「今週末、先生のおうちにお邪魔してもいいですか」

 社会科準備室に入ってすぐ、なんの前置きもなしにそう言えば、煉獄先生は顎を少し上に向けたっきり動かなくなってしまった。
 先生と付き合い始めて、もうじき三カ月が経つ。先生の言葉を借りれば、これはいわゆる結婚を前提にした交際。けれど関係性を表す言葉が変わっただけで、恋人らしいことはしていない。顔を合わせるのも学校のみで、二人の時間といえば、こうして放課後に社会科準備室でこっそり会うぐらいだった。

「俺の家に?」

 ようやく口を開いた先生は、声を潜めるように言った。私がひとつ頷くと、先生は目を瞬かせる。

「先生、もうすぐ誕生日ですよね。もし都合が悪くなければ、一緒にお祝いできたらいいなと思って……」

 先細りしていく私の言葉に呼応するように、煉獄先生の目は三日月のように細くなっていった。ああ、喜んでくれてる。嬉しくて仕方がないとき、先生は決まってこういう表情をする。私はその顔が、とてつもなく好きだった。

「都合が悪いはずがないだろう」

 楽しみにしている。そう言って、先生は私の頭をひと撫でした。


三日月と波(番外編)



 五月十日という日が来るのを、桜の散る頃から指折り数えていた。
 恋人として迎える初めての誕生日。何を贈ろう、どう過ごそう。相手が相手なので周りに相談するわけにもいかず、はじめはネットの知識に頼った。検索画面で「誕生日」の次に「彼氏」と入力したときには、そっか煉獄先生は私の彼氏なんだと実感して、嬉しさや気恥ずかしさから身悶えてしまった。
 そんなことをしながら収集したネット情報によれば、二十代の社会人彼氏へのプレゼントには、実用性のあるものはもちろん、ブランドものであればなお良しということらしい。とあるページで見たおすすめアイテムの一覧には、財布や時計など、値段の立派なものが列挙されていて、ボールペンでさえ一本一万円近くした。アルバイトもしていない高校生には、到底手が届かない。
 先生は何が欲しいんだろう。お財布は初任給で買ったもので、腕時計は就職祝いに両親からプレゼントしてもらったと話していた。ペンだっていつも業務用でまとめ買いしたようなものを使っている。そもそも先生がブランドものにこだわるような人だとも思えない。思案に暮れた結果、ネットに頼るのはやめにした。情報の渦に呑まれて、大切なものを見失ってしまいそうになったから。自分が先生に贈りたいものを、無理のない範囲で選ぼうと思った。
 プレゼントのことが一段落したと思えば、次は当日の食事が悩みの種になった。学校関係者に見られるかもしれないから外食はできない。先生は私と付き合い始めてすぐ「車があれば人目を気にせずに出掛けられるから」と言って教習所へ通いだしたけれど、まだ免許までは取れていない。人目につかず二人きりで会える場所とは、と考えあぐねた結果、先生の家にお邪魔しようと思い至ったのだ。


「大荷物だな!」

 地図アプリを見ながらたどり着いた五階建ての低層マンション。エントランス前には、きれいに手入れされたツツジの生垣があり、先生はその白や赤の花々を背景にして立っていた。両手に袋を提げる私を見つけると、大きく手を振りながら駆け寄って来た。

「重かっただろう。迎えに行けず申し訳ない」
「いえいえ。一人で行くと言い張ったのは私ですから」

 先生は最寄り駅まで迎えに行くと言ったけれど、道中で誰かに見られたらと不安がる私の気持ちを汲み取って、こうして家の前で待っていてくれたのだ。
 エレベーターで五階まで上がると、先生は廊下の突き当たりにあるドアへと鍵を差し込む。先に中へと入った先生は、ドアが閉まらないように肘で押さえながら、「入ってくれ!」と口角を上げた。

「……お邪魔します」

 玄関へ足を踏み入れた途端、煉獄先生の香りが鼻腔から肺いっぱいに広がった。靴箱の上には、剣道の大会で貰ったものなのか盾やトロフィーが並び、その傍らには、ガス代か電気代の検針表が無造作に置かれていた。あまりまじまじと部屋の中を見るのも失礼だからと、湧き上がる好奇心を抑えつけながら靴を脱ぎ、脇目も振らずただ先生の後を付いて行く。
 廊下を抜けると、キッチンとリビングがあった。先生はソファの前のローテーブルに袋を置くと、「少し休むか?」と言った。私は促されるままソファに腰を掛ける。

「座り心地はどうだ」
「あっ、すごく良いです。柔らかすぎず、硬すぎずで」
「そうか! それはよかった」

 先生は安堵したように頷くと、そのままキッチンへと向かう。そんな先生の背を見送りながら、ふと鼻に届いた匂いに目線を下げる。

「あれ? このソファって……もしかして新しいですか?」

 鼻の奥を少しツンと刺激するような、新品独特の匂いがしたのだ。先生は対面式キッチンの向こうから「よく分かったな」と返した。

「君が家に来るからと思って買ってみたんだ」
「……え? 今日のためにわざわざ?」
「座る場所がないと落ち着かないだろう」

 聞けば、今までソファは置いておらず、実家から持って来た椅子をカウンター前に置いて食事をしたり、テレビを見たりしていたらしい。あまり自宅でゆっくり過ごすこともないから、ソファの必要性も特に感じていなかった、と。なんだかそれも煉獄先生らしくて、椅子にちまっと座って過ごす先生を想像し、私は噴き出すように笑ってしまった。

「ありがとうございます。お陰さまで快適ですよ。うっかり長居しちゃいそうなぐらい」
「うむ! いくらでも居てくれて構わないぞ」

 ぱあっと目を輝かせた先生に、私は息を漏らすように笑った。
 コップは、と言いながら戸棚を開ける先生の姿に、前に母が「対面式キッチンに憧れる」と話していたことを思い出す。家族の様子を見ながら料理ができるから、と。冷蔵庫からお茶を取り出し、コップへ注ぐ煉獄先生を見つめていると、視線に気づいたのか先生は「ん?」と首を傾げた。

「どうかしたか? トイレなら廊下に出て右手のドアだ。眠たければ横になって一眠りするといい。暑いなら冷房を――」
「あ、いえ、その……」
「なんだ、どうした」

 先生は両手にコップを持って近づいて来る。眉間に寄った深い皺に、きっとごまかしは利かないだろうなと思い、私は頭の中でぼんやりと考えていたありのままを伝える。

「私もいつか家庭を持ったら、こういうキッチンがいいなと思って……」

 先生は後ろを振り返ってキッチンを見やったのち、私の方へと顔を戻し、瞬きを繰り返した。

「そうか」

 コップを一つ手渡すと、先生は私の隣に腰をおろす。そうして、和めた目で言うのだった。

「君はたまに大胆な発言をするな」

 その言葉で初めて、自分が将来を思わせるようなことを言ったのだと気づき、顔から火が出そうになった。私は「そうだ!」と取り繕うように声を上げ、バッグから小包みを抜き出す。

「あの、これ……ささやかですがプレゼントを……」

 まさかプレゼントを貰えるとは予想していなかったのかもしれない。もしくはタイミングの問題か。先生は驚いたように口を開けたまま、包みをじっと見つめていた。開けてくださいと促せば、うむ、と神妙に頷いて封を切る。反応を見るのが恐ろしい気がして、私は無意識のうちに薄目になっていた。

「手拭いか!」
 
 輪郭がぼやけた視界の中でも、先生が口を笑わせたことは分かった。私は目を開き、先生が無理して嬉しいフリをしているのではないかと、今度はまじまじとその横顔を観察する。

「剣道の稽古でも使えるかなと思って……」
「そうだな! これはありがたい贈り物だ」

 弾む声に、胸の内でこわばっていたものが途端に緩むのを感じた。先生は嬉々とした様子で手拭いを広げる。

「青海波か。いい柄だな」

 茜色の青海波があしらわれた手拭い。店頭で見つけたとき、今の私が先生に贈る物はこれしかないと思った。

「私もこの柄が好きで……自分用に色違いを買ってしまいました」

 バッグから取り出した露草色の手拭いを見せると、先生は「お揃いか!」とその顔をいっそう華やがせた。

「青海波の模様の意味を知ってますか?」

 先生は「意味?」と首を傾げる。

「無限に広がる穏やかな波のように、平和な暮らしがこの先もずっと続きますように。そんな願いが込められてるらしいんです」

 高価なものでも、ブランド品でもないけれど。先生への想いを乗せるには充分だと思った。
 先生は私の肩を抱き寄せると、こちらを覗き込むようにしながら静かに言った。

「続くに決まっている。俺は未来永劫、君のそばにいるつもりだ」

 次第に近づいてくる顔に、私は目を閉じる。ぬくもりが口先から喉を伝い、体の中心へと流れ落ちていくように思えた。不安も恐れも溶かしてしまうこの熱に身を委ねそうになるのを堪え、私はそっと先生の胸を押す。

「……これ以上のキスは、頭が沸騰しちゃうからだめです」
「だめなのか? 本当に?」
「だって、そしたら食事の用意ができなくなりますもん」

 先生は「分かった」と言いつつ、もう一度軽くキスを落としてきた。悪戯に笑むその顔に、胸がぎゅうぎゅうと締め付けられる。
 ――だめだ、正気を保てなくなってしまう。

「わっ、私、準備を……キッチンお借りしますね!」

 テーブルに置かれていた袋を持ち上げ、逃げるようにキッチンへと向かう。そんな私を見て、先生は喉奥をくつくつと鳴らしながら笑っていた。


 今までまともに料理をしたことがない。包丁を握ったのは家庭科の調理実習ぐらいで、家では母に任せっきりだった。けれど先生の誕生祝いでは、自分で作ったものを食べてもらいたいと思った。
 献立は決めていた。いつか先生が好きだと言っていた鯛の塩焼きと、それに合いそうなものを何品か。大好物だというさつまいもの味噌汁には手を出せなかった。きっと瑠火さんの味で慣れているだろうから、比較されてしまうのが怖かった。きっと先生はそんなことしないだろうけれど。
 全て一から自分で作ってみようと意気込んで、試しに茶碗蒸しに挑んでみた。無事に失敗して意気消沈する私に、「初心者が一人で作るメニューではない」と母が手を差し伸べてくれたのだった。誰のために作るのか、母は聞かなかった。学校の先生と付き合っているとは言えない。でも私に恋人ができたということを、どこかで察しているような気もした。母はなんでもお見通しだ。

「うまそうだな! これは全部君が?」

 朝早くから母に加勢してもらって作った茶碗蒸し、鯛の塩焼き、手まり寿司。茶碗蒸しは家を出る直前に蒸し上がるように作ったので、まだぬくもりが残っていた。皿に並んだ品々を眺めて満足していると、カウンターの向こうからそんな歎声が飛んできたのだった。

「あっ、だめです! まだ見ちゃだめ!」
「それはすまない! だが妙に焦げたような匂いがしているから、どうにも気になってしまってな」
「……え?」

 一瞬の間を置き、ハッとしてコンロへと目を走らせる。フライパンと蓋の間から、ふしゅふしゅと煙が立ちのぼっていた。慌てて火を止め、蓋を開ける。そこで視界に飛び込んできたのは、ほんの十分前まで肉だったはずの黒い塊――。私は声にならない声を上げ、膝から崩れ落ちた。先生の底知れぬ胃袋を満たすためにと思って、この家に来る途中でステーキ肉を買ったのだ。事前練習をしなかったけれど、肉を焼くぐらいなら私にもできるだろうとタカを括っていた結果が、これだ。

「そう落ち込むんじゃない。俺もいつも肉を焦がしてしまう。これはなかなか火加減が難しいからな」

 先生は流しの方へと回り込んで来ると、肉だったものをまな板へと取り出して、焦げた部分を削ぎ落としはじめた。

「こうすれば問題なく食べられる! 見た目は少し変わってしまうがな」
「でも……きっと肉がすごく硬くなってて、おいしくないですよ……」
「君が手をかけたものはなんだってうまい!」

 うまい、という耳をつん裂くほどの声に、落胆して力をなくしていた体がびくりと跳ねた。私はおずおずと立ち上がり、お皿に肉を盛り付ける先生へと一歩、二歩と近づく。なんだか無性にそうしたくなって、その腰元へと腕を回し、大きな背中に顔を埋めた。途端に先生の動きが止まる。

「私、まだまだ料理が下手で……今日の食事も母に手伝ってもらったんです……」
「君が作ったことに変わりはないだろう」
「そうかもしれませんけど……いつかは全部、一から自分で作って……お肉だって上手に焼いて、ケーキも……」

 取り留めもなく話す私に、「ケーキも用意してくれたのか」と先生は言う。私はこくこくと頷きながら、カウンターに置いた白い箱を指した。
 母は毎年、家族の誕生日にケーキを焼いてくれる。スポンジは少しきめが粗いけれど、この食感がたまらないのだと、大食漢の父はよく言っていた。食べ応えもあるから、と。じゃあ、父と同じようによく食べる先生も「おいしい」と言ってくれるんじゃないか。そう思って、母からケーキの焼き方を教わった。でも私が一人でやると生クリームが泡立たないしスポンジも膨らまないので、これはほとんど母が作ったようなものだ。

「泣いているのか?」

 背中にくっ付く私の顔が熱を増したのだろう。そう問われ、私は頭を横に振る。

「悔しいんです……」
「そうか、なるほど。君は負けず嫌いなところがあるからな」

 先生は少し笑いながら、腰に絡まる私の腕を宥めるように撫でてくれた。

「一年に一品ずつ、自力で作れるように精進します」

 来年は鯛の塩焼き。これは先生の好物だからできるだけ早く作れるようになろう。次は茶碗蒸しで、その翌年は手まり寿司。ケーキは何年後になるだろう。

「……や、年に一品ずつじゃ遅すぎますよね」
「俺は全く構わない。君には君の速度があるだろう。それよりも俺は、君が当然のように毎年祝ってくれようとしていることが嬉しい」

 やさしく腕をほどくと、先生はこちらへ体を向ける。そうしてそのまま、私を抱き寄せた。

「当たり前じゃないですか。だって、未来永劫そばにいてくださるんでしょう?」
「ああ、そうだ」
「いつか先生がヨボヨボのおじいさんになって、年甲斐も食欲もないからもう誕生祝いはやめてって言ったとしても、私はずっとずっとお祝いしますよ」

 一緒に歳を重ねていけることの尊さを、知っているから。そう言うと、先生は眉を下げながら笑んだ。私は背伸びをして、先生の横髪を耳に掛ける。そうして両頬を手でそっと包み込み、その唇にキスをした。
 ――ああ、ほら、この顔。目を三日月のように細め、頬には喜びが波のように広がっている。嬉しくて仕方がないときの顔。きっと未来永劫、私にだけ見せてくれる顔。
 何度だって言う。私は彼のこの表情が、とてつもなく好きだ。

「誕生日おめでとうございます、杏寿郎さん」




(2022.05.10)

まだ初々しいので基本的には「先生」呼び。
たまに名前で呼ばれて胸がムギュッとなる煉獄先生だったり。そんな二人の五月十日です。
ハッピーバースデー、煉獄さん!


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