20.大丈夫





 うっすらと瞼を開けたは、視界に入ったその人に目を見開く。言葉にならない声を上げて飛び起きたに、

「朝まで起きねェかと思ったわァ」

と、実弥はため息混じりに笑った。
 人の、それも不死川先生のベッドで寝こけるなんて。恥ずかしさに顔を赤くし、「すみません」と消え入りそうな声で繰り返す。

「いいからまずは家に連絡入れとけェ。ずっと鳴ってたぞ」

 言いながら、実弥はスマートフォンを差し出す。画面に表示された、母からの不在着信通知。は途端に顔色を変え、「まずい……」と呟く。

「ほら立て。送ってく」
「……えっ? い、いえ、そんなの悪いです」
「いいから早くしろォ」

 部屋を出ようとする実弥に、は恐る恐る尋ねる。

「あの、玄弥は……?」
「出て行った」

 実弥は振り返り、言葉を失っているを見やる。

「心配すんなァ。今日は実家に泊まるんだと。一晩経てば頭も冷えるだろ」

 実弥は「早く支度しろよ」と言い残して部屋を出た。
 閉められたドアを見つめ、唇をきゅっと結んだは、そのまま視線を落とす。そうしてスマホをタップし、母へと電話をかける。間髪入れずにスピーカーから響いてきた大声に、寝起きでまだ動きの鈍かった脳が、途端にぐるぐると回転しはじめたように思えた。



「お前、もううちに来んなァ」

 信号待ちの車内には沈黙が流れていた。それを静かに破るようにして、実弥が口を開く。

「玄弥のこともだ。どうも思ってねェんなら、付き合い方を考えろ」

 信号が変わる。青緑の光に照らされる実弥の横顔を見上げ、

「……はい」

 は小声で頷くと、視線をサイドミラーへ流した。
 車へ乗り込むとき、後部座席のドアを開けようとしたに、実弥は「前でいい」とぶっきらぼうに言った。
 ――やっぱり、後ろに乗れば良かったな。
 後続車のライトに照らされ、ぼんやりと浮き立つ後部座席。ミラー越しに見つめながらそんなことを考えていると、再び実弥の方から切り出した。

「……何の話だと思うだろうが、聞いてくれ」

 は「はい」と語尾を上げ、実弥へと顔を向ける。

「いつかお前がすべて思い出した時のために、今言っておく」

 信号の赤が車内を照らす。実弥はハンドルに視線を落とし、ひと呼吸置いたのちに言った。

「感謝してる。お前がいなけりゃ、俺も玄弥も今ここにはいなかった。お前が、繋いでくれた。――だが、もうあの時代とは違う」

 そこで言葉を切ると、瞬きを忘れたようにして見上げてくるへと顔を向ける。実弥の口元には、うっすらと笑みが滲んでいた。

「奪われねェよ、もう。お前の大事なもんは。だから今度こそ、本当に好きなやつと添い遂げればいい」

 青緑が車内へと差す。実弥は前へ向き直ると、ゆっくりとアクセルを踏み込むのだった。




 ――すべてを思い出した時のためにって、どういうことなんだろう。
 昨夜実弥から言われたことを思いながら、まだ寝起きでぼうっとする頭のまま洗面所へ向かったは、鏡を見て気づいた。
 ――これって昨日の、玄弥の……。
 首筋や鎖骨に点々と浮き上がる赤い痕。慌てて指で擦るが、当然消える気配はない。

「どうしよう……」

 いつもより起きるのが遅くなったせいで、キスマークの隠し方を調べる時間もない。それでも、髪を下ろしてブラウスも第一ボタンまで閉めれば、どうにか隠すことができそうだった。
 朝食もそこそこに、これで今日をやり過ごせば明日は休みだと言い聞かせながら、転がるように家を出る。電車内での視線がすべて自分の首に向けられているのでは、と思うほど、人の目に過敏になっていた。
 学校に着く頃にはすでに疲れきり、もう帰りたいと思いつつ教室のドアを開けて、また気づいた。一限目は、体育だ。

さん大丈夫? 今日はまた一段と顔色が悪いみたいだけど」

 力なく席に着くと、隣の炭治郎が心配そうに声をかけてくる。そのブラウスの襟元から覗く体操服に、は、はあ、とため息を吐いた。一限目が体育の日には、大抵の生徒が制服の下に体操服を着て登校する。たとえ朝礼が長引いたとしても遅刻は一秒たりとも許さない。そんな冨岡義勇が後に控えているからだ。

「大丈夫だよ」
「本当に?」
「本当に」
「うーん、そうか。具合の悪そうな匂いはしてるんだけど……」
「えっ、やだ、本当に大丈夫だよ」

 匂いを嗅がれるのは恥ずかしい、と身を小さくするに、炭治郎はまた「うーん」と唸りながら首をひねる。

さんはいつも大丈夫って言うからなぁ」
「……竈門くんもそのタイプだと思うけど」

 まあ俺は長男だから、と笑う炭治郎に、もつられて微笑む。そうしていると、教室の引き戸が開き、担任の悲鳴嶼が「着席しなさい」と入ってくる。

「無理はしないようにね」

 そんな炭治郎の言葉に、はこくりと頷くのだった。


 クラスメイトのほとんどが体操服を忍ばせて登校していたせいか、単に自身が周囲を警戒してもたついていたせいか、更衣室に取り残されたのはただ一人だった。
 首の痕を誰かに見られたら、なんて言われるか分からない。体育が終わったら、トイレで着替えよう。そんなことを考えながら時計を見上げると、本鈴まであと五分を切っていた。
 まずい、まずい、と焦りつつジャージに袖を通し、ジッパーを顎下まで引き上げる。ロッカーの鏡で首元が完全に隠れたことを確認すると、「よし」と安堵の息を吐き、更衣室を飛び出す。
 階段を滑るように駆け下りていると、踊り場で人影が揺れているのが見えた。

「――あ……」

 そう漏れたの声に振り返ったのは、杏寿郎だった。

「一限目は体育か」
「……はい」
「今日は風が冷たい。体調を崩さないようにな」

 そう言って、の姿をじっと見つめる。その視線が首筋に向けられている気がして、はとっさに襟元に手を当てる。ジャージで隠れているはずだが、この人には見抜かれてしまうのではないかと思ったのだ。

「喉が痛むのか?」
「え? いえ、あの、大丈夫です……」
「これをあげよう。他の生徒には、俺から貰ったとは言わないように」

 杏寿郎はそう言って、ポケットから取り出したものを差し出す。

「手を」

 言われるままが手のひらを出すと、杏寿郎はそこへ飴を一つ落とした。はちみつのど飴と書かれた袋をまじまじと見つめているに、杏寿郎は言った。

「本当に大丈夫なら、それに越したことはないが。あまり無理をするんじゃない」

 ふと、杏寿郎の言葉と、炭治郎の言葉が重なる。
 ――私はそんなに、大丈夫じゃなさそうな顔をしているんだろうか。
 確かに、入学してからこれまで、いろんなことがあった。たくさんの思いを抱えて、晴れることのない霧の中をあてもなく歩き続けてきたような、そんな感覚。

「無理なんて……」

 無理をしていたのは、何に対して? 霧が晴れないことではなくて、霧を晴らさないようにし続けていたこと――?
 頭の奥底が、ずきんと疼いた。ちょうどそのとき、校舎内に本鈴が響き渡る。はハッと顔を上げると、踊り場の窓からグラウンドを見おろす。竹刀を片手に持った体育教師が、グラウンド中央に集まる生徒たちへと向かっているところだった。

「体育の授業に遅刻した場合、グラウンドを十周させられると聞いたが」
「……頑張ります」
「だが無理は――」
「しません。私は大丈夫ですよ、先生」

 本鈴が鳴り止むころには、頭の疼きも治った。「そうか」と口角を上げる杏寿郎に、は頭を下げる。

「気に掛けていただき、ありがとうございました」

 面食らったように目を丸くした杏寿郎だったが、顔を上げたの柔和な表情に、ふっと笑う。

「こちらこそ、君には感謝している。ありがとう」

 胸につかえていたものが取れたような、そんな、どこか晴れやかな笑みだった。



 放課後の教室には、帰宅部の女子生徒が数人、机を囲んで談笑している。はそんな彼女たちから少し離れた窓際で、外を眺めていた。時折スマートフォンに視線を落としては、ため息を吐く。いつもなら、部活に来ないのかと玄弥から連絡が入る頃だった。しかし今日は一度も、彼の姿を見ていない。学校を休んでいるのかと思ったが、下駄箱には靴があった。くたびれた玄弥の靴を見ながら、唇を結ぶ。あんなに近くにいたのに、今はとてつもなく遠い存在のように感じた。
 スマートフォンから目を離し、また外を見る。中庭の桜木はすっかり葉も落ち、冬支度をはじめていた。  
 あの木に満開の花が咲いていた日。入学式の、あの日。怪我をした鳥を、煉獄先生と見守った。玄弥が、迎えに来てくれた。
 ――玄弥。

「……玄弥?」

 心の中の呟きが、そのまま口を突いて出た。それは気持ちがあふれたからではなく、桜木の下に、玄弥の姿を見たからだ。



「玄弥!」

 振り返った玄弥の目はどこか腫れていて、髪はセットしてないのか、いつもと雰囲気が違う。そんな姿にが口ごもっていると、玄弥は顔を背けた。

「なに普通に話し掛けて来てんだよ。怖ぇんじゃねーの、俺のこと」

 自嘲的に笑う玄弥に、は少し間を開け、まっすぐに言った。

「怖くはないよ」

 そうしてわずかに声を落とし、

「ただ、少し気まずいだけ……」

と無意識に襟を寄せる。玄弥はそんなの首へと視線を向け、呟くように言った。

「お前を縛りつけてんのは、俺なんだよな」

 その言葉に、は唇を噛み、首を横に振る。その鼻が次第に赤らんでいくのを、玄弥は黙って見つめていた。しかし不意に一歩踏み出すと、立ち尽くすへと近づいていく。

「見せて」

 玄弥の手が伸び、首を覆っていた柔らかな髪を、すっと後ろに流す。そうして現れたの白い首筋に、玄弥は静かに言った。

「もう消えてる。もう、大丈夫だから」

 最後はまるで、自分に言い聞かせるかのようだった。

「……玄弥」

 は、離れようとする玄弥の腕を掴む。の黒褐色の瞳は涙に覆われ、夕陽を受けて輝いていた。
 の頬を伝っていく涙に気づき、玄弥は手の甲で自分の口を押さえる。その目にもまた、涙が浮かんでいた。

「俺は前世のことなんざ思い出せねぇ。けど、これだけは思うんだ」

 声を絞り出すように、あふれてくる思いを必死に堪えるように、玄弥は続ける。

「もう泣いてほしくない。大切な人には、幸せになってほしい」

 そこまで言うと、口元から離した手をの頭へ乗せた。

「笑ってろよ、お前は」

 にかっと歯を見せて泣き笑う玄弥に、は唇を震わせる。そうして、声を漏らして泣いた。

 ――晴れることはないと思っていた霧の向こうに、見えてきたものがある。そのことに気づいたから、涙があふれて止まらなかった。
 きっと最初から、そこにいた。霧に覆われて見えないふりをしてきた。でもその人は、きっと、ずっと、そこにいた。いてくれた。
 立ち込めていた霧が晴れていく。その向こうに浮かび上がってきたのは――。






(2022.01.22)

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