を見上げる。

「一杯で足りますか?」
「到底足りないな! だがそれ以上もらってしまうと、他の人たちに行き渡らないだろう」
「平気ですよ。びっくりするほど売れてないので。余らせるとうどんがかわいそうですし、お好きなだけ食べてください」

 杏寿郎は腕を組んだまま、眉をぴくりと上げた。その反応に、は「あっ」と慌てて言葉を続ける。

「他のお店のフードも食べたいですよね、すみません。一杯買ってもらえただけでも十分嬉しいので」

 麺を茹でている間にも、パンケーキは飛ぶように売れていく。「手が足りないよ!」「炭治郎探して来て!」という声が飛び交う隣で、うどんブースには杏寿郎の他に誰も並んでいない。そんな周囲の様子を伺っているのか、一言も発さない杏寿郎に、は間を繋ぐように話を振る。

「不死川くんのクラスが出してるカレーがおいしいみたいですよ。煉獄先生はもう食べ――」
「十杯もらおう!」
「……え?」
「あともう十杯追加でお願いできるだろうか! 完食次第また買いに来る!」
「えっ、いや、でも先生、そんなに食べたら他の――」

 ぐっと近づいた杏寿郎の顔に、の言葉は途絶える。

「君のうどんで腹を満たす」

 耳元で囁くように言われ、は一瞬、呼吸を忘れた。

「――じゅ、十杯ですね! できあがったらお持ちするので、どこかで座って待っててください!」

 口早に言うと、「取り急ぎ一杯です」と器を差し出す。杏寿郎はそんなの手がかすかに震え、その耳がほんのりと赤く染まっているのに気づくと、

「いくらでも待とう」

と、ゆるやかに笑むのだった。




「地味なうどん出す店ってのはここか?」

 無我夢中で麺を茹でていると、不意に声が落ちてきた。ハッと顔を上げると、そこには宇髄が「よう」と片手を挙げて立っていた。

「なに忙しそうにしてんだ? 誰も並んじゃいねーのによ」
「その、大量注文が入って……」

 がちらりと目をやった先には、中庭の中央に設けられたイートスペースで、生徒に取り囲まれて談笑する杏寿郎がいた。なるほどね、と口元を緩ませた宇髄は、右へ左へと慌ただしく動くへと食券を突き出す。

「俺にも一杯くれ」
「え……宇髄先生がきつねうどん?」
「仕方ねーだろ。竈門のやつに押し売りされたんだわ。『うどんを! 買ってください!』ってつきまとわれてよ。なんなのあいつのあの真っ直ぐな目」

 最後の一言に、はたまらずといった様子で噴き出した。

「確かに、濁り知らずの澄んだ目ですよね」

 ふふっと笑うを、呆気に取られたように見おろしていた宇髄だったが、ふと視線を感じて振り返る。そこでは杏寿郎が、イートスペースの椅子に座ったまま、こちらをじっと見据えていた。
 ああやばい。妬いてやがるのかよ。あいつもめんどくせぇな。そんなことを思いながら視線を逸らした宇髄に、「そうだ」とが言う。

「地味なうどんになったのは、宇髄先生が天ぷらはダメだって認めてくれなかったからですよ」
「根に持ってんのか。執念深い女だなぁおい」
「そうじゃなくて」

 ネギの入った容器を片手に、少し鋭い目を向けてくる。それに構わず、宇髄は続ける。

「俺としては良いんだよ別に。たとえお前が天ぷら揚げてる間に目離して、鍋から火柱が上がったって。ド派手でおもしろいじゃねーの」
「……そんなヘマはしません」

 あのなぁ、と宇髄は呆れたようなため息を漏らす。

「お前に怪我させるとうるせーやつが多いんだわ。やいやい責められんのは監督者の俺なんだ。察しろよ」
「……うるせーやつ?」
「カーッ! 相変わらずの鈍ちんだな! ってことでお前は黙って地味うどんでも作ってろ」
「は、え、じっ……! きつねうどんです!」
「そうです! 地味うどんだなんて、きつねがかわいそうです!」

 と宇髄は目を丸くし、急に入ったその合いの手の主を見やる。

「……千寿郎くん?」

 宇髄の傍らに、「うどん」と書かれたピンクの食券を手にした千寿郎が佇んでいた。そうして彼は、にっこりと笑んで言うのだった。

「きつねうどんを一杯ください。僕もさんの刻んだネギを大盛りで」



 夕方になると、炭治郎の言う通り陽が傾いて寒くなってきたからか、「うまい!」と声を上げながら食べる杏寿郎につられてか、うどんの注文が急増しはじめた。人手が足りずに戸惑っていると「僕やります」と千寿郎が手伝いを申し出たので、調理をが、商品の受け渡しを千寿郎が行い、なんとかピークを乗り切ったのだった。

「千寿郎くん、これ食べれる?」

 客足が落ち着いたタイミングを見計らい、は近くの店で買ったチョコバナナを千寿郎へ差し出す。

「えっ、好きです! いいんですか?」
「手伝ってくれたお礼。本当はこんなんじゃ足りないぐらいなんだけど……」
「いえ、お役に立てたならそれだけで十分嬉しいです。いただきます」

 わーい、と頬張る千寿郎の横顔を見ながら、は胸を撫で下ろすように笑んだ。

「ああそうだ。また家に来てくださいと、母から言付かりました」
「……本当に?」
「はい。僕や母はもちろん、兄も楽しそうにしていたので。あっ、今度はぜひ父にも会ってください!」

 無邪気に笑う千寿郎に、は眉を下げる。

「ありがとう。でもダメだよ」
「えっ? どうしてですか?」
「……だって、煉獄先生のお宅だから。一生徒がそんな気軽には行けないよ。周りの目もあるし」

 千寿郎は、チョコバナナを見おろして何かを考えている様子だった。
 口元にチョコレートがついている。それを教えてあげようと、が口を開きかけた時だった。

「生徒じゃなくなれば、また来てくれますか?」

 千寿郎が顔を上げ、意を決したようにそう言ったのだ。

「兄上は、この学園を離れるかもしれないんです」

 一瞬、には視界がぐらついたように思えた。その後に続く千寿郎の声も、どこか遠くの方で響いているように感じられた。

「県外にある剣道の強豪校から、来てくれないかと誘われているみたいで……」

 胸の奥深くから込み上げた思いが、頭蓋のうちでこだまする。
 ――まただ。また、いなくなってしまう。




 文化祭の後夜祭として、校庭の中央ではキャンプファイヤーが行われていた。宇髄が生徒たちに店舗の解体で出た木材を集めさせ、「本当の祭りはこっからだぜ!」と火を放ったのだ。
 大きく燃え上がる炎を囲み、暖を取ったり芋やマシュマロを焼いたりする生徒たちがいる中で、玄弥とは校庭の隅に座り、そんな様子を遠巻きに眺めていた。

「あっという間に秋だな」
「そうだね」
「紅葉とか見に行くか?」
「うん、いいね」

 身の入らない返事に、玄弥は眉をしかめる。
 文化祭が終わり、互いの店が落ち着いてからようやく合流できた。その時からはどことなく様子がおかしく、店で余ったカレーを渡しても「ありがとう」と言うだけで、手を付けなかった。
 玄弥はの傍らに置かれた、冷えきったカレーに目をやる。

「ずっと聞きたかったんだけどよ」

 二学期が始まったあの日、三人組の女子生徒たちに言われていた言葉。と杏寿郎が二人で会っていたという、あの言葉。思えば違和感はそれだけではない。入学して間もない頃、杏寿郎から呼び出されたが、顔を真っ赤にして戻ってきたこと。突然、彼氏のフリをしてほしいと言ってきたこと。
 聞いてしまえば点と線が繋がってしまうように思えて、それがどこか怖くて、なかなか言い出せずにいたのだ。

「なに?」

 が顔を向ける。玄弥はその目を見据えながら、言った。

「煉獄先生と、本当は何があったんだ?」

 の目に、わずかに力がこもったように見えた。玄弥は勢いに任せて、言葉を続ける。

「なんでお前は俺に、彼氏のフリしてくれって言ったんだ」

 聞いた後で、指が震えるのを感じた。玄弥はそんな指を見おろし、鎮めるように拳を握る。ふと視線を上げると、もまた、玄弥の指先を見つめていた。

「煉獄先生と私は――前世で、縁があったんだって」

 の声が静かに消えていく。その時、ぱちんっと音が弾け、どよめきが起こった。玄弥とは校庭の中央へと顔を向ける。「焚き火は爆ぜるもんなんだよ、ビビるんじゃねえ」と愉快そうに笑う宇髄。そんな炎の向こう側には、杏寿郎と、少し間隔を置いて実弥が立っていた。杏寿郎は、どこか気にするようにと玄弥の方へと視線をやっている。一方の実弥は、じっと炎を見つめていた。
 そんな二人から目を離し、玄弥はへと向き直る。もまた、火の粉を舞わせる炎を見つめていた。しかしその瞳は、次第に光を帯びていく。

「お前と煉獄先生って――?」

 あふれた光は、の頬を伝い落ちた。それが涙だと気づいた時、玄弥は慌てて「大丈夫か」とその背をさする。

「なんでだろう、なんか――」

 は涙を拭うこともなく、ただ炎を目に映しながら続ける。

「悲しくて」

 ある一点に視線を定めると、の瞳からはいっそう涙がこぼれた。玄弥がその目の先を追うと、そこには――。

「なんでだろう玄弥……」

 は杏寿郎の姿を視界に捉えて、涙を流す。なぜ泣いているのか自分でも分かっていない様子だった。それでも、込み上げてくる感情に抗えず、胸を押さえて泣いていた。

「煉獄先生を見てると、悲しくて」

 絞り出すように言ったを、玄弥は抱きしめた。
 ――こうやって、があの人を思いながら泣いたことが、ずっと前にもあった気がする。
 胸の奥底から湧いてくるのは、おぼろげに頭の中で像を成していくのは、一体――。
 玄弥もまた、を腕に抱きながら、込み上げてくる何かに抗っていた。


 が泣いている。杏寿郎は眉根をぴくりと動かすと、一歩を踏み出した。しかしすぐに動きを止める。

「不死川。手を離してくれないか」

 顔をの方へ向けたまま、振り返ることなく言う。そんな杏寿郎の腕を掴んで制す実弥もまた、涙を止めどなく流すを見据えていた。
 玄弥が、を抱きしめる。涙に溺れる瞳が杏寿郎を捉え続けていることは、実弥も気づいていた。玄弥も気がついたのだろう。の目元を、手で覆い隠したのだった。

「不死川」

 低く唸るような声だった。腕を引こうとする杏寿郎の力と、そうさせまいとする実弥の力が拮抗する。

「今は何もすんなァ」

 実弥がそう言ったせいか、それともが玄弥の背に手を回してしがみついたせいか、杏寿郎はふっと力を抜いた。
 実弥はそんな杏寿郎の横顔を一瞥した後、と玄弥の方へ目をやる。玄弥の胸に顔を押しつけると、そんな彼女の頭に顎を乗せ、ぽんぽんと背中を叩く玄弥。その目はどこか遠くを見つめていた。





 こんな朝が来ることを、誰が望んだだろう。
 血溜まりの中で座るその人。いつも目の前にあった、大きな背中。たくさんの命を守ってきたその背にはもう、力が籠っていないことを知った。
 負傷した隊士三名が運ばれていく。一人その場に残り、血溜まりに膝をつく。そっと手を伸ばすと、その頬にはまだ、ぬくもりが残っていた。心臓の鼓動が止まっても、まだしばらくは聴力が働いているという。そんな話を思い起こしながら、その人の耳元に顔を寄せた。けれど言葉を奪われてしまったかように、何も出てこない。
 いつも言葉を掛けてくれる人だった。いつだって、前を向かせてくれる人。けれどもう、何も返ってはこない。それがわかっていたから、言葉が引っ込んでしまった。もう返ってこないのだということを、確かめるようで。
 その身をやわらかく包む朝陽が、傍らに落ちる折れた刀を輝かせていた。お連れしよう、と涙を滲ませた声で言う同僚から目を背け、何かに誘われるように森へと入る。
 陽光が届かないはずの森の中で、それはまっすぐに光を放っていた。炎が揺らめくようなその刀身に触れた途端、あの日あの時たしかに在ったものが蘇る。

 ――君は俺を、見落とさないだろうから。

 見落としようがない。だってこんなに、あなたは眩しいから。
 手にした刀に、一粒の涙がこぼれ落ちた。しかしすぐ目頭を押さえて、涙を止めようとした。あの人が与えてくれたものを、ひとかけらも取りこぼしたくない。体から出ていこうとする総てを堰き止めたかった。

 ――もう一度、俺を呼んでくれないか。

 耳に蘇ったその声に突き動かされるように、森の中を駆け抜けた。

「杏寿郎さん」

 その人はまだ、朝陽に照らされる地に佇み、紡がれる言葉にただ耳を傾けてくれているようにも見えた。
 乾いた血で張りつく髪を掻き上げ、その耳に触れる。ぬくもりはもう、なくなっていた。何も返ってはこない。それを覚悟の上で、告げるのだった。

「――どうか見つけてください。私も、きっとあなたを見つけ出しますから。また、会いましょう」






(2021.12.06)

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