「なあ、これなんだと思う?」

 家に上がった途端、リュックから取り出した袋を突きつけると、玄弥はそう言って得意げな笑みを浮かべた。

「えっ、うそ、それは……」
「肉汁が親の仇のように飛び出してくると噂の」
「志津さん特製、爆弾餃子……!」

 保存袋に詰められた冷凍餃子に、私の視界には光が舞った。玄弥は「さっそく焼こうぜ」と笑いながら、洗面所へ向かう。志津さんの作るこの餃子が好きだった。飛び出す肉汁で何度も舌を火傷したけれど、それでも病みつきになるこの味がそろそろ恋しくなってきた頃だったので、胸が高鳴るほどに嬉しい。

「ごはん炊くー?」
「え、いいのかよ」
「もちろん」
「自分の食う米ぐらい持ってくりゃ良かったな」
「そんなちっさいこと気にする仲じゃないでしょ」

 それもそうか、と玄弥は笑う。

「なんだかんだ、こっちに来て家で一緒にごはん食べることって、まだなかったもんね。いつも外で済ませちゃって」
「だな。そうやってると金がすぐなくなるから、ちゃんと自炊もしねぇとなあ」

 この春から大学生になった私たちは、県外にある同じ大学に進学した。玄弥は寮、私は下宿で、それぞれ住む家は違うけれど、自転車で五分もかからない場所に住んでいた。玄弥は男子寮なので気軽に遊びに行くことはできない。なので、こうして私の家で過ごすことが多かった。

「今日は泊まっていく?」

 洗面所から出てきた玄弥に、ストレートにそう訊いてみた。案の定、玄弥は耳まで真っ赤にして俯いてしまう。頻繁に遊びに来るのに、玄弥が家に泊まったことはまだ一度もない。今時めずらしく門限があるらしく、その時間が迫ると、じゃあまた、と言って帰って行くのが常だった。

「ま、考えといてよ」

 くすくす笑いながら、箱から炊飯器を取り出す。その姿に目を留めた玄弥が、訝しげに首を傾げる。

「そうやって毎回箱に戻してんのか?」
「ううん。初めて使うから」
「……は?」
「え? だって白ごはんってあんまり食べないから。パン派だもん」

 まあ、そっか。玄弥はこくこくと小さく頷くと、「俺が炊こうか?」と言う。なんだか信用されていない気がして、私がやる、とムキになって答えた。

「何合食べる?」
「あー、結構腹減ってるから……」
「じゃあマックスね。三合かな」

 任せてよ、と腕をまくり、米を掬う。そうして炊飯器の釜に入れていると、

「ちょっ、おいおいおい、どんだけ入れんだよ米!」
「え? だって三合でしょ?」
「そのメモリは水の量だから!」
「……は?」

 ここ最近で一番の衝撃だった。内釜のメモリに記されている数字のところまで米を入れればいいんだと思っていた。実家にいた頃、仕事で忙しい母も、食事だけはいつも用意してくれていた。だから、ご飯を炊いたことなんて一度もなかった。

「……そんなかわいそうな子みたいな目で見ないで!」
「見てねぇよ! とんだ箱入り娘だと思っただけで」

 眉間に皺を寄せて、「じゃあ三合とは」とぼやく私に、玄弥は噴き出すように笑った。

「その手に持ってるのはなんだよ」
「これ? お米掬う用のコップとかなんとか」
「そうそう。それ一杯で一合な」
「……またまたぁ。それだと少なすぎるでしょ」
「膨らむんだよ米が。水吸って。お前あれだな。食うことは好きなくせに、作る知識はねぇのな」

 玄弥が面白そうに言うので、そのお尻を叩いてやった。けれど思っていた以上に硬くて、私の手の方がダメージを喰らってしまった。
 ああだこうだ言いながら炊飯器をセットし、頃合いを見て餃子を焼く。これは玄弥に一任した。「スープも作るか」と、慣れた手つきで卵を割るその姿を横目に、いつか絶対に見返してやると決意した。ふっくらつやつやに炊けたご飯に、コク深い味噌汁を添えて、味が染み尽くした……なんだろう、肉じゃがとかを作って、お前には勝てないわ、と言わせたい。

「なーにメラメラしてんだよ」

 ぽんっと頭に手が置かれる。ハッと我に返ったように視線を上げると、玄弥が淡く笑んでいた。

「ほんと、お前って負けず嫌いだよな。大人しく、玄弥くんすごいね、さすがー! って褒めときゃいいのによ」
「……負けず嫌いなかわいげのない女ですみませんね」
「まあ、そういうとこもかわいいんだけどな」

 えっ、と思わず頬が緩む。それを見た玄弥がニヤリと笑う。

「単純」
「……やだ! 嫌い!」

 ふいっと顔を背けると、体を引き寄せられた。玄弥は片手で鍋をかき回し、もう片方の腕を私の腰に回して、

「かわいいやつ」

 と、余裕たっぷりに言うのだった。先ほど赤面していた人とは思えないほどの澄ましっぷりに、私は唇を結ぶ。けれど自分の耳が熱くなっているのを感じて、

「ばーか」

 苦し紛れにそれだけを言うと、降参したように笑ってしまった。

 
 焼きたての餃子を、炊きたてのご飯にワンバウンドさせて「おいしい、熱い」と頬張りながら、テレビで流れるクイズ番組に向かって、我先にと回答し合う。玄弥は私が正解すると「よく分かったな」と目を輝かせながら感心してくれる。かわいいのは玄弥の方だ、と心の中で叫びながら、「まあね」と平静を装った。最初は具の熱さを警戒して慎重に食べていたけれど、次第に食べやすい温度まで下がったため、火傷を恐れずに頬張った。ら、プシューッと飛び出した肉汁が、玄弥の横顔を濡らしてしまった。

「ああっ、ごめん! 大丈夫? 火傷してない?」

 ティッシュを幾重にも取り、玄弥の顔を擦るように拭う。その勢いになされるがままの玄弥だったが、

「大丈夫だから」

 と、私の手を掴んだ。そして、何がどうしてそうなるのか分からないけれど、彼はそのまま私を床に倒してキスをした。玄弥の髪が顔に落ちてきて、くすぐったい。

「……あのよ」
「はい」
「前に、無理やりそういうことしようとしたこと……あっただろ」

 少し間を空けて頷くと、玄弥は苦しそうに言った。

「だから、怖ェんじゃないかって」

 我を失ったように首や鎖骨にキスを落とした、あの日のこと。玄弥の中でその一件がくすぶり続けているのであろうことは、なんとなく察していた。

「怖いのは玄弥の方なんじゃない?」

 玄弥はぐっと唇を噛み、その短い眉を寄せた。
 差し伸べられた手を払い退けたことが、何度かあった。あの時もそうだ。玄弥の縋るような手から逃げた。打ちのめされたような玄弥の顔が忘れられない。
 今すぐ目の前にいる玄弥は、瞳を少し潤ませ、もう私が逃げていかないか自信なさげにうかがっているようにも見えた。そんな姿が愛おしくて、その首に腕を回し、ぐっと引き寄せる。

「もしかして、家に泊まらなかった理由ってそれ?」
「……ああ」
「門限があるっていうのは?」
「嘘です。ごめん」
「ねえ、もう。隠し事はしないって約束でしょ? 嘘もダメ絶対」

 ごつん、と額をぶつけると、玄弥は「いてぇ」と顔をしかめた。

「もう拒んだりしないよ」

 そのまま、唇を尖らせる玄弥にキスをした。恐る恐る舌を絡ませるうちに、深く貪るような口づけへと変わっていく。もっともっとと体が叫ぶ。でも、未知の世界に足を踏み入れる怖さもある。だから、息を継ぐタイミングで、玄弥の口に手を当てた。

「でも今夜はおあずけ。門限のこと嘘ついてた罰です」

 はい、そこをお退きなさい。そう言って玄弥の胸を叩くと、彼は少し考えるようにしたあと、ゆっくりと体を横に動かした。上体を起こした私は、皿に残っていた餃子と玄弥特製スープを黙々と食べはじめる。

「怖ェの?」

 顔を覗き込んで来た玄弥は、先ほど「怖いんじゃないか」と問うてきた時とはまるで違う表情をしていた。目を細め、口元には笑みを浮かべている。言葉に詰まっていると、

「大丈夫。俺もおんなじだから。ほら」

 と、私の手を取り、自分の胸に押し当てる。

「心臓バックバクだろ?」
「……ほんとだ」

 な、と底抜けに明るい笑顔を見せる玄弥に、私もつられて笑ってしまう。玄弥は後ろから私の肩を抱くようにして腕を回すと、耳元で囁いた。

「泊まってく。いいか?」

 こくりと頷けば、ホッとしたように息を吐く。

「でも、おあずけは変わらないよ」
「まじかよ」

 厳しい、とうな垂れる玄弥に、笑いがこぼれてしまう。玄弥はそんな私に横目をやると、

「まあいいけど。そういうこと目当てで付き合ってるわけじゃねーし」

 と、皿に手を伸ばす。この人、最後の一個を狙っている。そのことに気づいた途端に、私の体も動いた。けれど腕の長い玄弥の方が圧倒的に有利で、餃子はあえなく彼の手に渡ってしまった。口に運ばれるまでがスローモーションに見える。今ここで餃子を奪おうとしたら、床に落ちてしまうかもしれない。それなら――。

「ン……ッ!」

 今まさに餃子を頬張らんとするその口を、唇で塞いだ。

「油断大敵」

 舌を出してそう言うと、呆気に取られる彼の片手に摘まれた餃子をぱくりと食べた。咀嚼しながら反応をうかがうように見上げると、玄弥はやっと魂が戻ってきたような顔をして、ぼそりと呟くのだった。

「……覚えてろよな」

 ――未知の世界に入るのは少し怖い。でもそれは玄弥も同じこと。二人なら、玄弥となら、きっと怖さで立ちすくむことはない。

「覚えてられるかなあ。自信ないや」
「余裕ぶってられんのも今のうちだからな」
「はいはい、善処しまーす」
 
 はたしておあずけを喰らった玄弥は、言葉通りに待てができたのか。すべての答えは、明日の私が知っている。



- 完 -

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