16.彼女は



 目を覚ました時、そこには見慣れた天井があって、目尻からは涙が伝い落ちていた。
 制服姿のまま布団も掛けずに眠っていたようで、指の先からつま先まで冷えていた。ひくひくと震える喉を押さえながら体を起こし、テーブルに置かれたペットボトルを手に、ひと口飲む。
 文化祭が終わってから、どうやって家へ帰って来たのかよく覚えていない。玄弥が送ってくれたような気もする。

「――あれは……」

 夢を見た。それは夢と呼ぶにはあまりにも鮮明で、まるで誰かの記憶を覗いているかのようだった。あの血溜まりの中で佇む人は――。

「……ただの……夢」

 だって、こうしてカーテンの隙間から覗く濃紺の空を見上げている間にも、少しずつ夢は輪郭を失っていくから。霞の向こうに消えていくから。
 これが宇髄先生の言う魂の記憶なら、こんなにも簡単に忘れることなんて、きっとない。




 が学校を休んだ。電話の向こうで「風邪引いちゃって」としゃがれた声で話すに「見舞いに行こうか」と言えば、「大丈夫」と返ってきた。ありがとう、と。
 いつもそうだ。が人を頼ることは、ほとんどない。だからあの時、「彼氏のフリをしてほしい」と言われた時、嬉しかった。そこにどんな事情があったのかは知らない。それでもに初めて頼ってもらえた気がして、嬉しかったんだ――。

「それ、俺が持ってくわ」

 女子生徒が遠慮するのに構わず、玄弥は彼女の腕に抱えられたノートの山を両手で挟み、何気ない調子で言う。

「日直の仕事って地味に多いもんな。次って伊黒先生の授業だろ? しっかり黒板消しとかねぇと面倒だぞ、あの人」

 すると女子生徒はハッとしたように黒板を見やり、じゃあお願いします、とノートを手離すのだった。



「煉獄先生。課題、持って来ました」

 職員室に入ってすぐに、実弥の視線が玄弥へと向けられた。玄弥も兄の方へちらりと目をやったが、すぐに杏寿郎の方へ移される。
 それまで他の教員と話していた杏寿郎は、その顔からふっと表情を消した。

「俺の記憶違いだろうか。今日の日直は君ではなかったはずだが」
「日直が忙しそうだったので、代わりに」

 言いながら、杏寿郎の机にノートの山を載せる。そうして玄弥は、無言で杏寿郎を見おろした。その物言いたげな目に気づいたのか、杏寿郎は席を立ち、

「日直の手伝いをするとは感心だな! ついでで悪いが、未提出の者には、今日の帰りまで猶予を与えると伝えてもらえるだろうか」
「……はい」
「助かる。では、俺はもう授業へ行くから、君もそろそろ教室へ戻りなさい」

と、足早に職員室を後にする。
 それを追うようにして出て行く玄弥の背を、実弥は椅子に深く腰掛けたまま見送った。傍らにいた胡蝶カナエに「不死川先生ったら、いつにも増して怖い顔」と笑われるまで、自分が眉間に皺を刻んでいることすら気づかなかった。

「弟くんとケンカでもしたんですか?」
「……いや、別に」

 ケンカにすらならない。夏のプールでの一件以来、玄弥は家での話をしなくなった。文化祭の夜もそうだ。玄弥は、を自宅へ送り届けてから帰って来た。大丈夫だったかと訊くと、「ああ」とだけ返し、そのまま部屋へ閉じこもってしまったのだった。
 の話だけではない。今までは、学校であったことを何でも無邪気に話していたのに、近頃はそれもしなくなった。玄弥は元気にやっているかと言う母、志津にその変化を告げると、志津は「思春期なんよ」と笑った。「いつかきっと、あんな時もあったよねって笑い合える日が来るから」と。
 母の言葉で、ふと思った。そんな日が来た時、はどこにいるんだろう、と。玄弥と付き合い続けているのか、それとも――。




、今日は学校休んでるんです」

 階段を上がっていく背に告げると、

「そうみたいだな」

と、言葉だけが返ってきた。振り向くことなく進んでいく杏寿郎の背を追い、玄弥は三段飛ばしで駆け上がる。

「煉獄先生は、をどうしたいんですか?」

 ちょうど踊り場に差し掛かった時だった。その問いに、杏寿郎はぴたりと足を止める。

「彼女から何か聞いたのか」
「……先生とは、前世から縁があるって」

 窓の外では、体操服姿の生徒たちがグラウンドへ集まり、吹く風の冷たさに地団駄を踏んでいる。

「縁、か」

 しかし杏寿郎の目は、そんな生徒たちを映してはいなかった。窓に反射する、玄弥の姿を静かに捉えている。玄弥はそれに気づくことなく、杏寿郎の背中に向け、口を開く。しかしためらうようにして、唇を結んだ。
 そんな玄弥から視線を外し、杏寿郎は腕時計へと目を落とす。

「好きなんですか。のこと」

 息が浅い。声も微かに震えている。手をかたく握り締めている玄弥の方へと振り返ると、杏寿郎は静かに答えるのだった。

「好きだ」

 まっすぐに返された言葉に、玄弥は一瞬、呼吸が止まるのを感じた。杏寿郎は瞬きをすることなく、射抜くような視線を向けてくる。
 玄弥は唇を噛み、瞼が震えそうになるのを堪えながら続ける。

「先生が好きなのは、今のじゃなくて……前世でのなんじゃ?」

 杏寿郎は、わずかに目を細めた。しかしすぐ、元の強い眼差しを向けるのだった。

「それは本人にも言われたが――だ。俺は昔も今も、変わらずに彼女のことを思っている」

 チャイムが鳴る。杏寿郎が「話はそれだけか」と問うと、玄弥は俯いたまま何も答えなかった。ただ肩を震わせ、拳を握っている。
 チャイムの間、杏寿郎は玄弥の言葉を待った。しかし一向に紡がれる気配はない。音が止むと同時に「じゃあ」と、杏寿郎が玄弥の横を通り過ぎようとした時だった。

は怖がってます」

 杏寿郎の腕を、玄弥が掴んだ。

「見ましたよね? 文化祭の日、あいつが泣いてたの。前世の縁だかなんだか知らねぇですけど、これ以上あいつを追い詰めるようなことはしないでください。煉獄先生のせいで泣く姿なんて、見たくないんですよ……だってあいつは――は、俺の彼女なんだ」

 つっかえながらも、最後まで力強く言い切った。
 なおも握り続けられる腕に杏寿郎が視線を落とすと、玄弥は手を離す。杏寿郎の腕には、玄弥の爪痕が残っていた。その痕をさすりながら、杏寿郎は言うのだった。
 
「勇ましいな。君はこの事実を知っても、そう言っていられるだろうか」
「……事実?」
「目を逸らさず、受け止めきれるか?」

 杏寿郎の問いに、玄弥は眉根を寄せる。束の間二人は、探るように互いの目を見合った。
 そんな張り詰めた空気を散らすように、どこからか足音が聞こえてくる。「あっ、煉獄先生いた!」「早く授業始めてくださいよー!」と口々に言う女子生徒たちへ、杏寿郎は軽く手を振る。

「はい」

 そう言った玄弥の声はもう、震えていなかった。
 杏寿郎は小さく頷くと、玄弥の耳元に顔を寄せて、囁くように言葉を落とす。

「前世での彼女は、不死川の妻だった」





 期末テストが近い。小テストで赤点を取った生徒たちを集めて補講をし、試験問題を作りつつ、日々の授業の準備もする。そんな忙しない日が続き、残業で夜遅くなることも珍しくはなかった。
 お先です、と悲鳴嶼に一声掛けてから職員室を出た実弥は、駐車場へ向かいながらスマートフォンへ視線を落とす。そうして、『メシ食ったか?』と、玄弥へ短文を送る。既読はすぐに付いた。
 鍵を開け、車に乗り込む。再び携帯を確認するが、玄弥からの返事はまだなかった。一応、適当になんか買って帰るか。そう思いつつ、エンジンをかけようとしたその時だった。

「不死川!」

 突然、助手席のドアが開いた。その大声と共に車体が揺れる。杏寿郎だった。

「邪魔するぞ」

 実弥が呆気に取られている間に、杏寿郎はそう断り、助手席へと体を収めるのだった。
 「いい車だな!」と車内を見渡す杏寿郎に、実弥は「おい」と声を荒げる。
 
「いきなり人の車に乗り込んで来てんじゃねぇぞォ」
「すまない! 驚かせたか」
「しかもお前、先に帰ったはずだろうがァ」
「君に話があってな! ここで二時間ほど待っていた!」
「……待ち伏せてたのかよ。怖ェわ」
「なかなか二人で腰を据えて話せる機会もないからな」

 何となく先を察した実弥は、杏寿郎から目を逸らす。

「俺は別に、お前と腰据えて話すことなんざ――」
「俺にはある。君に聞きたいことが」

 横顔に視線を浴びているということは、痛いほどに感じていた。それでも実弥は杏寿郎の方を向かず、フロントガラスを見つめている。

「教えてくれないか。君と彼女が、あの時代をどう生きたのか」
「……なんだァ急に」
「一人で悶々と空想を膨らませるよりも、真実を知って受け入れたいと思った。目を逸らすのではなく」

 実弥は視線をわずかに下げたのち、杏寿郎の方へと横目をやる。彼はまっすぐにこちらを見据えていた。決して引き下がりはしない。赤い瞳にはそんな思いが込められているように感じ、実弥は諦めを滲ませた息を吐く。

「後悔すんじゃねェぞ」






(2021.12.12)

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